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[旧佐賀市][鍋島校区]は122件登録されています。
旧佐賀市 鍋島校区
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中島ヤス
明治30年20才の若さで養正校へ奉職のかたわら、近隣の子女裁縫其他女子日常の心得について教えを乞う者集り、いつしか私塾が形づくられた。明治37年佐賀市に移転、その慈愛深い懇切な指導に教え子の数も次第にふえ、大正12年佐賀裁縫女学校、昭和4年佐賀高等裁縫女学校、昭和18年佐賀高等実業女学校、昭和21年佐賀旭高等女学校、41年佐賀女子高等学校と改称、女子短期大学設立、53年佐賀女子短大附属佐賀女子高等学校と改称され、学長坂田力三、高校長岡崎喜久にて学生数2069名のマンモス学園に成長した。これ実に女史の順和礼譲、敬愛奉仕の精神に徹し、勤労を尊び、忍耐と感謝に終始する遺徳の賜と言うべきである。
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田中直一
蛎久出身。明治7年生。父祖の遺業たる酒造業をつぎ実業界に活躍し、永年酒造組合長の栄職にあり、大正14年には県会議員に当選し、昭和11年に実業功労者として知事から表彰された。
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富崎高一
木角出身。明治7年生。人格高潔で進取の気象にとみ、明治39年佐賀県属に任ぜられ、学務課をふり出しに土木主任を経て、理事官に進み、退官後は、おされて村長に就任、次で郡農会長に推され後県会議員当選2回、その間昭和5年鍋島駅新設、村内県道の整備などに尽瘁し、新鍋島建設の礎石を築いた先覚者として村民感謝の的であった。満洲視察旅行中事故のため、歩行不自由となり第一線を退き、木角に悠悠自適した。隠棲後も彼の郷土を愛し、青年を愛する熱情は変らず、農民特に青年の来訪を歓迎し、共に時局を語り、農を談じ時のたつのを忘れる事もあった。昭和33年3月死去。85才。
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井手雄次
明治12年生。本村出身。長じて軍に入り日露戦争に従軍、戦功顕著であった。除隊後大正8年村会議員当選2期、その間村産業組合理事、村農会総代3期、また多年警防団長として活躍し、終戦後は教育委員に当選し、村教育振興に献身した。
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犬塚正雄
蛎久出身。長崎医専卒業後父の遺業をつぎ、日夜村民の保健医療に奔走し、傍ら社会事業に献身し、青少年の指導、知識の啓発、風紀の醇化に努力し、また小学校校医として、児童の体力向上に努めその功により昭和29年知事表彰を受けた。その間消防団長として活躍したが昭和32年2月死去。 彼は田舎医としては稀な名医であり、仁医であり、しかも研究心旺盛で、最後の病床にありながら専門書を枕頭から離さなかった。誰よりも鍋島と農民と子どもを愛した人格者であり、その高潔な人となりは今に至るまで語り草となっている。彼こそは農民と一体となりきったほんとの農村医であった。
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池田種三
森田出身。明治39年佐賀中学卒業。小学校教員となり、大正9年には校長となり、金立・春日・本庄・東与賀小学校を歴任し、辞任後は村会議員、産業組合長として村政と産業の発達改善につとめ、終戦後教育委員公選にあたり見事当選し、また昭和24年から36年まで公民館長として、新時代の人づくりのため努力を傾注し功績顕著なものとして昭和36年全国表彰を受けた。誠に温厚なる教育者型の人格者であり、また話術の功みなことで知られた。
