検索結果 RESULT
- 旧佐賀市
- 検索結果
[旧佐賀市][ 人物]は161件登録されています。
旧佐賀市 人物
-
日軌上人と華道
佐賀の去風流の生花は上飯盛の常照院第17世日軌上人が、まだ嘉瀬町妙福寺にいたころ、京都にて去風流家元第2世、蘭皐舎子來師について奥義を極め、家元の第3世を受け継いで帰佐し、去風の生花を佐賀に広めた。 この日軌上人が去風流家元第3世、花兮庵寒崖(カケイアンカンガイ)で、佐賀における去風流の祖である。 寒崖は佐賀に帰ってから、各所で花会など開いて大いに流布に努めたが、その花風は上下の称賛を得て、8代藩主治茂の傾倒するところとなる。従って、去風流は、たちまちお国流となって明治時代まで伝承されたのである。
-
中野實翁
上飯盛集落南東部の一角に中野實翁生誕記念碑がある。翁は安政元年(1854)この地に生まれた。九州電燈鉄道始め多くの企業の経営に参画し、取締役や社長を務めた実業家である。一方では子弟教育や社会福祉事業にも大きく貢献された。大正11年(1922)の本庄尋常高等小学校の新校舎建築に際し、その費用5萬円を当時寄附されている。大正13年(1924)には、衆議院議員になった。 また、翁を称える中野實翁頌徳碑が本庄小学校校庭に建てられていた。
-
武富 時敏
安政2年(1855)、佐賀藩士武富良橘の長男として生まれる。始祖十三官より十世にあたり、明治14年、九州改進党を結成し明治16年県会議員に当選する。明治20年佐賀郡長となり郡の財政を改革、明治23年国会議員となる。内閣書記官長を経て、大正3年大隈重信内閣の時、大蔵、逓信両大臣を歴任した。又、佐賀県下の日刊新聞黎明期において「肥筑日報」を発行して縦横の論議を発表したことも有名である。墓は、武富廉斎と同じく呉服元町「称念寺」にある。
-
相良 知安
日本の医学をドイツ式に整え、現代日本医学の基礎を確立した功績者である。佐賀藩医の子として生まれ、長崎・精得館などに進み、帰国後、佐賀藩主鍋島直正の侍医となる。明治2年、鍋島直正に従い上京し、医学制度改革を命じられた。その後、従来の蘭英医学を廃し、日本はドイツ医学に依ることを主張し、その必要を説いた。
-
久米 邦武
天保10年(1839)、佐賀市八幡小路に生まれる。幕末、江戸にて昌平黌に学んだ後、明治維新とともに新政府に仕えた。明治4年、岩倉具視の欧米視察に同行し帰国後、「米欧回覧実記」を著した。その後「国史眼」を編集し、古文書学を樹立し、日本古代史の学問的研究に先鞭をつけた功績は大きい。佐賀市八幡小路に息子・桂一郎とともに生誕碑がある。
-
久米 桂一郎
慶応2年(1866)、久米邦武の長男として佐賀市八幡小路に生まれる。洋画家。 20歳でフランスに渡り、ラファエル・コランに入門する。この頃、黒田清輝と出会い.明治26年に帰国する。その後、二人は自由闊達をモットーに「白馬会」を創設した。
-
岡田 三郎助
明治2年(1869)、佐賀市八幡小路に生まれる。幼時に上京し、旧藩主鍋島直大邸で百武兼行の油絵に接し画家を志す。明治27年、久米桂一郎が指導する天真道場に入門し、その後「白馬会」創設に加わる。同30年にフランスに渡り、ラファエル・コランに師事する。正確に絵を描き、多くの色を使った彼の絵は、世界各地で開かれる展覧会に日本を代表して出品された。昭和12年、日本で最初の文化勲章を授与される。 また、工芸美術の収集、指導にも努力した。郷土佐賀の美術界発展に尽くした功績も大きい。
-
山口 亮一
明治13年に生まれ、勧興小学校より佐賀中学校へ進む。明治39年、東京美術学校・西洋画科に入学し、岡田三郎助らの教えを受け、「白馬会」に出品する。その後、帰郷し故郷の風景や花など日本画、洋画を通じみずみずしい作品を多く残す。大正2年に、久米桂一郎らと共に「佐賀美術協会」を創設し後進の育成にも力を注いだ。山口亮一旧宅は、明治初期に白石町須古から与賀町に移築されたものである。
