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[指定文化財][佐賀県][赤松校区]は8件登録されています。
指定文化財 佐賀県 赤松校区
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与賀神社の楠 一株
天然記念物
与賀神社は欽明(きんめい)天皇の時代(6世紀)に創建されたと伝えられる。その後、文明14年(1482)に少弐政資(しょうにまさすけ)が与賀城(現在の佐賀市赤松町・与賀町)を築いたとき、その城館の鎮守の社(やしろ)としたものである。 この神社の境内には、クスの巨木が3株ある。その中で拝殿の南側にある1株が、昭和40年(1965)に県天然記念物として指定されたものである。 樹齢600年と推定され、根回り25.5メートル、目通り、幹回り9.77メートル、樹高20.5メートル、枝張り東西37メートル、南北25メートルである。 地上5メートルの高さのところから幹が大きく2つに分かれて、四方に枝葉が繁っている。幹や枝には、多くのノキシノブ・コケ類が付着して生育しており、老樹を感じさせる。木幹にはかなり大きい空洞があるものの樹勢は盛んである。 堂々とした老樹の風格の姿は、由緒の古い与賀神社を物語るかのようにそびえ、数多い佐賀市内のクスの中でも代表的な巨木である。 このクスの堂々たる風格に感じ入った俳人、青木月斗(げっと)の句碑が境内に建てられている。 われにせまる 三千年の楠若葉
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佐嘉城阯の楠(群)
天然記念物
佐賀地方には、古くからクスが生い茂っていたとみえて、8世紀前半に編集された『肥前国風土記』の佐嘉郡の条に「むかし、樟(くす)樹一株この村に生ゆ。幹枝秀でて高く、茎葉繁茂して朝日の影は杵島郡蒲川山をおおい、暮日の影は養父郡草横山をおおう…」と記されている。さらに、佐賀(佐嘉)という地名は、クスの巨木が生え栄えていることから「栄国(さかのくに)」と呼ばれるようになったことによると伝えている。 現在佐賀城跡一帯には、総数120株あまりのクスが生えている。特に、お濠のほとりには樹齢300年をこえると推定される巨木が並び生え、水面に濃い影を映し、県民に深い安らぎを与えている。 佐賀城阯のクスは、17世紀前半、かつて龍造寺(りゅうぞうじ)氏の居城(きょじょう)であった村中(むらなか)城を整備拡張して近世の佐賀城に構築したころに植えられたものと推定されている。大きいものでは、樹高26メートル、目通り幹回り6.5メートル、枝張り24.5メートルにおよぶものがあり、城下町佐賀を彩る由緒ある巨木群として価値が高い。
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佐賀城跡
史跡
佐賀城は、佐賀平野の低平地に築かれた、最も幅広の所で約72メートル(40間)の堀に囲まれた典型的な平城である。この城は、天正年間に整備された龍造寺氏の村中城を拡張し、慶長13年(1608)から慶長16年まで鍋島直茂・勝茂親子の佐賀城総普請により完成した。その際、本丸・二の丸の曲輪は新たに付け加えたといわれている。慶長年間に描いたとされる「佐賀小城内絵図」の本丸には、五層の天守閣と多くの殿舎が描かれており、本丸が佐賀藩の象徴であったことがうかがわれる。 佐賀城は、大きな火災に二度遭っている。享保11年(1726)の火災では天守をはじめ本丸・二の丸・三の丸のほとんどが焼失し、享保13年に二の丸、宝暦5年(1755)に三の丸が再建された。その際本丸の再建は見送られ、二の丸が藩政の中心となった。天保6年(1835)再び火災に遭い、二の丸が焼失したため、10代藩主鍋島直正は110年ぶりの本丸再建を表明し、「佐賀城御本丸差図」が作成された。天保9年(1838)には直正が新築成った本丸に入り、佐賀藩の雄藩化や日本の近代化に大きく貢献していくことになった。 佐賀城の発掘調査は、これまでの調査で、石垣や堀などの曲輪を区画する遺構や通路跡を断片的に確認しているが、平成5年(1993)から平成13年の間に実施した本丸跡の調査では建物礎石のほか、多くの遺構が残存していることがわかった。 本丸は、北側・西側・東側の一部を石垣で、東南半と南側は土塁で囲んでいる。寛政6~10年(1794~98)には本丸南側に石搦が築かれたことが記録されており、調査により築城期より南側に7メートル拡張し、赤石(安山岩質凝灰角礫岩)を積み上げていることが明らかになっている。本丸の規模は、東西が二の丸との間の水路から三の丸との間の堀まで194メートル、南北は鯱の門東側石垣から南堀までが190メートルある。本丸内部では、東西が土塁の内側で(東・西とも土塁の幅を14メートルとした場合)158メートル、南北が広い東側で(南側土塁は幅を21メートルとした場合)162メートル、最も狭い天守台南側で(土塁幅を21メートルとした場合)105メートルある。