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久野源四郎
明治15年生。佐賀農学校卒業後、明治39年杵島郡農業技手となり、大正7年長崎県農会技師に進み、朝鮮東山農場、飯田農場、長崎県愛野農場、北支山開関農場など各地に勤務、昭和19年佐賀県に入り技師として農業指導に従事した。また昭和25年から引続き佐賀県産業振興会理事として多年産業教育発展に尽瘁した。ために鍋島村長から村政功労者表彰、県知事から民生委員功労感謝状、文部大臣から産業教育振興功労者表彰をうけた。 また曲った事のきらいで世話すきな勤勉な実務家であった。 また彼が佐賀農芸高校創立のため、日夜寝食を忘れ奔走したことは人も知る通りである。
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片渕慶吾
明治26年角目生。独立独歩の精神に富み、商機を掴む鋭敏な頭の所有者であった。青年頃角目で雑貨商を開いたが、建築材料の有望なことに着目し、昭和3年紡績通りに建材店を創設し、千代子夫人と共に日夜業績発展を計り、以来50年。その間多少の屈折はあったが、卓越した手腕とたゆまない努力によってあらゆる苦難に耐え今や堅実な歩みを続けている。
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片渕初次
明治30年角目生。青年時代から篤農家として知られ、諸種の改良事業に努力し、養鶏園芸殊に菊作りの工夫改良に若い情熱をうちこんだ。彼の園芸研究熱と愛郷心の深さは町民の等しく知るところとなり、昭和3年農会総代、産業組合理事、郡市籾摺組合副会長、小学校建築委員、養鶏組合副会長、県花卉園芸評議員、等の公職を歴任した。なかでも昭和24年には花市場を創設し、戦後新鍋島農業の基礎を園芸に開いた功績は多大である。尚特筆すべきことは昭和2年県下農家代表として昭和最初の新嘗祭献穀用稲栽培の指定を受けたことである。晩年は眼病のため第一線を退き専ら信仰生活に入り、念仏感謝の日日を送っていたが、昭和52年8月80年の生涯をとじた。
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鷲崎理四郎
安政2年(1855)生。明治2年佐賀藩兵に入隊、4年より西海道鎮台分隊へ入隊した。辞任後は柔術の錬磨に精励し、明治27年東新庄に柔術道場を開き門弟を教導し、28年推されて村会議員に当選し(2期)34年には鍋島村助役に推挙され、36年村長に就任し、更に42年再選され村政の改善に精励、郷土の発展につくす処大であった。
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千綿万三
江里出身。明治35年佐賀農学校卒業後、日露戦に従軍し、41年より牛津小学校訓導となり、44年4月郡農業技手をへて県技手に進み、昭和9年地方農林技師に昇任、11年退職、この間24年間地方の農事改良などに功績多大で昭和11年村長に就任した。長男美二君は日大卒業後国鉄に入り、40年退職、42年佐賀市議会議員に上位当選し、豊富な技術知識と、さわやかな話術と、議会人としての旺盛な勉強ぶりとは人も知る通りで、町民の期待も多大であったが、不幸病を得て49年7月死去した。
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久野健太
角目出身。明治39年農学校卒業後郡農業技手として就任。大正9年朝鮮にて東洋拓殖株式会社嘱託として活躍、昭和12年帰国後、村会議員、農会副会長におされ、13年助役、15年村長に就任敏腕をたたえられた。
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池田利夫
