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[旧佐賀市][鍋島校区]は122件登録されています。
旧佐賀市 鍋島校区
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お稲荷さん祭
○蛎久地区では、各組1戸より主婦が1人ずつ出席して当番の家に行き、お稲荷さんに魚、揚げ竹輪をお供えして、1年の無事と五穀豊穣の感謝をする。 ○植木地区も同じく11月の第1日曜に、神主の祝詞があり五穀の実りをお願いする。
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八天神社参り
○江里地区では毎月3名、焼山の八天神社に火災免れのため参拝する。 ○東新庄地区では、希望者が藤津郡五町田町にある八天宮に代参し、2月、5月、11月の第3、申の日に当番の家で餅をつき酒を汲み交し安全を祈る。
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地蔵祭り
11月に地蔵まつりを行っている。 永禄12年、大友宗麟は兵六万を率いて佐嘉城を取り囲み攻め入ろうとした。直茂公は三百余騎を率いて多布施口から進み、植木方面で戦った。この時、多くの敵味方が戦死されたのでその霊を植木地区のお地蔵さんに祀ってある。 子どもが祗園祭をし、お菓子を配っている。
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浮立
○蛎久天満宮の春祭りは3月25日に、秋祭りは11月に行われる。ここの浮立のおこりは、蛎久の西の窓口である川原口が、中国などと貿易があっていたのではないかと想像される。 昔、岸川の丈六に流れついた仏像が、川を下って川原口から陸に引き揚げることになった。 仏像は長い間、海中にあったので蠣がいっぱいつき、その上、1丈6尺もある仏像であるため、簡単には揚がらない。そこで鐘、笛、太鼓などおもしろく吹きならして引き揚げた。これ以来、浮立がはじまったそうである。ただ、この浮立は大変もの静かなことが特色である。 ○新庄神社の秋祭りは、11月3日に行われ、江里桜の青年たちが200年前から伝わる浮立を踊り収穫の秋を祝う。 はちまき、ハッピ、黄、赤の色鮮やかなタスキ姿の青年が踊り、小学生の小太鼓、年配の方の吹く笛のひびきがにぎやかに奉納される。その後、各家庭の庭先で収穫を喜び、来年の実りを祈り打ち回って歩く。 江里の浮立は、元亀元年(1570)に今山夜襲、戦勝祝賀のとき、江里地区に浮立が起こったと伝えられる。それを毎年、郷社新庄八幡神社で奉納されるようになった。 文化元年(1804)浮立役割帖ができ、今なお現存する。文化11年(1815)浮立様式を杵島郡地方に習得に出向き、それが現在に至っている。 -役割帖- 江里地区に生まれた男の子は、全員役割帖に記載されることになっている。 小鉦……小学校入学前の子ども 〆太鼓…小学生 綾竹……上級生 大鉦……青年 笛………青年 あとは全部後巻として記載され全部記録帳が残っている。戦時中、鉦を供出したため、一時中止されたが、再び開始され現在もつづいている。
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ねん棒
樫・柳等の木の桂枝を50cmぐらいに切り、先をとがらしたもので、地面に突きさす遊びである。人数は4・5人でやり、はじめの人が地面に突きさすと、次の人から順に突きさし相手の棒を倒す。きれいに倒れたらその棒は倒した者に渡る。これを順々にやっていく遊びである。
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トーバタ(凧)上げ
男の子は稲の穂が出初める9月、畦でトーバタをあげた。小刀で竹を割りヒゴを骨として紙を貼り、思い思いに作ったものを空にあげて友だちと競う遊びである。
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ぺチャ
円形の厚紙にきれいな絵をはりつけたものを、ジャンケンで負けた者が地面に置く。次の人から順にペチャを叩きつける。そのとき、瞬間の風を利用して相手のぺチャをひっくり返すと、そのペチャは自分のものになる。
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堀干しやごみ揚げ