-
青木 繁
明治15年(1882)久留米市生まれ。明治の洋画壇に「彗星のごとく現れた画家」が青木繁である。明治15年、久留米に生まれ22歳で東京美術学校を卒業した。そして白馬会展に「海の幸」を出品して一躍名声を上げた。明治40年、25歳の時に久留米に帰省しその後、佐賀や小城など九州各地を放浪する。佐賀では小学校時代の恩師を訪ねたり、「西肥日報」の西英太郎の援助を受け、画展を開いたりする。その時に宿泊したのが、「旅館あけぼの」である。青木は、この旅館に泊り込み佐賀市内や小城などを訪ね歩き数点の絵画を各地に残している。明治44年(1911)波乱の生涯を閉じた。
-
武富 廉斎
武富廉斎は、「明人十三官」曾孫にあたりその名は咸亮(かんりょう)と呼び、寛永14年(1637)、白山町に生まれる。幼い頃に漢学を学び、若くして京都に赴き中村愓斎(てきさい)の門に入り、帰国後「鬼丸聖堂」の創始者・実松致斎を育てた。後に、藩主鍋島綱茂公より儒学者として召し出され、大財村「大財聖堂」を建立し藩内の文教に大いに貢献した。又、諫早の慶岩寺住僧より筑紫琴を学び、京都の公家よりは琵琶を学んだ。その琵琶の由緒が後水尾天皇の上聞に達し、御前にて弾奏の運びとなり譽れ相まって「孝鳥弦」の名を賜ったほどである。墓は、佐賀市呉服元町の「称念寺」にある。
-
大倉邦彦
明治15年(1882)4月9日、士族江原(えはら)貞晴の次男として、佐賀県神埼郡(かんざきぐん)に生まれる。昭和46年(1971)7月25日、89歳で没する。号は、三空居士(さんくうこじ)。 明治25年(1892)勧興小学校卒業。同35年(1902)佐賀中学校卒業。明治39年(1906)、上海の東亜同文書院(とうあどうぶんしょいん)商務科を卒業後、大倉洋紙店に入社。明治45年(1912)、社長大倉文二(ぶんじ)の婿養子となり、大正9年(1920)に社長に就任した。 わが国の教育界・思想界の乱れを憂えた邦彦は、私財を投入して東京の目黒に富士見(ふじみ)幼稚園を開いたり、郷里の佐賀に農村工芸(のうそんこうげい)学院を開設したほか、昭和7年(1932)に大倉精神文化研究所を開設した(昭和11年に文部省所管の財団法人として認可される)。邦彦は、所長として研究所の運営・指導にあたり、歴史・宗教・教育・思想各分野の研究者を集めて学術研究を進めるとともに、精神文化に関する内外の図書を収集して附属図書館も開設した。また、昭和12年(1937)、東洋大学学長に就任し、在任は2期6年にわたった。 昭和20年(1945)、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘禁されたが、昭和22年に嫌疑がはれて釈放され、27年に研究所理事長兼所長に復帰した。 昭和33年(1958)、タゴール記念会の理事長に就任、昭和36年には大倉洋紙店会長となり、37年の皇學館大學の創立に際して学事顧問となった。昭和41年東京佐賀県人会の顧問も務めた。写真は大倉邦彦と横浜市大倉山記念館(館内の一角に財団法人大倉山精神文化研究所がある。附属図書館を併設)。
-
佐藤 尚武
佐藤 尚武は、日本の外交官・政治家。勧興小学校卒業。 林銑十郎内閣で外務大臣、戦後には参議院議長等を歴任、第二次世界大戦末期のソ連による対日宣戦布告当時の駐ソビエト連邦大使でもあった。 1933年、国際連盟でのリットン調査団による報告書の採択の際は、松岡洋右主席代表や長岡春一駐フランス大使とともに抗議の退場をした。 1931年勲一等瑞宝章。1934年旭日大綬章、没後旭日桐花大綬章を追贈される。 昭和8年(1933年2月24日)、国際連盟特別総会においてリットン報告書(対日勧告案)が採決され、賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム=タイ)の賛成多数で可決された。 可決直後、席上で松岡洋右日本全権は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と表明し、その場を退席した。 佐藤尚武はこの時、フランス特命全権大使の任にあり、松岡洋右と長岡春一駐フランス大使と行動を共にした。
