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[指定文化財][佐賀県][大和町]は17件登録されています。
指定文化財 佐賀県 大和町
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大願寺廃寺跡
史跡
佐賀市大和町大願寺地区の五社神社を中心とする一帯にあって、文献記録に登場しない奈良時代の寺院跡である。立地は山麓に近い標高約25メートルの扇状地上、肥前国庁跡から嘉瀬川を挟んで西方約2.5キロメートルの距離にある。 現存する遺構は五社神社境内に建物基壇(きだん)が残り、礎石約50個がおよそ4地区に分散している。その範囲はほぼ2町四方(約200メートル四方)であり、布目瓦(ぬのめがわら)の散布も同じ範囲であることから、寺域は肥前国分寺同等の規模と推定される。伽藍(がらん)配置は明らかでないが、五社神社地区に柱座の造り出しをもつ礎石が多く、かつ基壇が存在することから、この地区に中心的な建物にあたる金堂あるいは講堂の存在が考えられる。また、その東方約180メートルには東門に関係するであろう2孔を穿(うが)った礎石が1個残存する。 これまで出土した瓦には寺浦廃寺跡や基肄城(きいじょう)跡と同じ萢(はん)で造られた瓦がみられ、国分寺跡や国府跡とも合わせ、相互の関係が注目される。 なお、本廃寺跡は千葉県で出土した宝亀(ほうき)5年(774)銘鐘に記された「佐賀郡椅寺(はしでら)」にあたるという説もある。
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小隈山古墳
史跡
嘉瀬川の西約2.5キロメートル、脊振山系南麓の独立丘陵上に立地する。丘陵は四方が比較的急峻な斜面をなしており、古墳は丘陵頂部の西側尾根上、標高約60~65メートルの位置に、ほぼ東西方向を主軸として築かれる。ほぼ真西に前方部を向ける前方後円墳で、全体が蜜柑園造成により改変を受けているものの、墳形自体は旧状をよく保っている。 墳丘は、全長約63メートル・後円部径約25~27メートル・前方部幅30メートルと推定される。周濠は持たない。 現況では葺石等は認められない。確認調査では円筒埴輪・形象埴輪が出土した。内部主体は明らかでないが、円筒埴輪の示す時期から後円部に横穴式石室が存在する可能性がある。出土遺物より6世紀中頃の築造と考えられる。 古墳は前方後円墳である点に加えて、佐賀平野西部における6世紀代の前方後円墳の中で最も規模の大きなものであり、墳丘もかなり良好に遺存している。また県下最大規模の船塚古墳(5世紀中頃)の系譜上にあるものと思われ、当地域の首長墓の系列を知るうえで重要な遺跡である。
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船塚古墳
史跡
船塚古墳は脊振山地南麓のゆるやかな傾斜地に築かれた県下最大の前方後円墳である。北および東西の3方を山で囲まれて前方部を南に向け、全長114メートル、後円部は径63メートル、高さ10メートル、前方部は幅62メートル、高さ9メートルで、前方部と後円部の規模がほぼ等しい。墳丘は3段に構築され、周囲に幅12~18メートルの周濠が巡っており、これらの形態は古墳中期の特色を典型的に示すものである。墳丘上には花崗岩円礫の葺石(ふきいし)が認められ、また後円部頂から家形埴輪(いえがたはにわ)が出土している。 埋葬主体部は明らかでないが、後円部上に明治期の盗掘坑があり、内面が赤く塗られた竪穴式石室であったと伝えられ、盗掘時の出土とみられる大型勾玉(まがたま)1個のみ採集されている。 本古墳のもう一つ重要な特色は、その周囲を径12メートル前後の円墳が取り囲んでいる点である。現在7基残るが、かつては11基あったという。畿内の王陵に見られる陪塚(ばいちょう)に似た状況を示し、九州ではきわめて珍しい例といえる。 築造年代は5世紀中頃と推定される。墳丘の構造や周濠・陪塚の存在など、豪壮な規模を有する前方後円墳として注目される。
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名尾紙