森田出身。昭和5年早大卒業後、朝鮮総督府に勤務し続いて、満州国国道局に移り昭和9年帰国し、早良鉱業所勤務、昭和16年鍋島村助役、21年村長就任、市村合併と共に支所長を務め、辞任後昭和30年県議会議員に当選した。35年農協長におされ献身的に努力したが、不幸難病におかされ38年死亡した。農民は深く彼の死をいたみ農協葬をもって送った。 昭和28年大水害の時は村長として、対策本部長として33日間1日も帰宅せず、陣頭指揮をつづけ復日に努力した。彼は嘉瀬川はすでに危険水位に達し更に降り続いていたので、6月25日夜独りで森田の堤防上にて警戒監視をしていた事は部落の人たちも知らぬ人は少ない。彼こそは誰よりも鍋島を愛した人であった。彼はまた細心堅実な反面、誰からも親しまれる明るい性格の人であった。
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鍋島の起原
高木瀬町東高木と鍋島町森田を結ぶ線、即ち標高5mの線が縄文中期の平均満潮位の線と考えられる。現在の佐賀市街地の大部分は湿地で、人々はこの等高線より以北に生活していた。次に弥生時代の初期になれば、標高4mの等高線が居住圏の南限だったことが弥生期の貝塚の分布から想像され、これはほぼ現在の国道34号線の付近になる。これで旧佐賀城下町の中心付近が海岸線であったということになる。だからこの頃までわが鍋島町は有明海の底であった訳である。 また佐賀市から北の上佐賀地方には、弥生式土器がしばしば発掘されたことがあり、鍋島町でも昭和15年頃、八戸五竜神社付近から赤褐色の丸底土器石及び土弾が発掘された事があり、鍋島一帯は弥生式聚落の跡であり、農牧を主体とした地域であった事は明らかである。 更にこの地方は古代有明海が湾入して、そこに幾多の島々を形成し、また100年に1㎞ずつ進むといわれる有明海の沖積により、あるいは嘉瀬川が数千年にわたり幾十回のはん檻をくり返すうち、いつしか今のような農業地帯となったのである。 また肥前風土記の佐嘉郡の条には、「昔者、樟の樹一株この村に生いたり。幹枝も秀高く、茎も繋茂れり。朝日の影には、杵島郡の蒲川山を覆い、暮日の影には、養父郡の草横山を覆えり」と書いてある。 なお本町北部方面は往昔渺茫たる海原であり、日本武尊川上梟討伐の折、上陸した地点が蛎殻が特に多かったそうで、それに因んで蛎久と呼ばれその地名が今もなお残っている。 更に本町は佐賀藩公発祥の地であり、又蛎久はむかし肥前国府の所在地であり、政治、経済、文化の中心地として関連国衙、学舎、兵舎、寺院はじめ、民家二千戸以上密集し、殷賑を極めたため、次の様な小路の呼称が今も残っている。 長 瀬 寺小路 蛎 久 寺小路、横小路、鳥栖殿小路 植 木 小路、南小路 津 留 小路 増 田 南小路 北小路 鍋 島 南小路 北小路 木 角 中小路 森 田 小路 東新庄 矢倉、市場、馬渡 西新庄 小路、中ノ坪 江 頭 薙町、荒巻 八戸港 中小路
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綱敷天神さん
蛎久の犬塚さん北裏、古賀さん宅の北に小竹が茂り、三方堀に囲まれているところが「綱敷天神」のあとであり、東側の堀を天神堀(てーじんぼい)と呼んでいる。 察するに、菅原道真公が太宰府に流されるとき、船でこられ博多に上陸されたが、突然のことなので高貴な方を受けいれるところもない。とりあえず新しい船のとも綱をぐるぐるとまるく巻き、お迎えされた。そこで人々は、綱の上にお坐りになる天神様、綱敷天神と呼びあがめた。 太宰府天満宮から蛎久に神霊を迎えるに当たり、綱をしき中宿的なところを設けたあとではないだろうか。こうしてここが綱敷天神といい伝えられているのであろう。
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イッチーの木
