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[指定文化財][佐賀県][久保泉校区]は6件登録されています。
指定文化財 佐賀県 久保泉校区
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関行丸古墳
史跡
脊振山南麓の狭い扇状地上に立地する。東に神籠石(こうごいし)で知られた帯隈山(おぶくまやま)、西に139.5メートルの山丘によって囲まれた平地に位置する前方後円墳である。昭和32年(1957)に佐賀県教育委員会、九州大学が発掘調査を実施した。後円部径35メートル、周囲の水田面からの比高差4.5メートル、幅13メートル、高さ1メートルで主軸の方向は西25度南である。葺石(ふきいし)・埴輪(はにわ)などの外部施設は認められない。 内部主体は短い羨道(せんどう)をもった単室の横穴式石室で後円部にあり、北側くびれ部に向かって開口する。石室は長さ4.35メートル、幅2.8メートル、高さ2.65メートルで、奥壁の方が前の部分より約0.8メートル広い。側壁の架構は腰石の上に比較的小型の塊石を平積みにしてせり上げている。石室内は石障(せきしょう)によって区画された3つの屍床(ししょう)がつくられている。1つは北側にあって東西に長く、他の2つは西側にあって南北に長く、奥壁に平行して前後に並列している。3つの屍床には計5体の遺骸が埋葬されていた。石室内は天井部と羨道部を除いて、屍床から床石に至るまですべて鉄丹(に)が塗られている。羨道の幅は玄室に接するまで1.2メートル、開口部が2.2メートルで「ハ」字状に先開きである。 副葬品は、鏡4面、金鋼製冠帽、貝輪、勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、小玉、鉄鏃(てつぞく)、刀子(とうす)、辻金具、鋲(びょう)金具、三環鈴(さんかんれい)等が出土している。当古墳は6世紀初頭ごろの築成と考えられる。
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木造大日如来坐像 一躯 附 大日如来由来記 一巻、木札 六枚
重要文化財
妙福寺は、臨済宗、東福寺派で開山は円鑑禅師の高弟の大道一以大和尚である。 本尊の大日如来は、定朝様を忠実に受け継ぐ面貌の表現や一木造りの構造からみて、制作の時期は11世紀の後半と考えられる。作風は中央の様式をよく伝えて優れており、半丈六(仏像の大きさの基準となる1丈6尺の半分)の大きさは県内の平安仏では最大で像高164センチメートルである。 また、同寺には本像にまつわる由緒が伝えられており、恵心僧都源信の作とする。伝説的要素が強いものの、本像の制作の背景に天台宗の源信に係わる信仰が係わっていた可能性をうかがわせる点、脊振山系の仏教文化を考えていく上で興味深い。像の背面には鍋島勝茂の名を記す朱銘が残っている。修理の際のものと思われるが、勝茂の信仰あるいは文化事業の一環としてとらえるべきであろう。 本像は平安文化を伝える美術品として優れているばかりでなく、肥前仏像史上でも重要な位置を占めるものと考えられる。
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西原古墳出土石製表飾遺物 一個
重要文化財
西原古墳は脊振山系南麓の低丘陵上に築造された、横穴式石室をもつ全長約60メートルの前方後円墳である。 ここからは「石人・石馬」といわれている石製表飾遺物が出土しており、県内では唯一現存するものである。造営時期は、埴輪などから5世紀後半ごろと推定される。 この石製品は、基部を欠き、中央部には個人の庭石に使われていた際に開けられた二次的な孔が施されている。 残存長77センチメートル、最大幅46センチメートル、最大厚13センチメートルである。中央部には横帯を持ち、上部先端は両角とも欠損している。翳(さしば)・盾(たて)・靫(ゆき)のいずれかをあらわしたものである。 いわゆる石人・石馬は、古墳時代中期から後期にかけて北・中九州を中心に分布するものである。西原古墳のものは、その中でも初期の段階に属するものであり、地理的には最も西側で確認されたものである。
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丸山遺跡三号墳舟形石棺 一合(附)鉄剣二口 鉄矛一口 鉄刀子四口 土師器十点(四個以上)
重要文化財