-
千住 虎吉
勧興小学校の初代校長先生である。天保13年(1842)に生まれ、弘道館に学び戊辰戦争で奥羽征討にて功績があった。明治7年、弘道館内の蒙養舎を継承して勧興小学校を創設した時に校長に任命された。その後、17年間にわたりその職にあり、学校教育の発展に貢献した。
-
武富 い南(いなん)
武富い南は、始祖十三官から九世にあたり、文化3年(1806)、佐賀白山町に生まれた。 初め中村嘉田に学び、後に江戸で古賀侗門に入り博学多才、和漢古今の多くの書に通じた有名な学者である。 帰国後、藩校「弘道館」の教授となり幾多の諸生を教育し、晩年は、八幡小路に学塾「天燭舎」を興し文教に大いに貢献した。 又、幕末の「楠公義祭同盟」連名帖にその名を見ることができる。 墓は、武富廉斎と同じく呉服元町・称念寺にある。 (注)「武富い南」の「い」を漢字で表記すると、「圯」の右部分が「已」で表記される。
-
宇野善左衛門
宇野善左衛門は、鹿島藩士で建築・土木の手腕があり、佐賀本藩に招かれた。 嘉瀬橋の架け替えなどしてその功績が認められ、十五人扶持を与えられた。 多布施川に架かる石橋を自費で架け替え、地元の人々はその橋の名を「善左衛門橋(ぜんじゃーばし)」と名付けた。 寛政13年(1801年)、86歳で没し、墓は多布施の西峰院にある。
-
宇都宮 太郎
文久元年(1861年)〜大正11年(1922年)、佐賀市多布施出身・陸軍大将。イギリス公使館付武官、第7師団長、朝鮮軍司令官を歴任した。階級は陸軍大将で桂太郎、仙波太郎と共に「陸軍の三太郎」と呼ばれる。
-
西久保弘道・豊一郎・ 豊成
<西久保 弘道> 文久3年(1863年)~昭和5年(1930年)は、警視総監・北海道庁長官・福島県知事等を歴任する。 鍋島村(現佐賀市)に生まれる。明治45年から福島県知事を拝命し、大正3年4月21日には北海道庁長官に就任する。大正4年8月12日に警視総監に移る。西久保豊一郎陸軍少佐は弟。 <西久保 豊一郎> 明治2年(1870年)~明治38年(1905年)は、日本の陸軍軍人。歩兵第50連隊第1大隊長、後備歩兵第29連隊大隊長等を務め、日露戦争で勇戦し、樺太攻略戦に於いて戦死を遂げる。 <西久保 豊成> 明治33年(1900年)~昭和2年(1927年)は、佐賀市立勧興小学校、佐賀県立佐賀中学校をそれぞれ首席となり、熊本陸軍幼年学校に進む。ここに於いても首席の成績を修め恩賜の銀時計を授かる。陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校に進み、大正10年7月27日に卒業する。同年10月26日に陸軍歩兵少尉となり、内務省に務める。前出の西久保弘道は伯父にあたる。
-
小柳助治
工学士。京都大学卒業後長崎三菱造船所電機設計課交流係主任の要職につき、在職10年にて帰郷し、佐賀中学の教職につき10年。退職後佐賀機械工業組合を経営し、終戦後は農業の傍ら読書思策を続け、「哲学の根本」、「唯空論と唯物論」、「唯空論哲学摘要」などの著書がある。また戦後混乱の昭和22年10月から初代鍋島公民館長として活躍、公民館生みの親としてその基盤を築いた。彼は無類の記憶力と読書力があり興至れば、三昼夜宗教書を読み耽ったこともあるという。三菱では電気工学の権威としてアメリカ留学を命ぜられ、佐中では物理主任として、名物教師であり、腕白少年たちからドンポー先生の愛称で敬愛され、一面奔放奇抜、談論風発、その超人的勉強と野人ぶりは鍋島一の異才であった。