現在の堀はコンクリート護岸が施され、昔の面影は殆どなくなったが、昔は両岸には柳の木や芦が生い茂り、堀の幅も広く、深くて流れは清く、鯉や鮒、鯰などが沢山棲んでいて、夏は魚釣りドウケやウケ等の漁具を使っての魚取りは村民の楽しみだった。 堀は所々に堰で区切られ、色々と堀の名前が付けられて居て、管理は両岸の水田の持ち主で管理と決められていた。 秋の供日が近づけば堀の持ち主が気の合った人を集めて堀干しが始められる。(堀を干し上て魚を捕る事) 堀干しは下流から順々に始められ、堀の水は何時も流れて居るので、上流から始めると吐水が下流に流れ魚が吃驚して逃げ出すので、堀干しは必ず下流から始められる。 水車を何台も据え付けて水を汲出して堀を干上げて魚取り皆で分けて持ち帰り、昆布巻きや焼鮒子を作り、供日のお客のもてなしに利用された。 又春には人手を集めてごみ揚げ(堀の中のがた土)が実施され、昔は化学肥料も少なかったので水田の肥料にされ、又堀は綺麗に清掃され、堀の底の日当たりの良い所にぬくめ(魚拓)等つくり魚が棲み易い様に工夫して魚の繁殖に努めていた。
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鍋島イカダ流し大会
昭和61年度から平成14年度までの15回に渡り、鍋島の西側を流れ、古今そのままの雄大さと恵み豊かな自然美を残して流れる嘉瀬川を活用して、「イカダ流し大会」を実施していた。 子ども達には冒険をとおして心身を鍛え、また協調性や社会性を身につけさせ、併せて自然の美しさを愛する心情を養うとともに、「親と子」「町区相互」のふれあいを深めるとともに、明るく住み良い町づくりを目指すためのイベントとして開催していた。 乗船場所は池森橋で、下流の嘉瀬大橋下まで約2kmのコースを流し、乗船対象者は小学4・5・6年生、中学生とし、低学年生が参加の場合は保護者同伴とした。一般の事業所等の自由参加も花を添えた。 イカダは、地区ごとに親子の手づくりで、工夫した船が作製され、材料は竹・古材木・タイヤ・チューブ・発砲スチロール・空缶などの廃材が多く活用されていた。 どこの地区のイカダにもニックネームがつけられ、ポケモン・サントアイヌ号・ほたるの里号・はばたけムッピー・七夕号・たまごっち・水族館・うるおい水辺号等すばらしい愛称できれいに飾り付けられ、懸命に作ったいかだで楽しい川下りを経験した。また、下船後には第2部のイベントとして、かき氷・バザー・ヨーヨー釣り・お楽しみ抽選会等でさらに会場が盛り上がり、川下りの人気も上昇していった。しかし、各地区でイカダを保存する場所の確保が困難となり、またイカダを製作する時間や費用が年々増大する傾向から平成16年度以降中止せざるをえなかった。
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鍋島の特産物
佐賀にはまるぼうろ、神埼にはそーめん、小城には小城羊羹がある。それぞれ各地の特産、名物のことで各地の代名詞のようになっている。 鍋島は昔から野菜産地として知られている。蛎久牛蒡、増田蕪、植木茄子がそれである。増田の古老の話によると、青年時代には堀にある夏の浮草を集めて畑を深く掘って埋め、腐敗さして肥料づくりをして畑を肥やしたそうである。それも他の農業地帯と同じく、水ぐるまふみ、田の草とり、害虫消毒などの水田作業の余暇にさせられた。それはそれはいやな骨のおれるつらい仕事であったそうである。その様な重労働のために地元だけでは人手がたりず、季節労働者として毎年天草方面から出稼ぎに来る若者も数多くあった。その出稼若者たちの中から、実直健康な青年が見込まれてむこに選ばれた人も何人かある。そしてつい最近まで、作業歌として次の様な歌が残っていた。 いやな鍋島 地獄の増田 なさけないのが 津留 角目
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入れ薬屋さん
富山県や奈良県や田代などから回ってくるおなじみの「置き薬屋」、即ち売薬業者のことで、昔から残っているのどかな風景である。家庭で緊急時に必要な腹痛、歯痛、頭痛、かぜ薬や、のべ膏薬、貝がらにつめた白膏薬などの薬が主で、便利なものとして忘れられず利用している家庭がある。
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嘉瀬川
脊振山地に源を発し、佐賀平野を南流して有明海に注ぐ。115㎞。古湯、熊川の温泉地の渓谷を経て、川上峡の渓谷は風光明媚を誇り、佐賀、唐津、前原を結ぶ交通路となり、川上神社は扇頂に位置し、古代肥前の政治、文化の中心がここに立地していた。 近世の初期成富兵庫の築いた石井樋から分流した多布施川の水は、佐賀城下の日常用水や農業用灌漑水に用いられた。 なお嘉瀬川の本支流の河川が舟運による人や荷物の運搬に利用され、支流の多布施川、巨勢川、佐賀江、八田江、本庄江などには川舟が往復し、多布施川では川上までの川舟が用いられ、川遊びも行われていた。しかし水害も多く、治水については、成富兵庫による石井樋の築造のほか洪水に際して遊水池を設ける野越工法、今日では北山ダムによる流水調節などがなされている。
