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[旧佐賀市][ 人物]は161件登録されています。
旧佐賀市 人物
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片渕慶吾
明治26年角目生。独立独歩の精神に富み、商機を掴む鋭敏な頭の所有者であった。青年頃角目で雑貨商を開いたが、建築材料の有望なことに着目し、昭和3年紡績通りに建材店を創設し、千代子夫人と共に日夜業績発展を計り、以来50年。その間多少の屈折はあったが、卓越した手腕とたゆまない努力によってあらゆる苦難に耐え今や堅実な歩みを続けている。
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片渕初次
明治30年角目生。青年時代から篤農家として知られ、諸種の改良事業に努力し、養鶏園芸殊に菊作りの工夫改良に若い情熱をうちこんだ。彼の園芸研究熱と愛郷心の深さは町民の等しく知るところとなり、昭和3年農会総代、産業組合理事、郡市籾摺組合副会長、小学校建築委員、養鶏組合副会長、県花卉園芸評議員、等の公職を歴任した。なかでも昭和24年には花市場を創設し、戦後新鍋島農業の基礎を園芸に開いた功績は多大である。尚特筆すべきことは昭和2年県下農家代表として昭和最初の新嘗祭献穀用稲栽培の指定を受けたことである。晩年は眼病のため第一線を退き専ら信仰生活に入り、念仏感謝の日日を送っていたが、昭和52年8月80年の生涯をとじた。
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鷲崎理四郎
安政2年(1855)生。明治2年佐賀藩兵に入隊、4年より西海道鎮台分隊へ入隊した。辞任後は柔術の錬磨に精励し、明治27年東新庄に柔術道場を開き門弟を教導し、28年推されて村会議員に当選し(2期)34年には鍋島村助役に推挙され、36年村長に就任し、更に42年再選され村政の改善に精励、郷土の発展につくす処大であった。
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千綿万三
江里出身。明治35年佐賀農学校卒業後、日露戦に従軍し、41年より牛津小学校訓導となり、44年4月郡農業技手をへて県技手に進み、昭和9年地方農林技師に昇任、11年退職、この間24年間地方の農事改良などに功績多大で昭和11年村長に就任した。長男美二君は日大卒業後国鉄に入り、40年退職、42年佐賀市議会議員に上位当選し、豊富な技術知識と、さわやかな話術と、議会人としての旺盛な勉強ぶりとは人も知る通りで、町民の期待も多大であったが、不幸病を得て49年7月死去した。
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久野健太
角目出身。明治39年農学校卒業後郡農業技手として就任。大正9年朝鮮にて東洋拓殖株式会社嘱託として活躍、昭和12年帰国後、村会議員、農会副会長におされ、13年助役、15年村長に就任敏腕をたたえられた。
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池田利夫
森田出身。昭和5年早大卒業後、朝鮮総督府に勤務し続いて、満州国国道局に移り昭和9年帰国し、早良鉱業所勤務、昭和16年鍋島村助役、21年村長就任、市村合併と共に支所長を務め、辞任後昭和30年県議会議員に当選した。35年農協長におされ献身的に努力したが、不幸難病におかされ38年死亡した。農民は深く彼の死をいたみ農協葬をもって送った。 昭和28年大水害の時は村長として、対策本部長として33日間1日も帰宅せず、陣頭指揮をつづけ復日に努力した。彼は嘉瀬川はすでに危険水位に達し更に降り続いていたので、6月25日夜独りで森田の堤防上にて警戒監視をしていた事は部落の人たちも知らぬ人は少ない。彼こそは誰よりも鍋島を愛した人であった。彼はまた細心堅実な反面、誰からも親しまれる明るい性格の人であった。
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神代家(親類藩)
神代家は、人皇8代孝元天皇の孫・武内宿禰を元祖とし、高良山玉垂の宮に仕え高良山に住んでいたが、源平の頃高良山の北麓神代村に移った。元寇の役のとき増水した筑後川で、筑後以南の軍勢を船を繋いだ浮橋によって渡した功により、幕府の感状を貰っている。以来、久留米東北部の地頭職であった。 戦国中期、筑後の蒲池・西牟田に攻められ、一族と筑後の地頭土豪達27人が松浦の波多氏を頼って行く途中、千布の陣内氏と仲良くなり、婿に迎えられ、神代勝利が生まれた。 勝利は山内の将に迎えられ、龍造寺と相争いその子長良の代に大友と共に佐賀城を攻めたが、鍋島の夜襲を受け大敗。鍋島直茂の甥(家良)を養子に迎えて4,300石の知行を受け、一時芦刈に移封されたが、川久保に戻り鍋島家良(直茂の甥)・直長(勝茂の10男)・直利(光茂の次男)を次々と邑主に迎え、親類藩として1万石の領主となり、明治の時代まで栄えた。 龍造寺氏との攻防は、当時のいくつもの戦記に面白く述べられているが、勝利初め代々の領主は大小の溜池・水路開さく・新町開発等の善政をしいたので、主従の関係は他藩に無い親密なものがあった。特に最後の邑主神代直宝は、95町余の山林を県に寄付第一模範林として植林させ、緑と豊かな水で町を潤して呉れた。また350町歩の山林原野を川久保に無償払い下げ、今日の蜜柑産地として町民の懐を潤おした。士族授産竹細工奨励は堅ろう「川久保物」として県内外に有名になった。 町民は、神代家の住民に対する業績を感謝しこの恩情をいつまでも忘れないで、語り伝えたいものである。