樹令……350年以上。『名木、古木』 鍋島直茂、成富兵庫などが亡くなった頃の生まれで天満宮境内にある。 イッチーの実の熟したものは、色がとても美しい。ドングリの背くらべというがイッチーもほとんどが形にかわりがなく整っている。コマ等を作って時間のたつのも忘れて遊んだ。今のように電池を入れた遊び道具などなかった時代は貴重なもので、子どもの財産くらべにはその数がものを言った。 手に入れる方法は ・石か瓦を、なっている枝に投げあてて落す。 ・朝はやく、提灯つけて落ちたものを拾う。 ・堀に落ちたものを、椿の葉をまるめて竹の先につけ水の中から拾いあげる。 ・ゲーム(イッチーあて)に勝つ。
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野狐
川上川の官人橋よりずーっと下んほうの、蛎久のほうに通ずっところの渡しのところで、婚礼のりっぱな衣裳にしやいて、渡しに乗ってじゃーもん、そいぎ、「こん畜生、また、がんして行きよいひっだぐった。」て思うて、その船頭さんがひっくい返しなったて。そいぎなた、そいから先ゃあ、もうあがんして船頭さんの小屋はつん燃えたて言いよんさった。そしてもういくら船ば作ってもなた、そこは晩には渡られんて言いよいなった。そいどんが、わやくして。
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野狐のご膳迎え
野狐の嫁入りちゅうとはもう、どうしたっちゃ、あがんと、ちょうちんばね、もう、ちょっと、ほんなちょうちんのごとっ、ずっと渡っていくよ。あの土手(チィチィ)ば。 あたいどま八戸村おったけんがさい、あのチィチィ土手はね、もう、裏からひょーんと、しるっわけ。そいぎ、あの土手がもう、ひとばなれのねぇ。馬の死んぎ、あのチィチィ土手の下のよしのさい、竹のごとっして、太うしてよしでん広かもう。そこのきわに馬ば埋めていたて。そいけん、誰でんよおそうの悪しゃ通いよらんやったて。そがんところしか野狐はおらんわけ。 野狐のご膳迎えちゅうてね、嫁御ばね、持つときは。そいぎね、そのちょうちんのね、もう、ちょっと、明かかごういのさがったとと同じこと。そや見たごとあっ。
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野狐と祝儀帰り
うちの親父さんたちゃ、祝儀てんなんてん行たてね、嘉瀬の手前にチィチィでぇちゅうてー本橋のあんもんね。私の親父さんは嘉瀬元町からもんじゃけんが、よう祝儀とか行きよらしたて。祝儀のみやげがもう、酔ぇくろうてチィチィでぇば来よって。そうして、みやげば酔ぇくろうとっばってん、もう、わが両手にさげとった、わがおべぇちいとらす。ち、言わすわけ。 そうして、わがもう、なんもかいも泥んごとなって、酒飲みよらしたわけ。そうしてなんたぁ、深町のその、チィチィでぇちゅうところが両方に、やぼのあって、あっこはでぇじゃもん。そして、向こうは一本橋のチィチィでぇじゃもう。そこがゆう野狐のおったところなた。 そいぎ、そこば帰って来んば八戸村まで帰って来られん。そいぎもう、来っときなんたぁ、もう、野狐の足型のこのじばんに、いっぴゃあ、犬の足型んごたっ。そうしてなた、もう、なんでんもう、手のごいで折り結めんごたっとば結ってさげて来ないよった。もうそこからぶつっとおし切れて、手のごいばっかい持って来ないよった。
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狐の話
明治から大正にかけて、お宮の近くに鎮守の森があった。そこには、たくさんの野狐が住んでいてよくいたずらをしていた。 ある日、八戸村に住んでいた林幸さんが親類のこんれいによばれたその帰り、酒に酔うていい気持ちになりふらふら歩いていた。土手にさしかかって一やすみするときまではおみやげを手に持っていたことはたしかだった。 ところが、一息ついてごちそうを持って帰り、家でひらいてみたら、野菜を藁でむすんだものだった。
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狐の見送り
