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[旧佐賀市][ 人物]は161件登録されています。
旧佐賀市 人物
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島義勇
文政5年(1822)〜明治7年(1874) 佐賀藩士島市郎右衛門の子として佐賀城下精小路(現在清和高校運動場)に生まれる。通称団右衛門、字は國華、樂齊と号した。島家は代々鍋島家に仕える禄高切米25石の家柄であった。8歳で藩校弘道館に入学。弘道館で勉強しながら、一方で従兄の枝吉神陽から皇漢学を学び、卒業後諸国を遊学したとき、水戸の藤田東湖からも教えを受けている。 嘉永3年(1850)義祭同盟が楠公父子像前で結成、発会式に出席した。安政3年(1856)藩主鍋島直正の命により、蝦夷、樺太を2年間にわたり巡視、明治2年(1869)蝦夷開拓使首席判官として札幌を中心に北海道開拓にのりだした。のち侍従・秋田県権令となったが、政府の中央専制主義に反対し、官を辞めた。 征韓論分裂のころ、旧藩の憂国党に推されて反政府運動を起こし、江藤新平の征韓党とともに明治7年(1874)2月佐賀の役を起こした。しかし敗れて江藤新平とともに処刑された。53歳であった。 島義勇の功績は、その偉大な北海道開拓の精神と共に、今なお北海道の人々に語りつがれている。札幌市庁舎には、島義勇の銅像、札幌の円山公園には、北海道開拓の父として「島判官紀功碑」が建てられている。墓は、佐賀市金立町の来迎寺にある。 ※『明和八年佐賀城下屋舗御帳扣』(2012年、鍋島報效会)によれば、島義勇の出生地は「西田代横 同小路南側 従東到西 六番」で、現在の佐賀市西田代にあたる。 ※写真は佐賀城公園の島義勇之像
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杉谷雍助
文政3年(1820)〜慶応2年(1866) 佐賀に生まれる。字は元譲、通称を雍助。(雍介と書いたものもある)佐賀藩士であり、蘭学者として有名である。弘化2年(1845)長崎に出で蘭学を修め、更に江戸に遊学、帰国後蘭学寮の頭となって後に火術局佐兼造砲局佐の任につく。 反射炉の建設及び大砲の鋳造の際蘭学を生かし、原書を翻訳し、鋳造に大きな役割を果たした。著書に「鉄熕略記」があり、反射炉の操業にちなむ血のにじむような苦労が書き記されている。いわゆるお鋳立方七賢人の一人として知られている。佐賀市与賀町精泰長院に墓がある。
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是琢明琳
永禄4年(1561)〜元和6年(1620) 佐賀市精町の臨済宗泰長院の第3世の僧で、紫衣を受けている。文禄元年(1592)朝鮮の役のとき鍋島直茂に従って朝鮮に渡り、陣中にあって武運長久の祈祷をし、かつ朝鮮との交換文書の作成など、文書のことをつかさどった。加藤清正が朝鮮の二王子臨海、順和君をとらえ、直茂に預けたとき、二王子の世話を是琢がした。この功で精米30石を加賜された。 朝鮮での陣中日記(佐賀市重要文化財指定)が泰長院に伝えられている。
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田中久重(近江)
寛政11年(1799)〜明治14年(1881) 久留米のべっ甲職田中弥右衛門の長男として生まれ、初め儀右衛門、のちに近江大掾の称号を授かって近江と改めた。通称、からくり儀右衛門として知られ、幼少のころより機械を作ることを好んだ。 9歳で錠仕掛の硯箱、15歳で久留米絣の織機を発明したりして大人たちを驚かせた。36歳のとき天下の発明家を志し京都にでて天文学や蘭学を学び西洋理学を修めた。 嘉永5年(1852)佐野常民の推挙で、佐賀藩の精煉方に嗣子儀右衛門と共に入り、大砲・汽缶・汽船などの製作を次々と成し遂げついに、元治2年(1865)本格的な日本最初の蒸気船「凌風丸」を建造し佐賀藩に多大な貢献をした。 又、元治元年(1864)には、久留米藩11代藩主有馬頼咸に召しかかえられ、その後は、息子の儀右衛門に任せて、月の上半分は佐賀、下半分が久留米という生活になった。 明治6年(1873)75歳で上京、ブレーゲ電信機製造に成功、没後1年して2代久重により芝金杉新浜町に田中工場(のちの東京芝浦電気㈱)を設立、わが国初めての電気工業の工場を経営した。