-
秀島辰太郎
明治2年江頭生。24年鍋島村役場に奉職、29年収入役、32年助役におされた。その間村農会副会長、都農会幹事など幾多の公務につき、38年村長におされた。以来5期を重ね、村史員として前後34年間精勤村治に尽瘁し、一面教育の振興、衛生の普及につくし貢献する処多大で、村民の信望も厚かったが、不幸病を得て死去した。
-
中島猪六
明治19年新村生。36年佐賀農学校卒業後、41年佐賀税務署に勤務し、大正6年おされて村収入役となり、11年助役に進み、昭和3年村長に就任し、7年再選され村治に精励し多大の功績があった。
-
島義勇
1822.9.12~1874.4.13(文政5~明治7)。政治家。佐賀城下精小路(現在、佐賀市与賀町精小路)佐賀藩士島市郎右衛門有師の第一子として生まれ、9歳で藩校弘道館に入学した。23歳で卒業して諸国に遊学、とくに、水戸の藤田東湖と親しく交わった。26歳で弘道館目付、藩主閑叟公の外小姓となった。35歳のとき、閑叟公の命により北海道、樺太の探検を行なった。1858年(安政5)長崎港外香焼島守備隊長となり、1864年(元治元)御船方から観光丸(幕府所有の預かり船)船長、1868年(明治元)2月、軍艦奉行となった。同年5月、朝命で陸軍先鋒参謀の佐賀藩兵付となり、関東の総野(下総、上野=現在の栃木県今市市付近)で転戦し7月、下総・上野鎮撫軍監から江戸鎮将府会計局判事、民政掛徴士、鎮台府判事、会計局判事などを歴任した。1869年(明治2)7月蝦夷開拓使首席判官となり札幌の開拓を決定。朝廷より従四位を贈られ、大学少監、秋田県権令などを歴任した。1874年(明治7)2月、不平士族を抑えるようにとの三条実美の内命を受けて離京西下したが、佐賀の役が起こると憂国党を率いて、政府軍と戦った。乱後、4月13日、江藤新平とともに除族のうえ梟首された。53歳。1916年(大正5)4月、従四位復位追贈。北海道開拓の恩人として、札幌市に銅像が建設されている。 ※『明和八年佐賀城下屋舗御帳扣』(2012年、鍋島報效会)によれば、島義勇の出生地は「西田代横 同小路南側 従東到西 六番」で、現在の佐賀市西田代にあたる。
-
山本常朝
万治2年(1659)生まれの佐賀藩士で、「葉隠」の口述者。通称神右衛門。童名不携。市十郎、権之丞とも名乗った。佐賀藩士山本神右衛門重澄が70歳の時、その末子として出生。重澄は中野神右衛門清明の3男で山本助兵衛宗春の養子となり、山本家を継いだ。幼少の頃の常朝は、20歳以上は生きながらえることはできないだろうといわれるほどの虚弱な体格の持ち主だった。 しかし、臨終の病苦に耐えて呻き声を出さなかったほどの剛の者の父重澄は7歳の常朝に武者草鞋をはかせて小城市三日月町の勝妙寺までも墓参に赴かせるほどのスパルタ教育を行なった。常朝は9歳で佐賀藩2代藩主鍋島光茂の御側小僧になり、次いで小々姓、成人後は御傍役、御書物役となり、光茂に近侍した。その間、儒教、仏教の造詣深く、当藩第1の碩学とうたわれた元佐賀藩士石田一鼎宣之の薫陶を受けた。一鼎は、そのころ松梅村下田(佐賀市大和町下田)に閑居していた。また、同村松瀬の華蔵庵にいた禅僧湛然にも師事した。元禄13年(1700)藩主光茂が没すると、常朝は出家剃髪して金立山麓の黒土原の草庵に隠棲した。佐賀藩士田代又左衛門陣基がその庵を訪ね、宝永7年(1710)から7年間をかけて、常朝の談話を筆録したのが、「葉隠」の中核となった。常朝の法名は旭山常朝、墓は、佐賀市八戸の龍雲寺にある。
-
高木氏