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中島哀浪
(1883〜1966) 「佐賀は文学不毛の地」との評は、佐賀の人が中央で華やかな活動をしなかっただけで、豊かな文学風土は長い間、先人達によってはぐくまれてきた。むしろ維新前後の沢山の英傑や戦時中の軍人の影に隠れて、皆が気付いていないに過ぎない。 ここでは、われわれに最も身近な1人、郷土が誇る歌人中島哀浪を取りあげる。哀浪は北原白秋・若山牧水と並ぶ九州三大歌人の1人で、久保泉で生まれ育ち、佐賀を離れず郷土を格調高く詠み続け、自ら好んだ郷土の清らかな泉の上『坐泉堂』で息を引き取った。 1万を越す詠草・詩・随筆、50有余の校歌の作詞、特に郷土の名物きゃら柿の歌200首は「柿の歌人」と言われ、豊かな人情味あふれる独特の風韻は「哀浪調」として、日本歌壇にその名を残した。 彼の佐賀中学時代、同級の高田保馬(後の経済・文学博士)佐賀画壇の統帥山口亮一、一級下の下村湖人(次郎物語の作者)などと文学グループを作り、中央歌誌に投稿を初めた。また白秋や牧水とは、早稲田大学で同じ下宿に起居した。 歌誌「ひのくに」の創刊から、もう70年を越した。 彼の代表作 柿もぐと木にのぼりたる日和なり はろばろとして脊振山みゆ の歌碑は彼の菩提寺妙福寺入り口に建っている。これは「敗戦後の郷土に、文化の灯を」と乞い願う村の青年団や文化団体いずみ会が、「ひのくに」の協賛を得て昭和23年10月に建てたものである。 宮分の蛍橋のたもとの「坐泉堂」は昭和27年古稀記念に子弟や平野建設から贈られたものがあるが、今は無い。 平成2年、令息草市潤編の『中島哀浪全歌集』は、約1万の短歌を収録し、年譜・初句索引を付す貴重な図書。
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横尾 柴洋
横尾紫洋は、春日の高城寺で学び、20才で長州(山口県)・京都・江戸に遊学。日光東照宮の豪華さに比べ、当時の皇居の荒廃を見て歎き、事を構えようとして露見。郷里に帰ったが再び京に上り、関白九条家の侍講(天皇・将軍へ講義する職)となった。幕政批判をする紫洋をおそれた鍋島家は彼を引取ろうとしたが本藩の帰国命令に従わなかったので、捕えて佐賀で斬刑にした。51才、幕府の目を恐れてのこととは言え、江藤新平同様、惜しい人材を処刑したものだ。 ♪高い山から谷底みれば、瓜やなすびの花ざかり の俗謡は彼の作。これは幕府におもね、皇室をないがしろにする輩を諷刺したもの。
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中牟田倉之助
1837.2.24~1916.3.30(天保8~大正5年) 海軍中将、子爵。佐賀城下蓮池町(旧佐賀市千代町)に生まれる。父は佐賀藩士金丸文雅、母は中牟田氏。後、母方の姓を称す。明治期の帝国海軍の創設確立に貢献。二十歳のとき藩命で長崎海軍伝習所に学ぶ。卒業後帰藩し、海軍方助役となり三重津御船手稽古所の教官として、藩の海軍創設に尽力した。さらに軍艦操練や英学を修む。戊辰戦争の際に海軍先鋒隊が編成されたとき、藩の軍艦孟春丸船将として官軍に従軍。次いで秋田藩の陽春丸船将として奥羽沿岸に転戦し、1869年(明治2)函館の役には朝陽丸艦長として奮戦。朝陽は旧幕艦蟠龍の砲弾のため爆沈し、九死に一生を得た。1870年兵部省に奉職。普(ドイツ)仏戦争の勃発に際し政府は局外中立を宣言し、函館、横浜、長崎に艦隊を配備すると長崎小艦隊指揮に任じられ、海軍中佐に昇進。1871年海軍大佐兼兵学寮兵学権頭に任じられ、次いで海軍少将兵学頭となる。1875年江華島事件が発生した時、西部指揮官を拝命、朝鮮に出動し在留邦人の保護に当たる。さらに海軍省副官兼海軍兵学校長、横須賀造船所長を経て、1878年中将に進み、東海鎮守府長官を務む。1886年横須賀鎮守府司令長官、1892年には海軍大学校長兼海軍参謀部長、翌年に初代海軍軍令部長、翌々年に枢密院顧問官。八十歳で没した。→三重津海軍所→長崎海軍伝習所→孟春丸
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田代通英(孫三郎)
田代通英(通称・孫三郎)は、幕末の佐賀藩士である。弘化二年(1845)の『総着到』によると、佐賀城下鷹師小路居住、石高は十九石八斗であり、少録の下級武士であったようである。生年は明らかではないが、『早引』によれば、安政三年から五年(1856~58)の頃に「五十六歳」であったと記載されており、逆算すると寛政十二年(1800)頃の生まれであると考えられる。安政五年(1858)に、当時流行したコレラにより死去している。 田代通英の業績として最も有名なのは、嘉永三年(1850)の、日本初の大反射炉である築地反射炉築造時の会計事務としての参画である。この反射炉は試行錯誤の末、嘉永五年(1852)に一基が完成し、この功により田代は所謂「御鋳立方の七賢人」に数えられている。その後、安政四年(1857)には、時の老中安部正弘の要請により、杉谷雍助と共に伊豆韮山反射炉築造に派遣されるなど、幕末の科学技術発展に貢献している。