天保期の「佐賀城御本丸差図」に描かれている御玄関・御式台・外御書院・御料理間・御座間・御台所等の建物跡は、差図とほぼ一致する状態で確認されているが、大御書院・大溜・御舞台については、差図と確認された遺構が一致しないことから、この部分にあたる遺構は嘉永期の差図に描かれている皆次郎様御住居・御会業之間等の建物跡であることが明らかになっている。御式台・外御書院・御料理間等の建物礎石の基礎は、礎石ごとに砂利や玉石を使い基礎を固めているが、御納戸や屯之間等の基礎は幅約1メートル、深さ約1.5メートルの溝を柱筋に掘り込み、最下部に松の丸太を組み合わせて置き、その上に粘土混じりの砂と割った瓦を交互に重ねて地固めし、最後に礎石を載せている。このことは、「御手許日記」の、工事費を節約するために松と「赤石」を使って基礎とするという記録と一致する。また天保期再建の建物礎石の約0.5メートル下からは、享保期の火災時の灰をかぶった状態で建物礎石が見つかっており、この礎石は慶長期のものである可能性が高い。 佐賀城跡は、堀の一部は埋められているものの、当時の趣をよく残している。また、西国の近世城郭では石垣普請による城郭構築が一般的であるが、石垣と土塁を併用した例はあまりなく、天守台は、本丸内部から登る通路がないことなど、他の城郭と比較しても特異である。特に本丸内部の建物遺構は、築城期から廃城期までの変遷を追うことができ、天保期再建時の建物群は、礎石の遺存状況の良好さに加え、その規模の大きさ、本丸内部に占める密集度など本丸御殿の様相をよく表している。本丸御殿は、御玄関・御式台・外御書院などの「表」の部分、藩主の居室である御座問などの「中奥」、長局などの「大奥」機能に加え、請役所や御懸硯方の「役所」機能も取り込んだ、藩政のまさに拠点としての役割を果たしている。近世の城郭で本丸内部を発掘調査した事例は少ない上、「表」・「中奥」・「大奥」機能に「役所」機能を付随した発掘調査例は希少で、城郭史・建築史の観点からも非常に貴重な資料である。
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深江家文書 一〇五点(一〇四通と一冊)
重要文化財
深江家文書は、市内に所蔵されている龍造寺家文書、深堀家文書とともに代表的な武家文書として高く評価される。深江家はもと安富氏といい、文永2年(1265)に安富泰嗣(やすつぐ)が肥前国高来東郷深江村の地頭職を得て、その子頼泰(よりやす)が鎮西引付として関東から九州入りし、島原半島の深江村を本拠として土着したことに始まる。 近世初期のころ、西九州の豪将であった龍造寺隆信の勢力が、この地方に及んだときに、安富氏はその勢力下に入り、その後隆信の島原の戦における敗死と同時に一族をひきいて鍋島氏に属した。 この安富一族に相関連した文書は、総数104通、巻子本3巻に仕立てられているが、比較的に保存がよく貴重な歴史資料である。 その内容として、上巻は、33通からなり、文永10年(1273)6月の「六波羅御教書」正応2年(1289)3月12日の「蒙古合戦、勲功賞、肥前神埼荘配分状」、正安2年(1300)12月7日「仁和寺領、肥前高来東郷荘、深江村年貢状請取状」、正和4年(1315)の「関東御教書、鎮西御教書」などがある。 中巻は、32通からなり、建武3年(1336)7月8日の「足利尊氏感状」、貞和6年(1350)7月10日の「足利直冬御教書、同下文」などがあり、下巻は38通からなっており、正平17年(1362)5月、他の日附2通の「征西将軍宮懐良(かねなが)親王令旨(りょうじ)」などがある。いずれも南北朝時代の肥前領の動きや、当時の政情を学ぶ上で重要な資料である。
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薙刀 一口 銘貞治元年十二月日 備前長船政光
重要文化財
政光は備前刀工長船派で、相伝備前系の兼光(かねみつ)一門の一人である。政光の現存する作品は延文(1356~1361)から応永(1394~1428)に及んでおり、その活躍した時代は明らかである。 この薙刀は貞治元年(1362)の銘がある。彼の作刀で重文に指定されているものに「康安元年十一月日」(1361)の記年銘の太刀がある。 法量 長さ61.2センチメートル。 反り 2.7センチメートル。 形状 薙刀造(なぎなたづくり)、真棟(しんのむね)、薙刀樋に添樋((そえひ)が中心(なかご)途中で角止め(下端を一文字に止める)になっている。 鍛(きたえ):板目肌で、ところどころに流れ肌がまじり、かすかに映りがある。 刃文(はもん):匂本位の小乱れで、小足よく入り匂しまる。物打ちより上は、のたれ調になる。 帽子:わずかに乱れ、返り(棟の方に返る焼刃)が乱れこんで深く焼きさげている。 中心(なかご):摺上(すりあげ)、先切り、鑢(やすり)目勝手下り、目釘穴2個。