重要無形文化財
名尾の手漉き和紙は元禄年間(1688~1704)、納富由助(のうどみよしすけ)が耕地が少なく農民の生活が苦しいのを憂い、筑後溝口村から習い伝えたのに始まるとされ、旧唐津藩領における唐津紙をはじめ、大和町名尾のほか神埼市三谷、小城市岩松、嬉野市塩田町鍋野・谷所等で続けられていた。その起源は江戸時代にまでさかのぼることができるが、明治維新後は次第に衰微をたどり、明治中期には筑後方面からも技術を導入して技術革新も図られたが、洋紙の普及に伴い次第に需要も減少し廃絶したところが多い。 製作工程は、楮(こうぞ)の束を大釜で蒸し、その樹皮をはぎ取った後、ソーダ灰を加えて煮つめ、流れ川に晒す。川晒しの間、表皮の黒皮や残り屑を手作業で取り除く。この後、水分をジャッキで脱水し、繊維を分解させるため叩き棒で打ち伸ばす。(現在では打伸器を導入。)この楮に、黄連(おうれん)(キンポウゲ科)と水}を加えてスキブネで一枚一枚漉きあげる。 名尾紙は紙の地合がよくしまり、けば立ちが生じにくい強靭な楮紙として重宝がられている。
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十三塚遺跡出土鏡 方格規矩鳥文鏡 1面 夔鳳鏡 1面 附 鉄製刀子 1点
重要文化財
昭和46年(1971)、旧佐賀郡大和町大宇川上で行われた工事で、2体の人骨を埋葬した箱式石棺墓一基が発見された。この箱式石棺墓には、方格規矩鳥文鏡(ほうかくきくちょうもんきょう)一面と夔鳳鏡(きほうきょう)片一面、鉄製刀子(てつせいとうす)一点が副葬されていた。 方格規矩鳥文鏡は、径15.4㎝の中型鏡である。内区の中心にやや大きめの半球鈕.があり、その周囲を18個の珠文が巡る。その外側には、櫛歯文帯があり、二重の突線で区画された方格の内側には4つの小乳が対角線上に配置されている。方格の各辺中央には、「T」字状文様が見られる。方格の一辺上には、「T」を挟んで乳が2ケ所ずつ計8つの乳が配置される。この乳と方格の間に胴上半部を表現した鳥文が各辺2対、計8つ鋳出される。さらにその外側には、珠文を施した鋸歯文帯、櫛歯文帯と続く。外区は平縁で、波長の長い複波文帯と外向鋸歯文帯が巡る。 夔鳳鏡は、縁と内区の一部が残る鏡片である。復元径は約11.0㎝。平縁で、内区との境には凹線が巡り、その内側には連弧文帯が施される。内区の雲状夔鳳文は、やや不鮮明である。鏡の破面は研磨されてないが、鏡背の角は丸く破鏡として用いられた可能性がある。製作時期は、中国における紀年銘鏡及び共伴する紀年銘出土品から後漢時代中期~後期とみられる。 佐賀平野における古墳時代の同棺複数埋葬例から古墳時代前期から中期前半頃と推定される。古墳時代前半期の埋葬施設に2面の鏡を副葬する例は、佐賀平野では唯一であり、方格規矩鳥文鏡と夔鳳鏡の組合せは国内においても希少である。本遺跡から出土した青銅鏡は、希少価値の高い鏡の組み合わせだけでなく、古墳時代前半期における佐賀平野の首長層の動向を知る上で重要である。
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無著妙融像 一躯
重要文化財
無著妙融(むじゃくみょうゆう)(1333~1393)は、薩摩大隅の生れで日野氏の出身。諡(おくりな)は真空禅師。肥前万寿寺を経て、紀伊、山城、薩摩の諸寺で修行し、貞治5年(1336)に日向太平寺、永和元年(1375)年に豊後泉福寺、永徳3年(1383)に肥前医王寺、至徳元年(1384)に肥前玉林寺を開いている。道元から数えて七世代目、曹洞禅の全国発展期の僧であり九州各地で活動している。臨済法灯派の禅僧との交流も知られる。 この像は、像高(坐高)66.8センチメートル、檜材を用いた寄木造りで玉眼を嵌入している。法衣の上に八角環をつけた袈裟をまとい、右手に竹箆(しっぺい)を握って椅子に坐す姿である、顔立ちはやや面長で、頬骨の張ったしっかりした骨相である。豊後泉福寺には南北朝時代の肖像彫刻と江戸時代の肖像画が伝えられているが、本像の顔立ちは泉福寺の肖像画に近く、肖像彫刻とは像高や面長など主な法量がほぼ一致する。 