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[旧佐賀市][鍋島校区]は122件登録されています。
旧佐賀市 鍋島校区
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堤長定先生顕彰碑
堤長定は、嘉永6年(1853)植木で生まれ、血気盛んな21歳時に憂国少年隊に加わり、佐賀戦争の寒水川、田手川の戦で奮戦の記録が残っている激情家であった。 彼は、資性剛直、清廉潔白で教育事業に熱心であった。明治10年頃鍋島町内には蛎久、森田、東新庄など数ヶ所に別れて小学校があり、非常に不便であったので、一村一校の学校建設のため、東奔西走して、村民の同意を得て、遂に明治15年養成小学校(現鍋島小学校)を設立させた。 彼は、教員として、学務要員として、本村教育に貢献すること三十有余年不滅の功績を留め、大正13年72歳で逝去した。墓は蛎久天満宮の横にある。 古老の談によると、後半彼は、植木の自宅で水車を利用して精米業を営んでいた。さすが佐賀戦争の勇士らしく不屈の気概で鍋島教育界にきらめく星であった。 七賢人の島義勇の甥にあたる。
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佐賀市立鍋島小学校
明治維新後、新政府は明治4年(1871)に文部省を設置。文部卿は佐賀出身の大木喬任。翌明治5年(1872)に「学制」を発布し、国民皆就学制をとった。 鍋島には従来、蛎久の満性院、鍋島の観音寺、森田の福満寺、東新庄の民家等に学校が開かれていたが、植木出身の学務委員堤長定等が一村一校を説いて、ついに明治15年6月それを統合して、「養正中等小学校」が創立された。 その後、明治19年(1886)学制改革、さらに明治41年(1908)義務教育は6年制をとり、ほぼ学制は完成した。 鍋島小学校は明治15年(1882)創立以来110余年を経たが、昭和53年佐賀医科大学(現佐賀大学医学部)が鍋島校区に開学し、それに伴なう周辺地区の市街化が進み、児童数が1,600名を越す事態となったため、開成校区に新に平成3年開成小学校を開校し、国道34号線を境として校区を2分することになった。こうした変遷を経ながら、鍋島小学校は百数十年の歴史を誇り、教育熱心な町民性によって、県下でも優秀な小学校となり、現在に至っている。
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佐賀市立鍋島中学校
昭和20年8月終戦とともに、旧来の制度は大幅に刷新されることになり、教育においては「新学制」が敷かれた。昭和22年4月からは、新制小学校6年に次いで、新制中学校3ヶ年が義務教育として発足した。このことにより、鍋島村では、昭和22年5月3日鍋島村立鍋島中学校が創立され開校式を挙げた。鍋島中学校は、その後20余年に渡って輝かしい歴史を残したが、昭和40年に到り、適正規模の中学教育推進のため、中学校統合が実施され、鍋島中学校は高木瀬中学校と統合され、第七中学校(佐賀市高木瀬西)となり、同年8月10日に校名は「城北中学校」と改称された。その後、鍋島地区には中学校が置かれない状況が続いたが、昭和53年佐賀医科大学(現佐賀大学医学部)の開学に伴う周辺地区の区画整理及び市街化が進み、人口増加、児童生徒数の増加に伴い、鍋島地区にも新中学校が創立されることになり、昭和58年4月1日新たに「鍋島中学校(校名は公募による)」が開校した。開校当時の生徒数は578名であった。以来鍋島中学校は市内でも有数の進学校となり、又部活動も活発で、合唱部は全国合唱コンクールで2年連続日本一に輝くなど、文武に優れた校風を今も誇っている。
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蛎久府跡