大正8年ごろ、あるおばさんが、神野町に毎日田んぼの小道を歩いて通勤していました。ある日のこと、夕方、帰ってくる途中で日がうす暗くなってきました。おばさんは急いでいましたが、おきの森にさしかかると、急に右の肩が重く感じました。うしろを向いてもものかげはありませんでした。おばさんは、さらに急いで歩いていますと、左の肩まで重くなってきました。おかしいなと思い思い、自分の家の橋にきたら、急に肩がかるくなりすっーとしました。うしろをふりむいたときは狐の姿はありませんでした。おばさんは、これが狐の見送りだなと思いました。今でもその森口はのこっています。
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ゆうれいのおはなし
明治の頃のお話です。 ある村にひいおじいちゃんが住んでいました。ひいおじいちゃんには、とても仲のよいお友だちがいました。 ところがある日、お友だちがお亡くなりになったので、ひいおじいちゃんは悲しみました。それから10日ほどたったころ、田んぼの見まわりに行って帰る途中、一本の柳の木があるところに亡くなった友だちが立っていました。ひいおじいちゃんはびっくりしましたが、お友だちと話しをしたそうです。ひいおじいちゃんに、ゆうれいとなって逢いに来たのは、まだこの世に悔いが残っていたからでしょう。
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河そうの話
あたいどんがこまか時分に、河そうから取られて死んじゃったいね。おどま見ぎゃ行たことがあっじゃん。八戸村まで見ぎゃ行たよ。 八戸村ちゅうところは太か百姓ばっかいじゃん。そけぇ20ばっかいなっ姉やんがいたて。みんな昼あがいしてから姉やんが1人してあせらんば。男どんはしっきゃあ昼飯くうぎ田ん中さい出てしまうわけ。そいもんじゃっけんが、その姉やん1人して気のもむっ。そいが昼飯くうてじきやっけんもう、ぬっか最中じゃん。そいもんじゃってが、その家の裏のふとか濠に「ああ、ぬっかったぁ」というてね。川じのところまで飛び込うだ時まで見といなっさい。そいから先は姉やんがいつまでもあがってこんもんじゃさい。 「もう、姉やんが飛び込うでから、もういつまってん出てこん」 て。そいぎ、出てこんもんじゃい、うちは、大騒動たい。そいぎ、あんた、河そうがさいもうね、尻からさい、じごのいっぱい出とったよ。あたいが1年生にいきよった頃、7つか8つかやったぁ。 棚じのとこれぇ髪でん、くう長うして、そのままあげたばっかいしてやった。そりゃーじごの出とった。
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川そうくぐり
現在の中島荒太郎さん、渡瀬秀来さん宅の間の橋あたりを川原口という。 いまから4、50年前までここで「川そうくぐり」という行事があっていた。 長さ5mぐらい、太さは大人の腕ぐらいにしたコモを固めて、川の中にアーチ形に門をつくる。神主さんの祝詞のあと、コモで作った帽子大のものから四っ足を出したようなものが川上から3度流される。行事がすむと橋のそばに並んでいた4、50人の童たちが一斉に川の中に入り、アーチの門を3度くぐる。 瓶を持ってお宮まで一目散に走って順に並ぶ。盃2、3杯の神酒をもらって引きあげる。 この川を今、島とり川といっているが、長老の話では四万取り川だということである。四万ということはたくさんを意味する。たくさんの童が洪水や水泳などで溺死した。これは川そうという動物に取られたのであろうということから、川そうくぐり行事がはじまったということである。
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鍋島消防団
