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[指定文化財][佐賀県][建造物]は6件登録されています。
指定文化財 佐賀県 建造物
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香椎神社四脚門 一棟
重要文化財
香椎神社は、安元3年(1177)ごろ、この地の地頭窪田因幡守藤原利常(くぼたいなばのかみふじわらとしつね)が、久保田村矢櫃の森という所に創建したが、天明ごろ現在地へ社地替えとなったと伝えられている。祭神は、神功皇后、応神天皇、住吉大神である。 この門は、神社境内に建つ1間1戸の四脚門で、神門あるいは楼門と呼ばれている。自然石を用いた礎石に角柱を建て、その柱に頭貫(かしらぬき)を通し、三斗(みつど)、実肘木(さねひじき)を組み、その上に桁を置いた簡単な構架である。屋根は切妻造の本瓦葦である。 しかし、その意匠は雄大であり、蟇股(かえるまた)やその他の彫物には、桃山時代の特徴である華麗かつ豪壮の余韻も認められる。この門の建立年代についての記録はないが、構造様式からみて、江戸時代初期ごろのものと推定される。 なお、全体的に荒廃の度がひどかったが、昭和37年に解体修理が施され、腐朽材は取り替えられ、後世の付設部分も取り除き、一新された。 県内には、この時期の様式を今に伝える木造の建造物はたいへん少ないことから、この神社の四脚門は貴重である。
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銅造明神鳥居 寛永十七年の銘あり 一基 (大堂神社)
重要文化財
大堂(おおどう)神社は、弘安2年(1279)創始と伝えられている。 この銅造鳥居は、大堂神社の三の鳥居(寄進時は一の鳥居)とされ、寛永17年(1640)の造立銘をもつ県内唯一の鋳銅製の明神鳥居である。 高さ4.78メートル、笠木の長さ6.87メートルである。笠木(かさぎ)はゆるやかに反りながら両端で厚みを増す。木鼻(きばな)は斜めに切れる。柱はほぞのある鋳造円筒を4個積み上げている。2段目までは砂をつめているが、その上部は空洞である。基部は円形の台石に乗る。 笠木・島木(しまぎ)・および貫(ぬき)はいずれも、厚さ約1.5センチメートルの長方形の銅板を鋲止めにした箱状のものを3本継にし、継目に幅広の薄い銅板を巻いて造り上げている。また、笠木の上面を、薄くて細長い銅板を横継ぎにして覆っている。笠木と島木の芯には松材が使用されているが、貫は不明である。 正面には、銅板押し出しの杏葉紋の額束をかかげ、笠木の両端には十六弁の菊花紋、島木には杏葉紋がそれぞれ配されている。 この鳥居は、島原の乱に出陣した小城藩初代藩主鍋島元茂が、戦勝祈願成就に寄進したもので、左柱には、次のような銘が陰刻されている。 寛永十七年庚辰年二月十五日 大願主 従五位下鍋島紀伊守 藤原元茂(以下略)。
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与止日女神社西門 一棟
重要文化財
与止日女神社の創建は欽明(きんめい)天皇25年(564)と伝えられ、『延喜式神明帳』に「与止日女神社」とみえる。応保年間(1161~1163)肥前国一の宮になり、弘長(こうちょう)元年(1261)正一位を受け、明治4年(1871)県社となり、「与止日女さん」として人々に慕われている。 本殿西北方に西門と称する本瓦葺き、切妻造りの四脚門がたつ。 実相院文書中の棟礼(むなふだ)写しによれば、元亀4年(1573)の建立である。垂木は一幹、疎垂木である。妻は虹梁蟇股(こうりょうかえるまた)式で破風(はふ)には、ひれ付、拝懸魚(おがみげぎょ)、降懸魚(くだりげぎょ)、これらに木製菊形の6葉が飾られている。蟇股は彫刻のない板蟇股である。正面・背面の梁(はり)上の中備(なかぞな)えにも板蟇股を配し、中央の真束(しんづか)は角形である。 親柱は、円柱で、冠木(かぶき)を受け、脚部には唐居敷(からいしき)が付く。控柱は大面取りの角柱で、親柱と頭貫(かしらぬき)・腰貫(こしぬき)で固め、柱頭に大斗(だいと)、肘木(ひじき)を置く。親柱の外側は10センチメートル程度、平らに削られていて、ほぞに穴や釘跡がないので、おそらく門の両側に土塀か、石塀があったのかもしれない。 県内では最も古い時期の社寺建築で、価値が高く貴重な遺構である。