丸山遺跡は、久保泉町大字川久保に所在し、狭い範囲に密集した竪穴式石室・横穴室石室・竪穴系横口式石室・舟形石棺・小石室といった多様な内部主体を持つ5~6世紀の古墳群に特徴づけられる。 3号墳は径13.8メートル、周溝まで含めると径16.6~16.9メートルの円墳で、墳丘上には葺石(ふきいし)を持つ。内部主体は墳丘中央部に直葬した1基の舟形石棺である。石棺は長方形の墓壙に埋置されていた。石棺内部には3体分の人骨が遺存していたほか、鉄剣2口・鉄刀子2点が副葬され、棺外には鉄矛1口・鉄刀子2点が置かれていた。また、墳丘上及び周溝内からは土師器甕・高杯・小型壷が出土した。これらの出土遺物から5世紀後半の年代が考えれられる。 石棺の石材は身・蓋ともに阿蘇熔結凝灰岩である。蓋は、全長232センチメートル、頭位幅114センチメートル、足位幅100センチメートル、高さ50センチメートルをはかり、いわゆる四柱屋根形をなし両方の妻には円柱状の縄掛突起が造り出されている。棟部には狭い平坦面を設け、屋根は直線的に周縁部に延び、平縁を有さない。身は、全長235センチメートル、頭位幅117センチメートル、足位幅104センチメートル、高さ56センチメートルをはかり、小口部には円柱状の縄掛突起が造り出され、周縁部には縁辺突帯がつく。側面はわずかにすぼまりながら安定した平底へ続く。内部は平面長方形にほぼ垂直に刳り込まれており、長さ181センチメートル、頭位幅74センチメートル、足位幅69センチメートル、深さ39センチメートルをはかる。蓋・身ともに内面は赤色顔料で塗彩されている。 この舟形石棺と同形式の石棺は、熊本県菊池川下流域と福岡県大牟田市周辺に集中して分布している。このことは佐賀平野と筑後南部・肥後北部との関連を示唆するものであって、5世紀後半における北部九州の社会・政治体制を検討するにあたって重要な資料と位置づけることができる。
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佐賀市花納丸古墳出土遺物 一括(附)花納丸古墳出土遺物の記録 一巻
重要文化財
佐賀市久保泉町大字川久保字上分にあった花納丸(かのうまる)古墳の出土品とそれら遺物の記録である。今日に伝わる遺物に変形文鏡1面、三環鈴(さんかんれい)1点、管玉(くだたま)11点があり、5世紀後半代に比定される。 記録では、天保11年(1840)11月に花納丸古墳が、破壊された折に、前記の遺物が石室の3隅から出土し、ほかに長さ45センチメートル位の鉄刀と鉄線をよって金メッキしたような釘が発見されたと伝えている。 変形文鏡は、面径9センチメートルの仿仿製鏡(ぼうせいきょう)である。背面の文様は、円座鈕(えんざちゅう)のまわりの内区に8個の乳(にゅう)を配し、各乳を双脚文(そうきゃくもん)が囲んでいる。その外に割り付けの乱れた複線波文・外向きの陽起鋸歯文(きょしもん)をめぐらし、縁は素文である。三環鈴は青銅製で、径3.8センチメートルの環体の三方に径2.7センチメートルの鈴が直接ついている。小型品に属する三環鈴であり、馬具の一種である胸繋飾(むながいかざり)とも推定される。管玉はいずれも碧玉(へきぎょく)製で、孔は片方から穿(うが)たれている。長さは2.3~3センチメートルである。 記録は二葉からなり、現在は巻子(かんす)に表装されている。1葉は、佐賀藩の儒学者、草場佩川(はいせん)(1787~1867)が書いた記録・考証と画家、歌人、古川松根(まつね)(1813~1871)の模写図を入れた版摺(はんず)りで、遺物が出土した翌年冬の刊行である。他の1葉は、佩川の草稿の写しである。記録の公表には国学者、南里有隣(1811~1864)も加わっている。これらは藩政時代の貴重な考古学的資料である。
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関行丸古墳出土遺物 一括
重要文化財
佐賀市久保泉町大字川久保に所在する関行丸(せきぎょうまる)古墳から出土した遺物である。関行丸古墳は、西南向きの全長55メートルの前方後円墳である。 関行丸古墳の内部主体は短い羨道(せんどう)をもつ横穴式石室で、後円丘の前半に位置し北側くびれ部に向かって開口する。石室は長さ4.35メートル、幅2.8メートル、高さ2.65メートルで、石室の奥側半分に板状の仕切石で3つの屍床(ししょう)を造り、各屍床から合計4体の人骨と副葬品が、また、石室の前半部と羨道部からも遺物が出土した。 第1屍床からは熟年~老年男性とともに方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)(径10.1センチメートル)、歩揺(ほよう)と魚形をとりつけた金銅製半筒形装飾具(長14.9センチメートル)1双1具などが出土した。奥壁に接した第2屍床からは若年1体(もう1体か)と、珠文鏡(径7.3センチメートル)、金銅製冠片・貝輪・刀子(とうす)・尖頭(せんとう)工具が、また第3屍床からは熟年~老年人骨と20歳くらいの男性人骨、変形文鏡(径7.6センチメートル)、珠文鏡(径8.8センチメートル)・勾玉(まがたま)・棗玉(なつめだま)・管玉(くだたま)・ガラス小玉・貝輪・刀子・鏃(やじり)・鞘尻(さやじり)状金具が出土した。石室前半の床面からは鏃のほか鉸具(かこ)・鋲留(びょうどめ)金具などの馬具類が、羨道閉塞(せんどうへいそく)の詰石(つめいし)近くから三環鈴(さんかんれい)などが出土した。三環鈴は、外形11センチメートルの大形のものである。中に入る鈴子もそれにふさわしく径2センチメートル前後の丸石である。 関行丸古墳は未盗掘墳であり、石室構造の特徴や鏡・金銅製品・貝輪・三環鈴などの出土遺物からみて紀元500年前後に築造・追葬されたもので、古墳文化を研究する上で価値の高い資料である。