佐賀市消防団鍋島分団第1部に受け継がれている貴重な消防団の沿革は以下のとおりとなっている。 1.私設消防組の設置 明治10年 2月 蛎久消防組設置 明治33年11月 鍋島消防組設置 2.大正15年11月 公設鍋島消防組に改組 1部:蛎久、3部鍋島 3.昭和14年 4月 警防団に改組 4.昭和23年 9月 自治体鍋島村消防団に改組 昭和27年9月に第5部を森西に設置 蛎久消防組は明治10年の設立で、鍋島村誕生以前の蛎久村と呼ばれた頃であり、地方における消防組としては最先端を行くものであったに違いない。昭和25年10月6日、佐賀市の城南中学校グランドで第1回佐賀県消防操法大会にガソリンポンプ操法で出場した鍋島消防団が見事1位の成績を収めて県下消防の志気を鼓舞し、鍋島の名を博したことは今も消防人の間に語り継がれている。 昭和28年鍋島の大水害の折には遺体の捜索、救護、救助、嘉瀬川本流の堰止め工事に常に率先して活躍し、町民の信望に応え感謝された。その後、諫早の大水害や県内塩田川堤防の決壊の折には、分団をあげて応援に出動し、28水の御恩返しに励み、麗しい行為として賞賛された。
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鍋島婦人会
鍋島婦人会は、戦後混乱した世相の中で初代会長千綿チカ氏の献身的な努力によって、婦人会が立て直され、婦人の教養と明るい社会づくりにを行いながら、地域活動が展開されてきた。また、食生活の改善や消費者グループの育成のほか、ボランティア活動を行いながら、ふれあいを大切にした活動も推進されてきた。しかし、会員の減少などから、婦人会は女性の会と変わり、地域活動が行われている。 (歴代会長) 初代 千綿チカ、 2代 古川ツイ、 3代 富崎初枝、 4代 杉町きよ、 5代 石田よね、 6代 島内たよ、 7代 石丸数子、 8代 古瀬典子、 9代 石川スマ子
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新栄・開成校区が鍋島校区から分離された経緯
・昭和44年9月 八戸南部地区の一部が新栄と変更された。 ・昭和46年12月 八戸溝地区の八戸川以東が神園に変更された。 ・昭和48年4月 八戸、坂井、深町地区が新栄校区へ移動し、児童も新栄小学校に転入することになった。 八戸溝地区の鍋島第1団地・医大宿舎は鍋島小学校と新栄小学校の自由選択地区となった。 また、八戸溝地区の児童は新栄小学校へ通学し、自治会は鍋島校区という変則的な形になった。 ・昭和53年3月 八戸溝地区の八戸川以西が八戸溝の新町名に変更になった。 ・平成2年4月 開成小学校が新設された。 新村、江頭、角目の一部地区と八戸溝地区を栴檀橋から環状線道路の線で分割され、 鍋島団地、西佐賀団地、江頭団地の児童は開成小学校へ通学することになった。 また、当時の自治会は、新村、江頭、鍋島団地、西佐賀団地、江頭団地の5自治会となった。 ・平成2年11月 新村地区、医大宿舎周辺地区が開成1~6丁目と地名変更になった。 ・平成5年4月 市立開成公民館が開館した。
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江里天満宮石造多宝塔(1基)
重要文化財
多宝塔は凝灰岩製で、相輪及び屋根部分が失われて塔身のみとなり、基礎は別石である。 塔身には、浅い蓮華形の仏龕(高さ27㎝、幅20㎝前後)と、蓮の台座に坐した四方仏(蓮台含め像高20㎝前後)が刻まれている。また塔身の肩部、仏龕の上部左右に薬研彫りの種字8文字が刻まれている。 仏像は像容が不鮮明な部分もあるが、次のように推定できる。 ・智拳印を結んだ金剛界大日如来坐像(印相の手が通常の逆。) ・禅定印の釈迦如来坐像 ・阿弥陀定印の阿弥陀如来坐像 ・施無畏印(または与願印)に薬壺を持つ薬師如来坐像 種字は一辺10㎝前後の大きさで、大日如来の仏龕の左上から「ユ・ア・キリーク・ケン・バク・カン・ラン・バン」である。 この他、四方仏の仏龕と仏龕の間には造立銘が刻まれている。 【銘文の内容(概略)】 恵利二郎伴兼信の嫡子、左衛門尉伴兼時(法名正實)は、文暦元年(1234)10月8日に出家し、11月2日に往生した。父兼時の供養のため兼忠が大施主となり、この多宝塔を造立する。 銘文から、伴(恵利)氏三代の系譜及び伴氏が鎌倉幕府から所領を賜っていること、多宝塔の維持のために法浄寺の田地を寄進することなどがわかり、鎌倉時代の古文書としての史料的価値が高い。 また県内では鎌倉時代の多宝塔の作例が少なく、制作年代の明らかなものとしては、県内最古級のものであり、この多宝塔自体は塔身のみであるが、像容や種字、銘文の大半が判別できるなど保存状態が良く、刻まれた仏像や種字は、当時の地方領主の信仰形態を知る上でも貴重な資料である。