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田中儀右衛門
元治元年(1864)没 久留米通町に生まれる。初め岩吉と称し、少年の頃より田中久重(近江)の門に入り、養われて久重の娘婿に、そして嗣子となり名を儀右衛門と改め、のちに重儀と称した。(なお、いわゆる、からくり儀右衛門は、義父の久重のことをいう) 儀右衛門は、技工に長じ、父久重の発明工夫を機械化するにあたっては、儀右衛門の功が多かった。 嘉永5年(1852)久重が佐賀藩に招かれて、産業開発のための「精煉方」で働くことになったとき、彼も随って大砲、汽缶、汽船、電気等の製作に携わり、元治元年(1864)父久重が久留米藩に召しかかえられると、佐賀の方は儀右衛門が専任となり藩主に重用された。 不幸にも、一藩士の突然の発狂により儀右衛門の長男岩太郎と共に、雷雨の夜、斬殺された。藩主直正は深くその最期を悼み、久重の同僚の中村奇輔の二男林太郎を養子として跡をつがせ士籍に列した。なお、儀右衛門の墓は天祐寺にある。
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谷口清左衛門長光
天正12年(1584)〜寛文6年(1666) 佐賀藩御用鋳物師。父の筑紫紆介治門は龍造寺の怨敵、川上左京を討って自害し、その功で、龍造寺政家から龍の一字を与えられた。龍清左衛門尉長光は豊後国(大分県)谷口邑の鍛治の家で養育され、武器などを鋳造する技術を身につけた。寛永6年(1629)筑後瀬高(福岡県瀬高町)に滞在中、黒髪神社(武雄市山内町宮野鎮座)の本地仏を作った。これは同社に現存している。同年、鍋島直茂から御用鋳物師として召し抱えられ、居を佐賀六反田(佐賀市大財1丁目)にかまえ谷口と改名した。 寛永14年(1637)英彦山の鳥居、寛永19年(1642)ころ白山八幡社の鐘、佐賀城本丸の鯱、藩主の進物用の茶釜などを鋳造し、以後代々清左衛門を襲名、佐賀藩の鋳物師として仕えた。 孫の安左衛門尉兼清の代に長瀬町(佐賀市長瀬町)に転居、以後、藩の長崎警備用の石火矢(大砲)や、北九州一円の寺院の撞鐘などを鋳造している。 谷口家の歴代の墓は佐賀市長瀬町泰教寺にある。
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谷口清八
弘化2年(1845)〜明治44年(1911) 10代谷口清左衛門の長男として佐賀城下長瀬町に生まれる。幼名敬次郎、明治4年(1872)2代清左衛門を清八と改める。 明治16年(1883) 谷口鉄工場を設立。長瀬町に敷地6000余坪の本工場、神野に5000余坪の分工場を置き、諸機械の製造を始めた。 明治25年、鋳鉄管製造に成功し、鉄管王と称せられた。鉱山用の機械、原動機類、また煙突、鉄骨構造や機重機、福岡東公園の日蓮上人銅像、佐賀市松原公園にあった鍋島閑叟銅像など大型銅像の鋳造、日露戦争時の砲弾製造まで行なった。幕末、大砲鋳造に当ったいわゆる、お鋳立方七賢人の一人である谷口弥右衛門は谷口一門の一人といわれる。谷口家は以後12、13代と続いたが、昭和4年(1929)鉄工業界の不況で工場を閉鎖した。
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鍋島直正(閑叟)