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紙本著色龍造寺隆信像 一幅
重要文化財
龍造寺隆信(1529~1584)は、現在の佐賀城付近を根拠地とした龍造寺一族のうち、分家水ケ江龍造寺氏の周家の子として生まれた。8歳で天台宗宝琳寺で出家したが、天文15年(1546)に水ケ江龍造寺氏の当主家兼(剛忠)が没したので還俗して家督を相続、天文17年(1548)には宗家の家督も相続した。 天正6年(1578)には有馬氏を降伏させ肥前を平定した後、近隣諸国へ戦いを拡大し、勢力範囲は筑前、筑後、肥後、豊前にまで及んだ。 隆信の肖像画は、現在9点が知られており、本図と同形式のものに、鍋島報效会本、松林家本、佐賀県立博物館本が知られるが、本図は肖像画としても優れ、同形式の中で先行する作品と推測できる。また、本図と異なる姿で描かれた隆信の肖像画も、本図の形式を基本として改良を加えたものである。 したがって、本図は隆信の肖像画の中で「肥満の大将」(『九州治乱記』)と伝えられる豪放な戦国大名の姿を誇張、理想化も少なく描出している点、最も優れた作品といえる。同時に、従来から知られる桃山時代の武将像と比較しても、その破格な服装をはじめ、隆信の豊満な肉体的特徴など、個性豊かな肖像画であり、その価値が高い。
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矢調べ 岡田三郎助筆 一面
重要文化財
「矢調べ」は、明治、大正、昭和にわたり、東京美術学校西洋画の指導者として、また、文部省展覧会にはじまる官設展などの審査員として、日本近代洋画史におけるアカデミズムを代表した岡田三郎助(1869~1939)が、明治26年(1893)に制作した記念碑的な作品である。 岡田が本格的に洋画を学ぶのは、鹿児島出身の曽山幸彦(1859~1892)の画塾に入門してからで、この画塾において、岡田は曽山からは主に人体写生を学び、曽山没後は画塾を引き継いだ堀江正章(1858~1932)から、色彩についての教えを受けた。 この作品は、明治26年(1893)大幸館画塾の卒業制作であり、翌27年の第6回明治美術展の出品作である。作品の、主題としては曽山の作品にも見られた弓術に係わる「歴史的記録画」としての性格を持ち、色彩においては、脂色を帯びた全体の色調の中に、「コバルト先生」と異名をとった堀江の影響が膝上、腰の暗部などに見られる。 作品のモデルとなったのは、一説に、岡田の母方の縁者にあたる吉田丈治(長野県出身)で、のちに乃木希典大将のもと、陸軍主計少将となる人物とされる。また、同郷の画家小代為重(1861~1951)によれば、モデルは「偶々曽山のところへ来た清楚な感じの針屋の爺さん」という。 作品は、岡田のフランスでの絵画修行以前の代表作であるのみならず、明治洋画においても、とりわけ明治20年代の絵画傾向である明治美術会の設立から黒田清輝、久米桂一郎らによる新しい美術団体への若手画家たちの結集という時代にあって、ひときわ時代性をはらんだ作品である。
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山水図襖 谷文晁筆 十二面
重要文化財
この図は、江戸時代後期の代表的な画家で、関東画壇に君臨した谷文晃(ぶんちょう)(1763~1840)が描いた、超大作の山水図である。 構成は、右端の背の高い松のある岸辺からはじまり、奥に陸地のみえる広々とした湖水、湖水に浮かぶ島、左端に握り拳のような山を中心とした陸地へ続いて終わり、空間を広くとり、景観はゆったりと配置されている。要所に家や人物を配し、徐々にモチーフを充実させ、拳のような山で最高潮となる構成がとられており、画面に右から左へ向かう展開の方向性が認められる。 描線は比較的少なく、墨を面的に使用し、ぼかしやにじみが効果的に用いられており、構成も比較的単純である。湖水の奥に延々と描かれる陸地によって、空との境界を明確にしており、奥行きのある景観の中でモチーフの前後大小関係を的確に配置していること、彩色と墨色が近景ほど濃く、遠景ほど淡い空気遠近法を使用して、遠近を明らかにしていることなど、全体として写実的な印象を与え、文晃の西洋画学習の成果が想起される。 左端、第12面左下に落款があり、文政3年(1820)6月に制作されたことがわかる。 当時、文晃は58歳で江戸にいたことが確認でき、この図は江戸で制作され、後に佐賀にもたらされた作品であるといえる。 伝来の経緯は不明だが、文晃とは近い関係にあった古賀穀堂(こくどう)や草場佩川(はいせん)などの佐賀の人物を介してもたらされた可能性が考えられる。 この図は、文晃の確認できる最大級の作品であり、保存状態も良好で優品に数えられる。