蛎久は肥前国府の所在地であり、政治、経済、文化の中心地であった。南方一帯は渺茫たる海を控えたが、景行天皇の27年日本武尊川上梟討伐の時、竜船此地に碇泊し、蛎殻が多かったので蛎久という様になったと伝えられている。そして沖合には沖の宮というのがあり、今も沖田の名が残っている。なお江里、江頭、江口、津留などの地名もこれに基づくらしい。其のほか町内には納徳、帆立、船比良等の場所がある。これは唐人納徳破船のあとだと言い、数年前まで水中に帆柱が見えていたと言う。 文徳天皇の天安2年(858)勅許を得て、芸州宮島の市、築州西府の市、肥前蛎久の市が開設され、九州一方の大都会として国内市場の中心であった。更に天喜2年(1054)太宰府神社の御分霊を勧請し、奉祀して文教の神、誠の神として、氏子発展の産土神として町民の崇敬をうけ今日に至っている。この様に久しく威勢を保ち、戸数三千を擁し、殷賑を極めた蛎久も大友、龍造寺の兵乱が相つぎ、遂に国府も移転し、僅かに百余戸の農業小集落となってしまった。
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来宮丹後守城跡
來宮というのは450年前後柏原天皇の御宇伊東丹後守の建立したものである。元来伊東氏は伊豆の国伊東から肥前に下り、西新庄西分に一城を構え、其城より鬼門に当たる地に、大永年間(1521〜1528)北山より青石多数を取り寄せ、この石を以て山を築きその頂上に一宇を創建し、一家の安穏繁栄を祈ったと伝えられている。 又、社殿の坤の方には大屋敷という広い畑があり、これが丹後守の城跡であったという。また鍋島直茂の今山夜襲戦の頃は豪族伊東兵部少輔祐俊が、当地方の住民多数をつれ勝楽寺に案内し、大いに慰撫従軍したという。伊東家の菩提寺は東善寺にある。
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蛎久市場跡
文徳天皇の天安2年(858)勅許を得て、芸州宮島の市、築州西府の市、肥前蛎久の市が開設された。蛎久の市は主として中国貿易を営み、日中人雑居の市であり戸数3000余に及び、殷賑を極め、絹布、宝玉豪商軒を並べ、歌舞音曲も盛んであった。当時製作販売する所の商品の特産物を坐と言い、商品の種類によって五坐、六坐などと呼び、例えば線香、煙草、秤、元結、火薬なども各一坐と言ったものである。現在市場跡として恵比須、大黒天石像がある。また昔の繁華の面影を偲ばるるものとして、西川原より東の出口鶏殿小路辺に至るまでの道は、昔のままでその道幅の広い事で想像される。
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石井樋の戸立て堰の跡
昔は嘉瀬川に戸立て堰を作り水位を上げて多布施川に水を流す為の堰の在った所で、現在は川上神社横の頭首工より別水路で多布施川に流して居るので、現在は不要に成り流水の邪魔になるので取り壊された。その後皇太子成婚記念行事として平成17年に復元された。
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連歌帖
佐賀藩主2代藩主鍋島光茂は、幼少から和歌を好み、老年になって西三条家から古今伝授を受けたほどだったが、在国の際はしばしば連歌を催し、その歌帖をすべて蛎久天満宮に奉納した。歴代藩主もこれにならったので、天満宮には今もなお多くの連歌帖が保存されている。
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水神楽(川上参り)
昔から鍋島では各地区とも淀姫神社へお礼参りをして、御神楽を奉納し御神酒開きをする等、現在まで毎年の慣例になっているが、これは淀姫社の御神徳により灌漑水に不足なく、秋の実りの喜びを報告し感謝の意を捧ぐる為の年中行事である。
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お粥ためし
お粥試しというのは綾部神社の「旗上げ」と共に佐賀地方農民の注目の年中行事である。毎年1月1日の四方拝の式典に、蛎久天満宮の神前にお供えした白米の一定量を2月11日建国の記念式に、神官によって修祓をなした後に大きな釜に入れて炊き、焚きあげてから鉢に盛り、これを唐ひつに納め奉殿の神側に安置し、3月25日例大祭の早朝再び神官の手に依って参籠所に持ち出し、一般参詣人に公開されるのである。 そして鉢に盛ったお弼の面にあらわれるカビの色合い、水気の工合等によって其年の米の豊凶を占うものである。特に農家はこれによって、その後の対策を講じる必要があるので、みな真剣である。尚鉢盛の粥には東西南北を更に中間線を画し、中心を佐賀城として放射線的に分画してある。