像心束、前後束などの構造的特徴から中世の院派(いんぱ)仏師により制作されたと考えられ、製作の時期も玉林寺が開かれた至徳元年(1384)からあまり離れない頃の南北朝時代末から室町時代初と考えられる。 天正3年(1575)、寛文6年(1666)、寛政元年(1789)、明治38年(1905)の修理銘がある。天正3年に本像の修理を行っている心月齋は、京都の仏師で、佐賀市龍田寺、吉野ヶ里町東妙寿、小城市円通寿、白石町福泉寺、唐津市相知町医王寺・妙音寺などでの修理・造像活動が確認されている。 本像の骨太く力強い顔立ちは、曹洞禅の全国発展期に九州各地で活躍した無著妙融の姿をよく伝えている。県内で中世にさかのぼる肖像彫刻は重要文化財の円鑑禅師像(佐賀市大和町高城寺)などわずかしかなく中世後期をを代表する院派仏師のの政策と考えられる。
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高城寺文書 一〇〇通
重要文化財
高城寺文書は、佐賀平野の北端、脊振山地の南麓にある臨済宗東福寺派高城寺に伝来したもので、鎌倉期から江戸期にかけた総数100通からなる。 最も年代の古い文治2年(1186)の源頼朝下文案(くだしぶみあん)は在地の武士高木宗家を土地の地頭に任命したものである。以後、鎌倉期、南北朝期、室町期にわたり肥前の歴史上に活動する著名な人物の多くは当寺と関わりをもち、保護を与えている。征西将軍宮懐良(かねなが)親王令旨(りょうじ)によれば、正平年間に当寺が兵火で焼失したこともわかる。 また、中世の佐賀平野南部の干拓の進展の模様を窺うことができる一連の文書がある。正応元年(1288)肥前守護北条為時は当寺に河副荘(かわぞえのしょう)の米津土居(よのつどい)などを寄進している。鎌倉後期の海岸線が現在の米納津付近で且つ、このあたりが単なる干潟ではなく、生産を期待できる地であり、人工的に土居を築き、耕地化が計られていることなどがわかり、中世の佐賀平野における干拓進展の推移を知る上で貴重な文書である。
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一本木遺跡出土湖州鏡 一面 (附)鑷子一点,土師器杯一点,土師器皿一点
重要文化財
一本木遺跡は、佐賀市大和町東南部の大字尼寺に位置し、弥生時代から鎌倉時代にかけての集落及び墓地が確認された。鎌倉時代の土壙墓から湖州鏡と鑷子、土師器杯、土師器皿などが出土した。 湖州鏡の形態は猪目形の素文鏡で、長径10.5センチメートル、短径9.1センチメートル、厚さ0.4センチメートルである。下部に「湖州石家煉」の銘が陽鋳されているが、この文字は類例と比べて方向が異なっているのが特徴である。青銅製であるが、鏡面は白銀色を呈し、水銀を塗布している可能性が指摘されている。鏡の年代は中国の南宋代、共伴土器の年代は13世紀前半代である。 鑷子は、鉄製で先端を欠損する。残存長7.0センチメートル。 土師器杯は、口径14.5センチメートル、器高3.2センチメートル、底径9.0センチメートル。 土師器皿は、口径8.7センチメートル、器高1.4センチメートル、底径6.8センチメートル、底部は共に回転糸きりで板状圧痕が残る。 これらの遺物は同時に出土した土師器から13世紀前半代のものと考えられ、鎌倉時代の墓制を知る上で貴重な遺物である。
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本村籠遺跡出土遺物 一括 (附)甕棺二基(五個)
重要文化財