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多布施川
古くは嘉瀬川の本流であったと考えられている。江戸時代初期成富兵庫は、石井樋という制水口を築造して現在の嘉瀬川に放流し、水量をコントロールして城下の内堀や周辺の飲料水、更には流域の灌漑用水を確保した。 多布施川では川運によって川上から城下まで人や物資の運送が行われていた。佐賀市内を流れる松原川もかつては清流で蛍もとび交っていた。 なお幕末に佐賀藩独力で製作した築地、多布施反射炉は多布施川流域に立地し、この水力を用いて水車の力で砲身をくりぬいていた。嘉永6年(1853)6月アメリカ提督ペリー来航に驚いた幕府は、8月品川砲台の備砲100門を佐賀に注文してきた。佐賀では新たに多布施反射炉を築造した。これを同年10月来佐見学した幕府勘定奉行川路聖謨は大規模な設備に驚き、彼の長崎日記に「いやはや大造なる仕かけなり。反射炉というはタタラを用いずして、一度にクズ銕をふきて、鋳物ながら銕を銅の如く柔らかにするを以て、大銃をつくるなり。ここにて水車を以て大銃の穴を明け、或いは大銃を切り、或いは仕かけにて一万貫目を有るものを、僅か三人にてあげおろしを自由にするなり。」(「長崎日記」安政元年一月二十二日)と、その時既に早くも一大兵器工場として火を噴いていた佐賀の偉容に驚いている。
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蛎久天満宮の一位樫
根回9米、樹高21m、市内では余り見ない樫の巨木。毎年一定の季節になると、主幹にある多くの空洞にフクロウが棲みつく。
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蛎久天満宮の飛梅
太宰府天満宮の飛梅の苗を移植したと伝えられる2世の梅がある。巨木ではないが由緒深い梅である。
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鍋島の竹垣
永禄年間(1558~1570)山城の領主であった佐々木伊勢守が最初に居を構えた時に、京都より従ってきた一族の屋敷の回りに植えた竹垣である。その竹は特殊の竹で小粒の真っ直ぐな竹の種類で、弓の矢に用いられていた様である。後に移り住んだ本庄館附近にも有るが、現在の鍋島の家の竹垣は県の町並み保存の指定となっている。
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鍋島大水害(28水)
嘉瀬川はいつもおとなしくて、恵み豊かな流れであるが、昔から怒ると荒れ狂う本性を現わす暴れ川といわれてきた。 昭和28年6月24日から連日土砂降りの豪雨が降り続き、佐賀測候所始まって以来の月間雨量を記録したと新聞は報じた。水害が起こる数日前から田圃は浸水し、大人の膝あたりまで水嵩が増していた。各地区との間の田圃の畦道や農道も堀も一面湖と化し、ただ見えるのは堀端の大きな柳の木や高い樹木だけであった。田植時期なのに自分の田圃が何処にあるのか見定めのつかない状態であった。 連日の豪雨で岸川地区の堤防は随所に漏水箇所があり、消防団・青年団・地元や周辺地区の人が中心に徹夜の応急補強作業を行ったがそのかいもなく、午前8時40分に堤防が決壊し、一瞬にして鍋島全村を濁流が襲いかかった。蛎久地区の東を迂回した濁流は角目・新村を襲い、西に向った濁流は津留の真中を突き抜けて鍋島小学校をめがけて波頭を高く押し寄せてきた。藪や柳はなぎ倒され、作業小屋は流され、わら小積みが小舟のように傾き流され、出荷前の菜類や麦の俵が濁流に浚われて、想像をしたこともない地獄絵図を見るような情景であった。最後まで堤防の上で蛎久区長として監視を続けていた石丸久光氏は奔流に飲まれ殉職された。 直ちに水害対策本部を設け、水勢が渦巻く中250mに及ぶ決壊の復旧作用は難航を極めたが、必死の作業で仮せきとめに成功した。(7月15日午後2時30分 締切日出動人員7,111名)
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新庄八幡神社のクスノキ
・ 昭和51年佐賀県の名木古木に登録されている ・ 登録時推定樹齢は400年以上 ・ 佐賀県名木古木番号は、01273 ・ 幹周りは、3.9m 樹高は16m ・ 平成18年9月1日佐賀市保存樹に指定されている