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ホンゲンギョウ
1月7日朝早く餅を焼いて食べる。昔清涼殿で青竹をたき餅を焼いた。これは全国的な行事となり、鬼火たき、鬼(悪魔)退治の意味がある。ホンゲンギョウは鬼火焚きとかドンドン焼きとか色々の名前で呼ばれ、厄払いの行事で各地で行われていたようだが、どの地方の行事も趣旨は同じのようである。
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荒神餅
正月9日の朝は荒神さんに供えた餅を焼いて食べる。この餅はカマド(へっつい)を摸して作った餅で、これは男性に忌まれ専ら女性用の餅であった。つまり男は台所くさくなってはいけないということであろう。
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もぐら打ち
正月14日に行う男児の行事、田畑を荒らすモグラの害を除き果樹豊産を祈るものである。雌竹を切って先端にわらずとをくくりつけて地区ごとに庭先に円陣を作り、次の歌に合わせて地面を叩くのである。 なれなれ柿の木。ならずの木をばなれぞというた。千なれ万なれ。億万なぁれ。つる落ちすんな。空花さくな。人の子のちぎっときゃ。堀の岸なぁれ。うちの子のちぎっときぁ。畑のまん中なぁれ。去年よりぁ今年ぁ。所見がようして。太うして長うして。ぶちぶらっとなぁれ。十四日のもぐら打ち。
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灌仏会
4月8日。釈尊誕生日。 甘茶とり、花祭りと言って、各寺院ですみれ、たんぽぽ、菜の花、れんげ草など春の草花で飾った「華堂」を作り、その前に大きなたらいを置いて甘茶を入れ、その中に釈尊像をたて、参拝者はお賽銭をあげ、甘茶を釈尊像にかけて礼拝し、甘茶をもらって帰る。家族全部はこれを戴いて病魔よりのがれる様に祈った。
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さなぼり (早苗祭)
7月上旬頃田の神が田植えの終了を見届けて、帰り上がる日であるといわれている。農家では一番つらい田植えが終わり、無事すんだというお祝で、各家庭でご馳走を作り、慰労するものである。この日は米の粉であんこ入り饅頭を作り近隣にも配る。また農家の新嫁はこの日から里帰りする。
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おくんち (供日)
おくんちとは村の鎮守の秋祭りで、豊年に対する感謝祭といえよう。神社では早朝御神幸の式を行い神輿を一時下の宮に安置し、午後上の宮に御遷幸の式を行い、神輿を神殿に奉遷するのであるが、参詣人は神輿の下をくぐって一家繁栄、家内安全を祈る。おくんちには「鮒のこぶまき」を御馳走するのが通例である。
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歳末、家児揃
一年も押しつまり、12月25日になると歳末の行事がある。それは一年間無事生きつづけたことを先祖に感謝して、親類一同集まり会食する。この頃には、正月準備に神棚、家の中の大掃除、すす払いをすまし、大晦日の晩は、「家児そろい」と言って、一家揃って膳につく。相応のご馳走をして、菊がらをたいて、その煙で貧乏神を追いだし、俵箸のけずりくずをたいて、繰り合いの向上を祈り、来年また幸運にめぐり会う様に運そばをたべ、百八煩悩をつきならす除夜の鐘をきいて寝につく。
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三夜待
毎月の23日を中心に開かれる町区の親睦会のことである。普通三夜待の神は女神様だから男がまつり、六夜待は男神だから女がまつるといわれる。三夜待の石碑の前に酒肴をささげ、おさがりを戴いて四方山話に花を咲かせた。三夜さんや三夜待等と言って、佐賀地方の風習行事で、何処の村でも行われていた。 年齢・職業等比較的環境のにかよった人々で仲間を作り、月に1回程度輪番制で当番の家に集まり、会食後夜遅くまで語り合って楽しんでいた。また、三夜待仲間といって、旅行や色々な行事、憂い事、お祝い、病気等で全ての喜怒哀楽を友にする仲間として三夜待があった。 現在周囲は団地化され、職業も境遇も違う人々で、自然と昔式の三夜待グループも解散になり、数グループが残っている程度で、現在は形を変えた仲間作りとして、職業年齢など関係なく気の合う人たちで三夜待の名前で食堂での会食等で会費制の仲間作りがされている。