東高木の通称郷倉という所に、「高木城の跡」という標識が建っている。鎮西屈指の豪族として盛えた、高木氏の居城の跡である。 高木氏は藤原累代の豪族であって、大織冠鎌足の正統、中関白藤原道隆公の後裔といわれる。公の子文家及びその子文時何れも、中納言太宰師であった。文時の子文貞は右近衛中将、その子季貞は太宰の大貳であった。このように代々太宰府の官吏であり、又肥前国龍造寺の地頭職となった藤原季家という者もあった。要するに、太宰府の役人であった藤原一家の者が、この地方に土着、勢力を張り附近を支配するようになったのが、高木氏の起りである。 佐賀郡誌にも、清和天皇の頃より、国司は遙任の風を馴致し、介、椽等の府吏地方に勢力を得るに至った。本郡にもまた府吏より家を起して一方に雄飛する豪族を出した。その主なるものは北方に高木氏あり。と書いてある。 季貞の子、貞永というのが越前守と称し平家残党追討のため、この地に下向して高木の地に居館を構え、その長子宗貞の時から、所の名を取って高木氏と号するに至った。 鎮西志に貞永に三子あり。長を宗貞と日ふ、肥前に在り、高木氏を始む。其の虞を以って氏號と為し、兼ねて河上社の宮司職を掌る云々とある。 藤原季家が肥前龍造寺の地頭職に補せられたのは、文治2年(1186)9月27日とあるから800年近くも前のことである。 このように貞永の時代から高木に居城を構え、その守り神として高木八幡宮を創建し、武威を四方に拡大した。 高木宗貞は肥前守と称し代々国府執行の職にあり、在廳国司の謂にして、於保郷を知行す。ともあるから、高木地方のみならず、川上の於保地方にも領地を持っていたのである。また宗貞は、河上社の宮司をも兼ねていたのであるから、上佐賀一帯が高木の支配下にあったということができる。そして草野、北野、上妻、於保、益田、八戸、笠寺、長瀬、富崎、龍造寺等の家系として、発展して行ったのである。 越前守貞永が、八幡社を創建したことについては、別稿八幡社のところで詳述のとおりである。 又鎮西志に「正嘉元年(1257)北條時頼、薙髪して道崇と號し、肥前国佐嘉郡北原河上社に至る。祭祠の日か、詣りて神前に参り、高木氏の社参に遇ふ。高木氏は上佐賀、諸縣の若干地を領地して勢の有る者也。本地は甘南備峰、居館は高木邑、特に當社の宮司職たり。騎卒多勢、列々詣づ焉、修業する者社邊を徘徊す。或は之を迫ひ、或は之を將ゐ、其の場に引きずり、卒を以って遂に之を退く。其の所為太だ無礼也。亦且つ高木氏の駕する所の鷲泥、衣袍に及ぶ。道崇蜘○して本所に還る。夫れ高木氏は、上佐賀の所領を削られ、其の地を以って、国分忠俊を封ず。今朽井鑰尼(鍵山)と稱する。云云とあり。 思うに、北条時頼が姿を変えて地方行政を視察するため諸国行脚をした折、このように高木氏の郎党共が、高慢無礼の所行があり時頼の装束まで、汚泥をつけてしまった。その非礼の責任のため、後々上佐賀の所領を削れたのであろう。そこで、鎮西志には、室町以後、此の氏、何によりてか、南北朝以後大いに衰へ、永享6年(1434)、嘉吉元年(1441)などに僅かに見ゆ、但し天文(1530-)の末年に、高木能登守鑑房、同胤秀等あり。東西高木と稱して猶存せしが鑑房、龍造寺隆信に誅戮せられ、全く亡ぶ云云とある。 高木氏は、太宰少貳の系統であったから、文永、弘安所謂元寇の役の時にも、少貳氏の指揮下に在って国難に当った。高木一族の高木伯耆守六郎家宗、国分弥次郎季高、於保四郎種宗等は大いに戰功をたてた。 鎌倉幕府が滅びてからは、朝廷側の菊池氏と戦ったが中央の形勢が非となるや態度をかえて北條を攻めて探題を自害せしめた。後醍醐天皇の皇子尊良親王下向の際はまた反朝廷側につき高木伯耆太郎という武將もこの方に味方した。南朝北朝の覇權爭いの時代、いつも少貳氏との旧縁で、北朝の將軍方に属していた。征西將軍懐良親王が九州に、出征されたときも高木氏は反宮方であって、勤王方の菊池氏と戦っている。 