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稲荷大明神のムクノキ
・ 昭和51年佐賀県の名木古木に登録されている ・ 登録時推定樹齢は300年以上 ・ 佐賀県名木古木番号は、01694 ・ 幹周りは、3.1m 樹高は20m ・ 平成18年11月1日佐賀市保存樹に指定されている
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蛎久天満宮のムクノキ
・ 昭和51年佐賀県の名木古木に登録されている ・ 登録時推定樹齢は410年以上 ・ 佐賀県名木古木番号は、01695 ・ 幹周りは、3.3m 樹高は20m ・ 平成18年11月1日佐賀市保存樹に指定されている
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成富兵庫茂安
佐賀市には兵庫町という町があり、三養基郡には北茂安町がある。また三根町の半分は、もと南茂安村と呼ばれていた。これらはすべて戦国の武将龍造寺隆信の家臣で、その死後鍋島直茂、勝茂に仕えた成富兵庫茂安の名にちなんだものである。また、北茂安町には、北茂安音頭が生まれた。佐賀大学名誉教授内山良男氏作詞、唐津松浦文化連盟委員松下又彦氏作曲のもので、その新民謡には茂安の徳をしのんだ一節がある。 ハア 成富公のナイナイ ご遺徳偲びチョイト 土手のあたりで鳥が舞う サテピーチクパーチク賑やかに このように死後300年たつ今もなお、兵庫は治水の神として、あちこちで年に1度は「兵庫さん祭」といって、近くの農民が集まり、彼の遺徳を偲んでいる。成富兵庫茂安こそは、鍋島が生んだ第一級の偉人である。 成富兵庫茂安は、成富甲斐守信種の二男として、永禄3年(1560)鍋島町増田で生まれた。増田地区東北隅嘉瀬川堤防には、昭和42年2月同町公民館有志の発起で、「成富兵庫茂安公誕生の地」の碑がたてられている。 その記念碑の題字は池田知事の筆で、裏には宮田佐賀市長の撰文になる功績を称える碑文が刻まれている。除幕式には、増田子どもクラブのよい子たちが歌う「成富兵庫の歌」が早春の嘉瀬川堤防にはずんだ。 茂安は資性豪勇、智慮深く、17才の初陣に、偉功をたてたのを初めとし、寛永11年(1634)9月病没するまで75年間、前半は今山戦は勿論、朝鮮の役はじめ、大小幾多の戦闘に参加し、武勲を顕はした武将として知られている。 また築城、治水、土木工事の達人で、荒蕪地を開墾し、干拓工事を起したり、新田を作ったり、或は植林をなすなど幾多の事業を行って藩の財政を豊かにした。 即ち中年頃は江戸、京都、駿府などで築城技術の名手として招かれ、次の様に佐賀以外の各地で名をあげた。 慶長6年二条城普請 慶長8年江戸市街修理、運漕水路開発 慶長11年江戸城修築 慶長13年駿府城築造 慶長14年名古屋築城 このように茂安は、豊臣直系の加藤清正と共に、各方面の工事に参画し、手腕をふるい、しばしば当意即妙の技を演じ、数々の逸話を遺している。それは「成富家譜」にくわしい。 こうして兵庫は「鍋島家に成富兵庫あり」と名がとどろいた。一方武士としての心ばえもいさざよく、加藤清正から1万石で招かれたとき、鍋島武士のならい「たとえ肥後一国を賜わるとも応じがたく侯」と謝絶したことは有名である。
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高木秀臣
天保4年(1833)江里に生る。明治3年伊万里県大属となり、6年文部省出仕、7年司法省に入り、累進して20年東京控訴院検事長に補せられたが、大正5年83才の高令にて逝去。若い頃脱藩上洛の罪によって、小城大野山金福寺に蟄居中の江藤新平の世話をして、佐賀城外丸目に移転の便宜をはかったこともある。時に元治元年江藤32才。高木33才であった。長男甚平はベルリン大学卒業後東京高商教授、次いで日本銀行に転じ、次男祐吉は東京大学工科卒業後実業界に入り、孫高木八尺は法博東大教授であった。
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小林芳郎
安政4年(1857)佐賀藩士南里与助四男として出生、即日岸川小林文蔵の養子となる。司法官を志し明治16年判事補に任じ、累進して大正2年大阪控訴院検事長に補せられた。その間取扱った事件としては、大正2年米騒動、京都府疑獄事件(豚箱事件)朝日新聞主筆鳥居素川筆禍事件などがある。大正11年80才の高令にて逝去す。
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本村善太郎