文化11年(1814)〜明治4年(1871) 第9代藩主鍋島斉直の子として、江戸藩邸に生まれる。幼名貞丸、のち斉正・直正という。号は閑叟。天保元年(1830)家督相続し、第10代佐賀藩主となる。 藩主となった直正は、はじめて佐賀へお国入りするとき、身をもって藩にお金がないことを知らされたので、藩の財政を豊かにするため産業をおこし、学問や教育によって能力のある人を役人にするなど、ただちに藩の改革に取り組んだ。 西洋の文物を採り入れ、天保6年(1834)佐賀市八幡小路に「医学館」をつくり、島本良順を校長とした。直正は兵器をつくるための科学や技術にも力を入れ、弘化元年(1844)に「火術方」、嘉永5年(1852)には「精煉方」という理化学研究所や工場をつくった。嘉永4年(1851)には、火術発展のため、医学寮に「蘭学寮」がつくられ、大庭雪斎、渋谷良次などを先生にむかえた。また長崎に砲台を築き、佐賀に反射炉を設け、(嘉永6年(1853)には幕府から大砲200門鋳造の注文をうけた)長崎警備に力をつくし、西洋の科学をとりいれ、鋳砲建艦に努力して海軍の基礎をつくるなど、実際に教育や技術を役立て、幕末の名君として知られた。 政治的には公武合体派で、幕末の政局では自重し、明治政府内では軍防事務局次官・蝦夷開拓使長官をつとめた。維新佐賀の七賢人の一人。
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成富兵庫茂安
永禄3年(1560)〜寛永2年(1634)※ 龍造寺隆信の家臣、成富甲斐守信種の第2子として佐賀市鍋島町増田で生まれる。龍造寺隆信、鍋島直茂、勝茂に仕え、朝鮮の役や各地の合戦に参加した武将であるが、水利治水事業に見せた事績が現在もたたえられている。 事績の主なものは河川改修、ため池築造、河川より分水するための井樋工事がある。中でも川上川の上流から巨勢川まで市の江水路を引き、荒野を開田したこと、嘉瀬川から城内の多布施川に分水するための石井樋を築造したこと、三養基郡北茂安町千栗から三根町坂口まで12㎞に及ぶ筑後川右岸堤を完成し、領内を洪水から守ったことなど治水の功が大きい。また鍋島藩体制が確立すると、干拓が早くから行われた。寛永年間(1624〜1643)に三法潟1200石の開拓を手がけた。武雄市橘町から北方に及ぶ一帯で、同地の米は良質米との評判が高かった。墓は、佐賀市西田代町の本行寺と佐賀郡大和町尼寺にある。今も兵庫町、北茂安町などに地名として名が残っている。 ※正しくは寛永11年(1634)
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肥前忠吉(初代)
元亀2年(1571)〜寛永9年(1632) 龍造寺隆信の家臣橋本道弘の子として、長瀬(佐賀市高木瀬町長瀬)に生まれた。俗名橋本新左衛門、父病没後一族の長瀬鍛治に引きとられ、刀鍛冶になった。初代藩主鍋島勝茂に取り立てられ、25歳の時藩命により、京に上り新刀の祖、埋忠明寿の弟子として入門、約3年修業を積み帰国した。 慶長3年(1598)藩命により城下に一族移転(現佐賀市長瀬町)、その地を出生地に因んで長瀬町と呼ぶようになった。 寛永元年(1624)再度上京、朝廷より武蔵大掾の位を受領して名を忠廣と改めた。今でも忠吉一門の旧宅は、武蔵屋敷、正広屋敷、近江屋敷などと呼ばれ往時の盛業の跡をしのばせている。 初代から9代いずれ劣らぬ名刀工といわれた中で、3代陸奥守忠吉は初代につぐ名工として知られている。又8代忠吉は肥前刀中興の刀匠といわれ、幕末を飾った名工で、佐賀藩の大砲鋳造にお鋳立方七賢人の一人として貢献した。 肥前刀は、武士の間では、差料することを無上の誇りとしていた。 又、鍋島藩主の特別の保護と宣伝工作により、国内のみならず朝鮮、中国などにも名を広めた。尚、初代忠吉の墓は、伊勢町の真覚寺に、2代より9代の墓は、八戸町の長安寺にある。
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深川嘉一郎