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実相院仁王門 一棟
重要文化財
実相院は、寛治(かんじ)3年(1089)、河上神社(与止日女神社)の僧円尋(えんじん)が、その裏山を開き御堂を建てたことに始まると伝えられている。真言宗御室(おむろ)派に属する。 与止日女神社西門から出て、石段を登るとこの仁王門がある。3間1戸の八脚門である。基礎は円形に近い不定形の花崗岩自然石で凝灰岩の布基礎で連結している。太い円柱を建て、これらの上部に三斗(みつど)、肘木(ひじき)を置く。また、下部を貫でつなぐという構架である。屋根は入母屋造り、桟瓦葺(さんがわらぶき)(本来は本瓦葦)。妻飾りは豕扠首(いのこさす)で、全体的に古めかしい。 天井は、小部屋部分は竿縁天井、門の部分は組入天井となっている。 この門の両妻部を板壁、両脇部の正面と内側の上半を格子として、その内部に仁王尊像を安置している。 仁王門の建立年代についての記録はないが、門に掲げられている「神通密寺」の額に「寛永二十年」(1643)とあり、門もこの頃とされている。屋根瓦、棟木、棟束、一部の間仕切り壁、格子などは後補のものだが、主要部分は建築当初の用材で、江戸時代初期のものである。県内に、この時期の様式を今に伝える木造の建造物はたいへん少ない。
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高伝寺釈迦堂 一具 木造釈迦堂 一基 厨子入木造釈迦如来及両脇侍像 三躯
重要文化財
高伝寺本堂に安置されている釈迦堂は、正面1間、側面1間の総欅(けやき)造りで生漆を塗って仕上げている。構造は正面入母屋造り、軒唐破風で妻入り、背面は切妻造りで柿葺(こけらぶき)となっている。柱は上端・下端が中央部に比して細くなっている。建具は桟唐戸で上下を藁座で受けている。 この釈迦堂は、本堂左の三間の室内中央に据え置かれているが、室内の柱間は中央を広く、左右を狭くとっていて、明治建築である本堂が釈迦堂に合わせた設計であることがうかがえる。 厨子は、外側を黒漆、内側を金泥塗りとし、釈迦如来像の頭上に天蓋(てんがい)を吊るしている。 釈迦如未像は、像高42.7センチメートル。脇侍像は、文殊(もんじゅ)菩薩と普賢(ふげん)菩薩で、像高は51センチメートルと50センチメートルを測る。3体とも木造の一木造り、玉眼、素地仕上げ。本体と台座、光背までを赤栴檀(しゃくせんだん)と伝える硬質の広葉樹で作っている。各像の光背には承応(じょうおう)4年(1655)に京の仏師宗仁(林長右衣紋衛門尉国次)陰刻銘がある。 赤栴檀御仏像之書物や鍋島勝茂判物類は、高伝寺釈迦堂が承応4年に制作されたことやそれに至る経緯などが記されている。 釈迦堂は、その制作年代や経緯が明らかで保存状態も極めて良く、近世初期の基準作品としてその価値は高い。 厨子入木造釈迦如来及び脇侍(きょうじ)像は、漆箔や彩色を施さない檀像で、正当な作風と的確な彫技が認められるもので、近世初期の作品として優れている。
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石造肥前鳥居 慶長八年の銘あり 一基
重要文化財
本庄神社の二の鳥居とされる肥前鳥居は、神社の門に通じる石橋の前に建てられており、慶長8年に鍋島直茂によって建立されたものである。 高さ3.8メートル、笠木(かさぎ)の長さ5.15メートルで、笠木と島木および柱・貫(ぬき)はいずれも三本継となっている。島木は形式化して笠木と一体となり、木鼻(きばな)はゆるやかに反っている。柱の上端に台輪があり、下部になるにつれて次第に太くなり基部は埋め込まれており、肥前鳥居の形式をよく備えている。 県内に広く分布している石造肥前鳥居は、地方色のある鳥居として注目されているが、本庄神社の烏居は、古い造立銘を有する鳥居のひとつとして価値が高い。 両柱には、次のような銘が陰刻されている。 大日本國鎮西肥前州佐賀郡与賀荘 本荘淀姫大明神奉建立石烏居二柱 大徳本主鍋鳴加賀守豊臣朝臣直茂 慶長八年癸卯九月廿八日 (願文略)