本村籠(ほんそんごもり)遺跡は嘉瀬川西岸にあたる佐賀市大和町大字池ノ上の低段丘上に位置する。 遺物として、多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)、青銅鉇(やりがんな)および碧玉管玉18個、青銅斧などが出土した。時期はそれぞれ弥生時代中期初、および前期末である。 多鈕細文鏡は面径10.5センチメートル。鏡背の上方に偏って2個の板状鈕をもち、縁は蒲鉾(かまぼこ)状縁である。鏡背の文様は大きくは内、外区に分かれ、共に精緻な細線で埋めつくされている。 青銅製鉇は幅2.1センチメートル、長さ3.4センチメートル。使用による研ぎ減りで長さを減じ、鋒は一方に偏った山形を呈す。 碧玉製管玉は18個あり、長さは4ミリメートルから7ミリメートル、径約3ミリメートルと小形である。 青銅製斧は刃部残欠、残存状態は長方形板状を呈し、幅4.2センチメートル、長さ2.6センチメートルまで残存する。この種の青銅斧としては我国唯一の出土例である。 これらの青銅器はいずれも、我国における出土例がきわめて少ない、特色ある朝鮮系青銅器であり、弥生時代前期末に始まる我国の初期青銅器文化が朝鮮半島文化のつよい影響によるものであることを如実に示す資料として貴重である。
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惣座遺跡出土遺物 一括 (附)弥生土器 一点
重要文化財
惣座遺跡は脊振山系から流下する嘉瀬川が形成する扇状地の扇頂近くに所在し、佐賀市大和町久池井字惣座に位置する。遺跡は縄文時代から平安時代にまたがる複合遺跡である。 出土遺物は、仿製鏡、銅剣・矛の石製鋳型、石錘などがあり、特に土壙墓の1基から銀製指輪および大量のガラス製小玉が一括出土した。 石製鋳型は上下端が割れた破片で、残存長5.2センチメートル・残存幅4.2センチメートル。表裏両面に銅剣型、また側面に銅矛型、計3本分の型が彫り込まれており、石材の再利用が窺える。これから鋳造された製品は剣、矛とも細形形式である。とくに矛は袋部に3条の節帯をもっており、従来、朝鮮半島からの舶載品と考えられていたタイプであるが、我国における青銅器生産の開始が弥生前期前半まで遡ることを明らかにした点で、意義は大きい。 銀製指輪は土壙墓の中央よりやや北側(頭位側)の床面上で、3個重なって発見された。いずれも径2センチメートル前後で、針金状の薄板を曲げて作り、素材はきわめて純度の高い銀を用いている。 ガラス製小玉は総数6,810個ときわめて多量であり、一連にすると9メートルをこえる見事なブルーの連珠となる。
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西山田二本松遺跡二号住居跡出土銅釦 一点
重要文化財
西山田二本松遺跡は佐賀市大和町大字川上字西山田二本松に所在する。弥生から鎌倉時代にかけての集落跡で、中心となるのは弥生時代後期の住居跡群である。発掘調査で弥生時代中期末~後期後半の2号住居跡から出土したものである。 銅釦(どうこう)は何らかの器物に装着してボタン状の飾りに使用された朝鮮系青銅器である。本品の場合、直径5.1センチメートル、高さ0.85センチメートル、全体の形状は直径3.6センチメートルの半球座に幅0.7~0.8センチメートルの周縁が付き、断面状鉢状を呈している。半球座の項部は径1.0センチメートルの少し凹みのある平坦面となり、緩やかに周縁へ降りる。半球座の裏は空洞で、その中心に孔径0.2センチメートルの小さな鈕が付く。半球座、周縁の表裏面ともに素文である。 遺存状況は周縁が薄いために数ヶ所で小さな欠損がみられ、部分的に表面も別離しているが、全体に比較的良好である。色調は表裏面ともに漆黒色で、半球座裏側の鈕の周囲には赤色顔料が残存している。 銅釦の発見例は他に、佐賀県小城市布施ヶ里遺跡の3点と、熊本県および京都府で各1点と、全国で4遺跡6点しか知られていない。 本例はそのうちの1点であり、朝鮮半島からの青銅器文化の影響を如実に示すとともに、住居跡出土の供伴土器によって銅釦の流入の時期が明らかにできる点で、学術的に価値が高い。
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銅戈 一口
重要文化財