天文22年(1553)龍造寺隆信と鑑兼(隆信の妻の兄)との同族の争のときには、高木城の高木鑑房同胤秀は鑑兼の方に加担した。高木胤秀は西高木城主といわれている。高木の系統である八戸宗暘も鑑兼の方についたが、宗暘の妻は隆信の妹であったから八戸氏とは和議が成り立った。 天文23年(1554)3月、隆信は高木城主・高木能登守鑑房を討つべく兵を進めた。元来高木と龍造寺は同系であり共に少貳氏に属していて、今まで相争うことはなかった両家に角逐が起ったのはこれが初めである。鑑房は隆信の軍を三溝に迎え、防戦したが戦利あらず、去って杵島郡佐留志の前田氏を頼って落ちのびた。 近世に至って、東高木家より、佐賀戦争や西南の役に参加した、高木豹三郎の名がある。その子誠一郎・高木背水は明治10年生れ昭和18年に没したが、洋画家として名を残した。明治天皇の御肖像を初め、多くの名画を残した。明治天皇の御肖像は、背水師の原画に基づくものが多い。背水画伯のことについては高木背水伝や、佐賀史談昭和48年7月号に詳しい。西高木家からの系統は明治の初期東京控訴院検事長であった、高木秀臣、東大国際法の教授であった法学博士高木八尺氏などがある。 高木城跡、八幡社、正法寺門前等にある由緒碑は、昭和16年11月この高木背水氏と高木良次氏が建てられたものである。 高木城はどんな規模で又その広褒はどうであったろうか、記録等何一つ見当らない。又東西の高木に分れていたものの、その城跡、居館の跡も定かでない。郷倉から少し離れた田圃の中に、一つの丘陵があったが、四周から削られて今はほんの数坪ばかりの土塁があるが、ここには熊野大明神が祀られている。こんな所や、東高木、上高木、下高木、寄人の地域に、館、馬場先、櫓の下、前櫓、西櫓、守垣、垣元、門之内等の地名が残っているから、そんな所が高木城の跡であろう。又館橋から東流する、今は県営水路となっている小川の北側は、横堤といって竹林が生い茂っていた。この竹薮は高木城を隠す役目をしていたという。この点から考えても高木城はさほど大きくない、平城或は館であったことが判る。
-
肥前忠吉
肥前鍛冶の中心人物は名匠忠吉である。忠吉家は初代忠吉より11代、初代門人正広家は15代、慶長より明治にかけて、約300年以上連綿として続いている。初代忠吉の門人には、正広、広則、広貞、吉房、吉國、吉広、忠清、行広、忠國等の名工が輩出している。 初代忠吉は姓を橋本、名を新左ヱ門と言い。遠く先祖を尋ねれば、太宰少貳の一族である。忠吉は元亀3年(1572)天下麻のように乱れた時、肥前国長瀬に生る。祖父盛弘、父道弘、龍造寺隆信に仕えて、共に天正12年3月(1584)隆信公島原の役に、薩軍と戦った時、公と共に戦死した。 この時忠吉は弱冠13才であった。13才にして主家は敗れ、父祖を同時に失った、世にも不幸の少年は己むなく武士を捨て、一族の刀匠に就て鍛刀の術を学んだ。学ぶこと13年刻苦精励の効空しからず、はるかに師を凌駕するようになったが、なお忠苦その意に満たず、25才の時、笈を負うて、京に上り、当時新刀鍛冶の祖といわれた名匠埋忠明寿に師事し、専心研究3年にして秘伝を伝授されたという、天性又非凡であったというべきであろう。 忠吉は元和元年(1615)再度上京し同10年2月18日武蔵大椽に任ぜられ、以後名を忠広と改めた。寛永9年壬申(1632)8月15日病を以て没した享年61才(鷹木隆城氏著作に依る県人会報昭10、7月号) 子孫は分家筋に当る河内大椽正広の後裔に当る橋本正敏氏が佐賀市長瀬町に橋本宗人氏が高木瀬町城北団地に居られる。 ちなみに、昭和50年1月22日附佐賀新聞に依れば、初代忠吉は、京の埋忠明寿の門に入る前に、加藤清正のお抱え鍛治であった熊本県玉名市伊倉の田貫善兵衛に弟子入していたことを証明する古文書が橋本正敏氏宅から発見されたということである。
-
佐賀戦争に参加した高木瀬の人