木角出身。京都大学法科卒業後東京大学大学院にて刑法専攻中、時の大蔵大臣武富時敏に認められ、秘書官として20余年間その側近に終始し、大正6年弁護士に登録し次第に敏腕を認められ、国鉄事件、二・二六事件(久原房之助、眞崎大将関係分)、九州電力背任事件、神兵隊事件など天下の大事件を担当した。これは彼の信望と実力を如実に物語るものと言えよう。こうして昭和27年認証官たる最高裁判所判事に就任したことは郷土の誇りであり、退官後も法曹界の重鎮として活躍した。彼の郷土愛と母校愛とは人も知る通りで、常に郷土の振興発展を念願とし、後輩の指導啓発に努力しつつあり、町民の信望と敬慕を集めた。28年大水害には、直ちに被害状況と死傷者の有無問合せの電報と、多額の見舞金を送った。また母校鍋島小学校には勧学旗(2回)を寄贈し、昭和30年には新時代の子どもたちの心の糧として校歌を贈った。鍋小のよい子たちはいつも恩情あふれる校歌を口ずさみながら、大水害にも大火災にも屈せず頑張りつづけている。
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堤長定
植木出身。嘉永6年(1853)生れで明治7年佐賀戦争には血気21才で少年隊に属し、3月23日寒水川、田手川の戦にて勇戦した記録がある。彼は資性剛直、清廉潔白で教育事業に特に熱心であった。当時鍋島町内には小学校が数カ所に別れ非常に不便であったので、一町一校の学校建設のため、東奔西走して町民の同意を得て、遂に明治16年養正小学校が創設された。彼は教員として或は学務委員として本町教育に貢献すること30有余年不滅の功績を留め大正13年72才にして長逝した。七賢人の島義勇の甥にあたる。
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吉田熊一郎
東新庄出身。教育界に長く職を奉じ、精励格勤県知事表彰を受け、佐賀郡三反田小学校長を最後に現職を退き上京、金融界に活躍すること10余年にて帰郷し、以来学務委員、学校後援会長に選ばれ村教育発展に尽瘁した。彼の住宅は由緒ある佐賀藩鷹屋敷であり、その壮大な庭園には今尚その名残が偲ばれる。
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千住九三郎
増田出身。明治2年生。22年鍋島小学校教員に任命され、以来その職にあること30余年にて多大の功労を残し大正8年12月退職に際しては、全村その謝恩会を開き、金盃1組を贈呈した。
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古川栄
本村出身。明治28年佐賀師範を卒業し、直ちに青藍高等小学校教員に就任し、翌年異数の抜擢にて新田小学校長に任命され、その後教職にあること15年、鍋島小学校長に任命されてから最後の御奉公として鋭意奮闘内容改善、校風振興に努力し、その功績顕著なりとして知事表彰を受けた。退職後村会議員2期務めた。明治43年古川校長以下小学校全教員協力編纂した「郷土案内歌」は昔の鍋島風景を如実に語っている。
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石丸久光
元陸軍工兵中佐。蛎久出身。明治45年陸士卒。大正3年青島戦に戦功抜群にて、近衛隊附となり昭和7年予備役となり帰郷し、青年学校指導員となり郷土青年の指導訓練に精進し、昭和12年村助役に推され、村政に参画し村民の信望をあつめた。終戦後村教育委員長として教育振興に全力を傾注した。昭和28年6月大水害当時蛎久区長として消防団青年団員を指揮して徹宵堤防補強作業を続けたが、26日午前8時40分決潰し、最後まで堤防上にて警戒中の彼は濁流に呑まれ殉職した。至誠剛直で愛郷心が強く、鍋島の発展と教育の振興に、青年の様な夢と熱をもって活躍した人であった。
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千綿ちか
明治17年3日月生。明治35年佐賀師範卒業後若木、桜ケ丘各学校の教職にあること16年。其後推されて方面委員、母性補導委員、愛国婦人会鍋島分会長などの公職につき、村教育厚生方面に多大の貢献をなし、終戦後昭和26年村会議員に当選、昭和30年には多年の宿願であった幼稚園を設立し、人間形成上最重要な幼児教育に体当りで取りくみ、若者の様な夢と情熱をもって絶えず前進しようとの熱意に燃えていた。然し天は女史に齢をかさず昭和39年4月病のため81才にて没した。幼稚園は五男安正氏が遺志をつぎめざましい発展をとげている。女史の女性らしい物腰、かんで含める様な口調、理路整然とした講話は今もなお婦人会での語り草となっている。