嘉瀬川が佐賀平野部へ下る一帯は広大な扇状地が形成されており、そこには弥生時代の大規模な遺跡が多数分布している。 この銅戈(どうか)も、その遺跡のひとつ「尼寺(にいじ)一本松遺跡」において、大正8年(1919)に個人が自宅の庭園を拡張中に偶然発見されたものである。当時の状況をみると、地表下約60センチメートルのところに、切先を北に向け水平な状態で置かれていたという。 大きな欠損はなく、ほぼ完形であるが、全体的に刃こぼれが著しい。 全長39.3センチメートル、最大幅は約7.5センチメートルで切先の先端部がかなりの広がりをもつとともに、偏平化が著しい。 また、樋(ひ)と脊(むね)は身全体の約2分の1強の長さにもなる。樋には両面とも綾杉文様が比較的明瞭に陽鋳されており、その基部には台形の孔をもつ。胡(こ)はあまり延びず短い。茎(なかご)は小さくて薄く、その両面に五重の弧文を鋳出している。全体の仕上げの研磨は、あまり入念ではない。緑色に銹化しており、銅質はあまり良くない。重量405グラム。 銅戈の形式としては中広形に属し、弥生時代後期の製作と推定される。祭器として埋納されたものであり、当時の祭祀のあり方とその意味を知るうえで重要な資料である。
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与止日女神社西門 一棟
重要文化財
与止日女神社の創建は欽明(きんめい)天皇25年(564)と伝えられ、『延喜式神明帳』に「与止日女神社」とみえる。応保年間(1161~1163)肥前国一の宮になり、弘長(こうちょう)元年(1261)正一位を受け、明治4年(1871)県社となり、「与止日女さん」として人々に慕われている。 本殿西北方に西門と称する本瓦葺き、切妻造りの四脚門がたつ。 実相院文書中の棟礼(むなふだ)写しによれば、元亀4年(1573)の建立である。垂木は一幹、疎垂木である。妻は虹梁蟇股(こうりょうかえるまた)式で破風(はふ)には、ひれ付、拝懸魚(おがみげぎょ)、降懸魚(くだりげぎょ)、これらに木製菊形の6葉が飾られている。蟇股は彫刻のない板蟇股である。正面・背面の梁(はり)上の中備(なかぞな)えにも板蟇股を配し、中央の真束(しんづか)は角形である。 親柱は、円柱で、冠木(かぶき)を受け、脚部には唐居敷(からいしき)が付く。控柱は大面取りの角柱で、親柱と頭貫(かしらぬき)・腰貫(こしぬき)で固め、柱頭に大斗(だいと)、肘木(ひじき)を置く。親柱の外側は10センチメートル程度、平らに削られていて、ほぞに穴や釘跡がないので、おそらく門の両側に土塀か、石塀があったのかもしれない。 県内では最も古い時期の社寺建築で、価値が高く貴重な遺構である。
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仏具類 戒体箱 一合 説相箱 二口 如意 一柄
重要文化財
密教の儀式の際、法具を入れる名称の法具箱は正式には戒体箱(かいたいばこ)といい、また説相箱は居箱(すえはこ)と香爐箱(こうろばこ)のことをいっている。 戒体箱は戒文その他を納める法具で、居箱は次第・三衣などの法具を納め、香爐箱は柄香爐(えこうろ)をおく箱である。儀式の際、居箱は左の脇机に、香爐箱は右の脇机においた。 実相院に伝わるこれらの箱は、3合とも類似した構造で戒体箱は木箱の外側に金銅板を張り、縁は金銅の細板で縁取りし鋲止めしている。側面は輪宝羯摩(りんぽうかつま)などの金鋼製の金具を配し、中央に蓮実(はすのみ)形の鐶座(かんざ)をしつらえ丸鐶を通している。横37.0センチメートル、縦15.5センチメートル、総高16.0センチメートルで、蓋は上面に3個の輪宝と羯摩の飾り金具を配し、側面に金剛杵(こんごうしょ)の飾り金具がおかれている。 居箱・香爐箱は同大同構造で、飾り金具は戒体箱と同一であるが、横幅が広いため、床脚の格座間が横二区縦三区となっている。横36.0センチメートル、縦29.0センチメートル、高さ12.5センチメートルで蓋はない。 縁取板に「圓政寺・寶快代、天文元 三月日 重俊施 國嶋作」と線刻されており、中世末期のすぐれた工芸品として、その価値が高い。
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水上懸仏 一面
重要文化財