明治7年(甲戌)の佐賀戦争については、江藤新平伝その他沢山の著書もあり、戦争後100年目に当った昭和49年には、テレビ、ラジオにも取り上げられ、殉難者の100年記念特別慰霊祭も行われ、江藤新平記念碑の建立計画も発表された。 当時の佐賀にとっては、佐賀戦争はどこも、ひっくり返るような一大騒動であったろうと思われる。直接戦闘に参加しなくても人夫にとられたり、直接間接生命財産の不安にさらされたことであろう。 高木瀬の人で、佐賀戦争に参加した人々は果して何人であったろうか。今までに判明している人々は次のとおりである。 佐賀戦争に参加した高木瀬人 長瀬 石井貞興 櫛山叙臣 高木貞光 寄人 石井周蔵 東高木 池田清兵衛 垣内房諧 高木村十四番地 横尾俊一 下高木 久富梅之允 板谷雄平 古賀廉造 上高木 江副新吉 原口寿七 平尾 西川種近 松原町 高木豹三郎(高木城主高木家の子孫) 地区不詳 市川本章
-
石井貞興
石井貞興は天保11年3月生、佐嘉藩士櫛山彌左衛門の長男、幼名竹之助、後、本家石井忠克の嗣と爲り、石井貞興と稱す。少壮、枝吉神陽、石井松堂に就て經學を修め、且つ意を武技に留め槍術馬術は彼が得意とする所なりと云。戊辰之役、奥羽征討軍に従軍と記録あれば、家老鍋島平五郎の隊に屬し、奥羽先鋒總督九條道孝の麾下に入り、奥羽二十餘藩聯盟の佐幕軍と戦ひし事ならむ。明治3年冬佐嘉藩少参事に任ぜらる。明治4年7月、廢藩置縣令の施行に伴ひ、改めて佐賀縣權典事に任ぜられ、幾何も無く佐嘉縣大屬に任ぜらる。廢藩置縣後、新に任命せられて赴任せる知事、参事、縣内の事情に晦く、実績擧ぐる能はず、然れば縣政百般の運営は皆石井氏の司る所にして、陰然佐賀縣の実權を掌握せる由。明治7年2月、風雲急を告ぐるや、征韓黨の帷幕に参じ、首謀江藤新平を輔け畫策する所尠からず。殊に彈薬の供給、兵糧の確保等軍需物資の運轉に萬全を期せし、其功偏に氏の手腕によるものなくんばあらず。戰敗れて薩摩に奔る。薩の梟勇桐野利秋、非運を憐んで之を庇護す。丁丑之變に際曾、貞興、慨然、知己の恩に報ぜんと欲し桐野利秋に随ふ。此を以て薩軍奇兵隊總監軍に擧げられ、各所に轉戰大いに官軍を撃破せるも、後半に至って戰況利有らず、遂に日向に退き長井村の重圍を突破して、深夜可愛嶽の天嶮を越ゆるに際し、貞輿過って深壑に陥り意識を失ふ。官軍の兵来りて之を捕ふ。9月5日長崎に送られ、10月26日、元麑島縣令大山綱良等と共に斬に處せらる。享年35なり。
-
石井周蔵
石井氏世々佐嘉藩士、周藏、天保12年を以て生る。少壯弘道館に學び規定の科程(小學、大學、論語、孟子、中庸、詩經、書經、易經、禮記、春秋)を卒ゆ。最も新陰流兵法に錬達せりと云。其系譜分明ならざれ共、藩の指南番吉村幸太夫(柳生直門)に就て學びしに非ざる歟。戊辰の役に従軍、事情行動皆石井貞興に於けると同じ。明治4年7月廢藩置縣の施行に伴ひ、佐嘉藩は佐賀縣と改まるや、佐賀縣五大區の副戸長となり、専ら民政に盡力しつつありしが、岩村高俊、新に佐賀縣權令に任ぜらるるや、熊本鎭臺兵300餘名を具して、佐嘉城を占據し、佐賀縣士族討伐に着手せり。周藏之を見て大いに怒り、直ちに戸長石井源三と謀り壯士300名を召集し、武装隊伍を編成し、征韓黨の亞者(首謀の次位)西義質を訪れ參戦の希望を陳ぶ。義質大いに喜び一等斥候を委囑す。周藏、勇躍その率ゆる所の300名を指揮し朝日山に馳せ、征西官軍總司令官陸軍少將野津鎭雄麾下の軍、大阪鎭臺歩砲兵1400餘名を轟木安良川に邀撃し大いに之を破る。爾来各所の戰闘に善戰健闘せるも武運に恵まれず、遂に敗れて官軍に捕はる。官軍の將、周藏の強剛なりしを知り、その罪重しと宣言し懲役5年に處す。出嶽後は望を現世に棄て、風月を友とし讀書に光陰を消す。時々出で、佐賀中學校の青少年に剣術を指導す。明治末年易簀。その長男、大正末期小城中學校教頭石井時太郎(昭和22年歿)、次男、大正中期佐賀中學校長千住武次郎(昭和30年頃歿)。