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六夜待
主婦たちが毎月26日夜、順番に集まった親睦会のことである。一説には26日は石川五右衛門が生まれた日で、この日懐妊しない様に主婦が集まり、徹夜して話にふけり夜があけてから帰宅したともいう。
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彼岸遍路さん
春、秋の彼岸には「彼岸おこもり」と言って、地区のお宮の堂などに集まり、先祖をしのび感謝するもので、主として主婦が出席する。この彼岸中にお遍路の一隊が巡ってくる。遍路とは元来弘法大師の修行の遺跡、四国八十八ヵ所の霊場を祈願のため巡る人たちのことである。佐賀では四国めぐりは困難であるから、佐賀八十八ヵ所を設けてこれで代行している。
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村祭
村社のお祭りは青年団主催で、お宮の境内に仮舞台を設け、佐賀からニワカ役者などを頼んできて、一晩か二晩芝居を催した。町内有志、成功者、区長議員さんなどに案内を出し、その「はな」で芝居の経費はまかなわれた。これも人手、経費などの都合で次第に縮小して二晩が一晩となり、芝居は映画となり、それも今では殆ど見られない。
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公役
昔からのしきたりによって、地区に住む人には公役が義務づけられている。公役は道路の補修とか河川の清掃など地区の実態によって色々異なった共同作業であり、昔は男の仕事であったが、今では婦人が多くなった。地区によっては不参者から出不足金を徴収して、お菓子代にあてているところもある。
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寄合い・よいかた・ももて
田舎の地区は普通、古賀とか小路とかいう隣保組織になっている処が多い。各古賀には班長がいて地区の世話をする。地区全体のまとめ役は自治会長である。この自治会長、班長が地区の役員であり執行部である。自治会長は必要に応じて、各戸一人ずつ世帯主(或いは代理)を召集して寄合いを開き、種々の協議、伝達、報告をする。この寄合いの決議によって自治会長は地区の運営をしてゆく。一面この寄合いという会合は、あらゆるニュースの交換所であり討論の場でもある。
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お茶講
これは昔から伝わっている農村の美しい特色の一つである。各地区のほぼ十戸単位の隣保班組織で、古賀とか小路とかじつことか呼ばれている。江戸時代の昔から残っている自治機関「十人組」の名残りらしい。結婚披露宴や出産、病気、不慮の事故発生の場合など、まずかけつけてくれるのは、このお茶講うちの人たちである。元来信仰的な講の集まりから起こった親睦会の様なものである。鍋島では、仏の供養とか出産とか日晴れとか、お彼岸とか旅行とか退院などの場合一切の配り物をして、隣近所に喜憂を分かち合うことで「遠い親戚より近い他人」という諺どおりであり、こんな美風はいつまでも残したいものである。
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鍬入れの式
東新庄や岸川・他の地区では、地区の行事としてでなく、個人として1月2日、戸主が自家の苗代に鍬入れの儀式を行っている。 それは2日の早朝、松、ツリシバを1本ずつ持って苗代田に行き、鍬で3度土を掘り起こして、それらを土にさし恵方を拝し帰る。 この儀式は今は殆ど行われていない。
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水天宮祭