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増田遺跡甕棺墓出土多鈕細文鏡 一面(附) 甕棺 一基(二箇)
重要文化財
増田遺跡は、佐賀市の北西部に位置し、標高8メートル前後の洪積台地上に立地する。現在までの発掘調査で、弥生時代から室町時代までの複合遺跡であることがわかっている。中でも弥生時代の遺構が中心をなし、すでに500基以上の甕棺墓と58基の木棺墓等が確認されている。弥生時代は大規模な墓地であり、時期的には弥生時代前期末から中期前半を中心とするものである。 多鈕細文鏡が出土した甕棺は、中規模の合せ口棺で、上甕は器高45センチメートル、口径35センチメートル程度、下甕は器高65センチメートル、口径45センチメートル程度の大きさである。鏡は割れた状況で、下甕中央の底面付近で検出した。残存状況は7割程度。3箇所に鈕を有する青銅製の舶載鏡で、直径9センチメートル、縁幅1.2センチメートルで、弥生時代中期初頭の所産である。 増田遺跡周辺では、多鈕細文鏡の外に細型銅剣、銅戈鋳型、さらに朝鮮系無紋土器が多く出土しており、朝鮮半島との係わり合いが深いところである。有明海を介して佐賀平野に、大陸文化がいち早く流入したことを証明する上で重要な地域である。
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鍋島本村南遺跡出土遺物 一括
重要文化財
鍋島本村南遺跡は、弥生時代から近世にかけての時代幅の大きい複合遺跡であり、住宅地造成に伴い、平成元年度に発掘調査が実施された。 石製把頭飾(はとうしょく)は338号土壙から出土した。ほぼ完形で全長5.0センチメートル、十字状の飾り部分は長軸が5.0センチメートル、短軸が3.9センチメートルを測る。先端部は一辺2.2センチメートルの平方形をなし、上面、斜面・両側ともに丁寧な面取りが行われる。各コーナーには細い抉(えぐ)りが施されている。 銅戈鋳型は、弥生時代の345号土壙から出土した。残存長9.5センチメートル、幅7.3~8.3センチメートル、厚さ2.6~2.9センチメートルを測る。戈型は、最大身幅4.7センチメートル、最大脊幅0.9センチメートル、最大樋幅0.7センチメートルを測る。鋒部及び元部を欠損し、ほぼ中央部が残存している。内面は熱を受け黒色に焼けており、実際に鋳造が行われている。 細形銅剣は、弥生時代の2号土壙墓から出土した。鋒部を欠損し、全体の3分の2程度が残存している。残存長19.2センチメートル、最大幅3.9センチメートル、茎長2.3センチメートル、茎幅1.15センチメートルを測る。翼両側及び脊には刳込下部に至るまで、明瞭な鎬(しのぎ)が研ぎ出されている。元部においては、脊には鎬は及ばないが、翼両側には緩い研ぎ出しが行われている。関の片方を欠き、刃部も片方は刃こぼれが著しい。 これら3点の遺物は弥生時代中期前半のものと考えられるが、確実な共伴遺物が出土していないため、正確な年代は推定し得ない。しかし、銅剣は型式上、細形銅剣に属する古式のものであり、銅戈鋳型は現在のところ日本最古のものである可能性が高い。 また、朝鮮半島の無文土器にその祖型が求められる擬朝鮮系無文土器群が、ほぼ同時期の遺物として出土しており、上記3点の出土遺物は、この土器群の存在も含め、国内における青銅器生産の開始時期や青銅器生産集団の系譜など、青銅器生産をめぐる諸問題の研究に一石を投じる貴重な学術資料といえる。