-
櫛山叙臣
佐嘉藩士櫛山彌左衛門の二子なり。弘化元年生。兄貞興出で、石井家を嗣ぎしを以て櫛山家を嗣ぐ、爲人、剛武勇悍而頗る赳々武夫の俤あり。壯年選ばれて崎鎭防衛常額之外、香焼島屯戌壯士隊に編入せられ、鎭西海防の任に當る。戊辰の役に際しては、奥羽先鋒總督九條道孝の麾下に屬し、大番頭鍋島孫六郎の隊に編入せられ、東北の野に轉戰して功あり。凱旋の後、佐嘉藩軍務掛り、國學寮監等歴任。明治4年東京に出で専ら佛式陸軍操練の研究に勵む。明治6年佐賀に歸り、征韓論に注意、形勢を観望しつつ、ありしが明治7年2月佐賀戦争に際曾、敍臣、憤然戈を執って起つ、輙ち征韓黨の領袖、小隊長として各所の戰闘に激戰敢闘せるも遂に一敗地に塗れ、南海に奔竄、高知中村にて縛に就く。懲役3年の刑に處せられしも、後減刑せられ明治9年赦されて出獄。以来、人物全く一變、剽悍の性影を潜め、温厚篤実、地方の教育に専念し、世人に師表と仰がれ、衆庶の敬慕する所なりしが、明治43年病みて歿す。亨年67歳。
-
久富梅之允
佐嘉藩士山内某の2子、弘化2年の生なり。後、久富三之允の養嗣子となり、久富梅之允と稱す。幼にして弘道館に學び、略々經史に通じ、又兵學に達す。戊辰之役、命を受け家老鍋島平五郎の隊に屬し、奥羽先鋒總督九條道孝の麾下に入り、各所に轉戰功有り。凱旋後藩軍の一隊長なりしが、梅之允容貌凄愴にして其性、剽悍、人の畏怖する所。明治4年、公用にて馬関海峡を渡るに際し、同舟の旅人と爭ひ、怒って一刀の下に之を斬殺せる科により永蟄居を命ぜらる。明治4年7月、廢藩置縣令施行以来、漫然世相の變遷を望觀。明治7年2月、佐賀戦争に曾す、席を蹴って起ち、征韓黨一等斥候を委屬せらるゝや、憂國黨の曾軸村山長榮の軍を援く、2月22日出動、官軍陸軍少佐佐久間左馬太の率ゆる能本鎭臺を和泉(江見の西)に邀撃す。この日佐賀軍の攻撃は凄絶を極めしが、就中、久富梅之允の奮戰は敵味方共に瞠若舌を惓けりと云。三養基郡誌、佐賀戰爭の記事に日く(注 官軍の兵力 約1000人 佐賀軍の兵力も約1000人 にて兵力は互角) 《佐賀軍の主力は征韓、憂國両儻の將兵、之に鶴田有本、陣内利武の率ゆる蓮池の兵、之に合し、善戰健闘大いに力む。就中、驍勇絶倫と稱せられし久富梅之允、この日、征韓黨の將として馬を戰場に驅り、太刀を揮って叱咤奮闘するの状、勇威凛烈、官軍の將兵、避易して近づく能はざりしと云。官軍大いに敗れ、筑後川を徒渉し住吉に退却す。》 とあるも亦以而梅之允の猛勇察知し得べし。後各所に奮戰せるも、大勢非にして境原の大激戰に敗るゝや、高木瀬の自邸に歸り、佛前に禮し、養父三之允と死別の盃を交はし、三之允の介錯にて從容腹を屠って死す。享年 30歳。
-
古賀廉造
安政6年の生れにはあらずやと思ふ。明治7年佐賀戰爭に際しては、16歳以下の少年武士を以て編成せられし、少年隊に入隊し、憂國黨の司令、大塚左源太の指揮下に各所に轉戰。田手川の激戰には、左源太、壮烈なる戰死を遂ぐる迄終始その叱咤の聲を耳にせりと、親しく余に話されし事あり。戰後、年少の故を以て罪を免ぜらる。以来、司法省法律學校卒業、大審院検事、法學博士の學位を得。内務省警保局長として、全國の警察を統轄指揮するに當って、その彈壓、辛辣を極めしは有名なり。貴族院議員に勅選せらる。拓殖局長官を最後に、總ての官公職を辭し、千葉縣御宿に陰棲。昭和9年の秋、飄然、萬部島招魂場を訪れ、記念碑參拝の後、鯱の門に至り、城壁、石壘を指示して、往年接戰奮闘の状を語られしが、今日回顧すれば実に貴重なる実戰談なりしなり。 昭和19年房総の漁村、草庵に、溘焉として逝く、87歳。 昭和癸丑初秋 西陲残叟記 ※古賀廉造の生年は安政5年(1858)、没年は昭和17年(1942)で享年85歳であることを追記する。