佐賀市大和町川上水上にある彦山権現の小祠に奉納されていた懸仏で、径37.1センチメートルの鋳銅製である。懸仏は神仏習合(しんぶつしゅうごう)の信仰から生まれた御正体(みしょうたい)がさらに新しい形式を生んだものである。この懸仏は、周縁は帯状の銅板で縁取りして鋲止(びょうど)めを施し、上方2カ所に獅子咬(ししがみ)のついた吊手が取りつけられている。御正体は薬師如来で、左右に2個の花瓶を取りつけていたが1個は失われている。また薬師如来の上方には天蓋があったと思われる鋲止めの跡がある。 薬師如来は鋳銅製で半肉彫(はんにくぼり)の背面に2個の作り出しがあって、鏡板(きょうばん)にとりつけられている。台座から肉髻頂(にっけいちょう)までの総高20.6センチメートルの坐像で台座には蓮弁の毛彫りが施されている。薬師如来は結跏趺坐(けっかふざ)し、薬壺(やっこ)を左手に、右手は施無畏(せむい)の印を結んでいる。条帛(じょうはく)・衲衣(のうえ)・裙(くん)等は鋳出しの部分のみでなく、毛彫が一部に施されている。 この懸仏は、鎌倉時代中期・文永8年(1271)に奉納されたもので県内では最も古い。当時の工芸品として、また当時の信仰生活を知る上から貴重な遺品である。 鏡背に次の墨書銘がある。 奉懸 御鏡一面 右意趣者為除平氏女三十三厄 并千代松御前御息災延命 増長福寿心中所願成就状如件敬白 文永八年七月十五日
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実相院仁王門 一棟
重要文化財
実相院は、寛治(かんじ)3年(1089)、河上神社(与止日女神社)の僧円尋(えんじん)が、その裏山を開き御堂を建てたことに始まると伝えられている。真言宗御室(おむろ)派に属する。 与止日女神社西門から出て、石段を登るとこの仁王門がある。3間1戸の八脚門である。基礎は円形に近い不定形の花崗岩自然石で凝灰岩の布基礎で連結している。太い円柱を建て、これらの上部に三斗(みつど)、肘木(ひじき)を置く。また、下部を貫でつなぐという構架である。屋根は入母屋造り、桟瓦葺(さんがわらぶき)(本来は本瓦葦)。妻飾りは豕扠首(いのこさす)で、全体的に古めかしい。 天井は、小部屋部分は竿縁天井、門の部分は組入天井となっている。 この門の両妻部を板壁、両脇部の正面と内側の上半を格子として、その内部に仁王尊像を安置している。 仁王門の建立年代についての記録はないが、門に掲げられている「神通密寺」の額に「寛永二十年」(1643)とあり、門もこの頃とされている。屋根瓦、棟木、棟束、一部の間仕切り壁、格子などは後補のものだが、主要部分は建築当初の用材で、江戸時代初期のものである。県内に、この時期の様式を今に伝える木造の建造物はたいへん少ない。
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絹本著色普賢延命菩薩騎象像 一幅
重要文化財
脊振山地が佐賀平野に開ける嘉瀬川中流右岸の小高い所に、真言宗御室派河上山実相院がある。その創建は寛治(かんじ)3年(1089)、河上神社社僧円尋(えんじん)が河上山別所を開いたことにさかのぼるとされる。 当寺伝来の普賢延命菩薩像は、絵絹が三幅一舗、縦123.0センチメートル、横79.0センチメートルの掛幅装である。 大きな頭光を負い、頭上に五仏を戴き、顔は1面。手は20臂(ひ)(本)で、本手には金剛杵(こんごうしょ)、羂索(けんさく)、蓮華(れんげ)つき独鈷杵(とっこしょ)、金剛鈴をとる。他の16臂には輪宝や羯磨杵(かつましょ)、火災宝珠、三鈷鈎(さんここう)などの仏具をとり、蓮華座上に結跏趺座(けっかふざ)する。月輪(がちりん)(像を囲む円)下には、6本の牙を備え鼻で独鈷杵をとる4頭の象が配され、それぞれ頭上に四天王の一つを戴く。この図像は真言宗に特徴的なもので、特に「覚禅鈔(かくぜんしょう)」所収の図像によく似ている。 色彩的には、群青(ぐんじょう)を基調色とし、朱線でくくった白肉色の普賢菩薩や、朱線でくくり部分的に朱暈(しゅぐま)を施した白象を対比させる。持物や瓔珞(ようらく)、裙(くん)の文様などに金彩し、頭円光には五色の繧繝(うんげん)彩色(濃淡のある色の帯の繰返し)を施す。 目鼻立ちは細く、痩せた感じの丸顔で、体躯は痩身でなで肩。肩にかかる垂髪は賑やかな曲線を描く。 暗い色調や的確な表現、宋風の影響と特色ある図像などから、この絵は、南北朝時代に東密系の絵仏師により描かれたものと考えられる。