東新庄の水天宮の年中行事として春祭は3月15月、秋祭は9月15日、近所の世帯主が回り番の当番の家に行き、酒をくみ交し、赤飯を炊いて祝う。
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百手祭り
○上森田(新村)では、八龍社で3月1日に恒例のお祭りをしている。 ももて祭りといって、以前は悪魔悪病退治のため、弓矢をつくり鬼と書いた的を射ったという。今は、矢だけ11軒分つくり神に供え、祭った後、各家に持ち帰っている。 また、各家が順番に毎日かかさず、ごっくうさん(炊きあがりの飯を握ったもの)を供えて奉拝している。 ○中森田でも、乙護法神社で上森田と同じように、ももて祭りが行われている。 いまも的に鬼という字をまん中に、そのまわり三方にも鬼という字を書き、それを矢で射って悪病や悪魔を退散させることが、五穀豊穣の祈願をかねて行われている。 ももては「的射り」のことで「厄神祭り」とも言われる。 ○岸川地区も、森田地区と同じように、ももて祭りが行われている。
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萬部塔の供養
萬部祈願石塔二基 所在地 木角 蓮成寺境内 一基 奉漸読大乗経王一萬餘部 宝永五戍子天四月四日 願主 松尾山白慧上人 門弟 弟謹中 法主 本蒲寺中興通正院日達聖修立 二基 妙法蓮華経二萬餘部日恵 寛保二歳壬戌二月時正日起立 願主 光勝寺三十一世 日宣聖人 法主 部許護國松尾山二十七世讀誦主 萬部堂再建 安政五年とあり 蓮成寺は、百数年前火災で本堂は焼失したと伝えられているが、祈願塔については何の手がかりもなく不明である。 佐賀市水ヶ江1丁目万部島の祈願石塔群の2基とは前後して建立されている。 ○木角地区の人は、毎年4月(第2日曜日)萬部塔の供養を行い、餅と酒を供えて法要を行い、地区民を災害から守り1年間無事で暮らす事ができるようにと神酒をいただき、餅を分けてもらい、各家庭でいただく。 毎年、区の行事として昔から行われているが、建立当時から行われておれば何百年と続いている事になる。
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祗園
一般に祗園といえば祗園会の略で、京都八坂神社祭礼のことであるが、今では村の鎮守の夏祭りのことを「ぎおん」と呼んでいる。元来この祭りは水神信仰からきたものと言われている。神社の境内では仮舞台を設けて、芝居や舞踊をして参道には出店がたち並び、子どもたちにとっては最高の楽しみであった。 ○津留地区では、薬師如来祗園(7月12日)弁財天祗園(7月17日)地蔵さん祗園(7月24日) ○角目地区のお地蔵さん祗園(7月24日)は子どもが祭り、天満宮さん祗園は青年団が祭る。 ○増田地区では、天満宮の祗園祭があり、婦人会役員たちが世話をする。 ○東新庄地区では、宝暦6年に建立された地蔵さんの祭りを夏にしているが、男子の祗園祭である。
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淀姫神社へお礼参り(八朔お籠り)
昔から鍋島の各地区とも淀姫神社へお参り(別名、水神楽詣)をし、御神楽を奉納、御神酒開きをすることが毎年の慣例になっている。これは、淀姫神社の御神徳により、農業用水に対する御礼と秋のみのりを得た喜びを感謝する行事である。 この時、東新庄、江里地区では、神扉を開き、金の御幣を排する。この特典があるのは、元亀元年8月、大友軍が佐賀に攻め寄せてきた時、鍋島の軍勢が夜襲を敢行する事になり、勝楽寺に陣揃いをした。この時、東新庄、江里の百姓が当寺に馳せつけ、竹を伐り、竹槍を作り、奮って従軍した。いよいよ夜襲となり、大勝利を得た。このとき、直茂公から東新庄、江里の土民に対し「何か望みがあるなら遣わそう」、というありがたい御下命があった。すると、淀姫神社の金の御幣を拝したい旨をお答え申し上げた。それからは、この特典がつづいたという。 ○津留では、昭和53年までは全員参拝していたが、今では三役の方が代表で参拝し、帰参後、公民館で全員がいただき座を設ける。 ○増田は早朝から淀姫神社に参拝し、その御神酒をいただく。 ○岸川も同様で代表が参拝している。