文政12年(1825)〜明治34年(1901) 佐賀郡久保田町に生まれる。深川家は、代々酒造を業とする佐賀藩の御用商人で豪商として知られ、長州征伐の際、軍資金を献納したり、藩命により外国米を購入し藩の御蔵方の用もつとめた。 明治4年(1871) 旧藩主所有の汽船神幸丸を借り受けて有明湾雁之沖から長崎を経て大坂への航路を開いたり、海運業を創始、大成し財をなした。その資金をもとに、多種多様の事業に乗り出し、大川運輸株式会社、深川造船所、金融業の地所株式会社などの基盤をつくった。 中でも、明治26年(1893)4月に道祖元町に設立された地所株式会社は、資本金28万円で、海運業で大成した巨額を資本金をもとに、佐賀付近に300余町歩の田地を購入、その地所の保全と小作米の取立などの業務とした。また同社の一部資金を以て、同社に銀行部を設け、明治32年(1899)9月金融機関を併設した商事会社になる。 しかし、大正9年(1920)を境に日本経済は大恐慌に陥り深川財閥が関係する一連の企業は次々と姿を消していった。 道祖神社近隣は、明治中期の隆盛時に深川一族の会社、居宅があった関係で今でも昔の面影がいくらかしのばれるたたずまいである。
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本島藤太夫
文化10年(1813)〜明治21年(1888) 佐賀藩主鍋島直正の信任厚く、嘉永3年(1850)直正の命により藤太夫は伊豆の韮山に派遣され、江川英龍に反射炉や大砲に関する知識をたずね、さらに佐久間象山に教示を受けて帰国した。 同年6月築地に大銃鋳立方が設けられて反射炉の築造に着手、主任となって大砲製造のために努力した。また、長崎の伊王島や神の島及び四郎島に砲台を設ける主任でもあった。世にいう御鋳立方七賢人の一人として知られている。 維新後は鍋島家の経営、百六銀行の指導者として活躍した。
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山口亮一
山口亮一 略年譜 明治13年(1880)8月10日佐賀市赤松町において旧鍋島藩士中野到明の二男として出生、長兄礼四郎、長姉磯千代、に次ぐ第3子の辰年生まれとあって、辰三と命名。 明治19年6歳、医師山口亮橘の養子となり亮一と改名する。 明治36年23歳、佐賀市勧興小学校より佐賀中学を経て、東京早稲田中学校卒業、黒田清輝主宰の東京溜池白馬会洋画研究所に入所。 明治39年26歳、東京美術学校西洋画科入学。 明治43年30歳、第4回文展初入選(わら家)同年山口スガ(16歳)と結婚。 明治44年31歳、東京美術大学校首席卒業、帰郷して一生佐賀に住み製作と後進の指導にあたる。 大正2年33歳、第7回文展入選(薔薇と虞美人草)久米桂一郎、岡田三郎助、北島浅一、御厨純一などと佐賀美術協会を創設する。 大正3年34歳、第8回文展入選(花三種)。佐賀美術協会展覧会第一回展を県会議事堂にて開催。 大正4年35歳、第9回文展入選(白い芍薬) 大正7年38歳、第12回文展入選(鉄砲 合) 大正9年40歳、第2回帝展入選(燈下の静物)宮内省買上げを賜る。 大正10年41歳、佐賀県師範学校に奉職、昭和18年退職まで23年間美術教諭を務める。 大正11年42歳、第4回帝展入選(鳥と子供)佐賀美術協会展覧会第一回を県会議事堂にて開催。 大正15年46歳、第7回帝展入選(縁の庭)モデルはスガ夫人 昭和11年56歳、帝展の無鑑査になる(菊花)。 昭和13年58歳、日展無鑑査出品(白い薔薇) 昭和14年59歳、日展無鑑査出品(爛漫) 昭和16年61歳、日展無鑑査出品(山路) 昭和21年66歳、佐賀美術工芸研究所を開設し、陶磁器美術指導。 昭和24年69歳、佐賀県文化功労者として県教育委員会より表彰を受ける。 昭和32年77歳、佐賀新聞文化賞を受ける。喜寿展を佐賀商工会館にて開く。 昭和33年78歳、喜寿画業展を県文化館ホールにて開催。 昭和34年79歳、東京日比谷画廊にて個展を開く、社会教育功労者として表彰される。 昭和37年82歳、佐賀県知事より文化功労者として表彰される。 昭和41年86歳、勲四等に叙せられ、瑞宝章を受ける。 昭和42年87歳、10月30日永眠。11月4日佐賀市与賀町の浄土寺において佐賀美術協会葬。
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成富兵庫茂安
佐賀市には兵庫町という町があり、三養基郡には北茂安町がある。また三根町の半分は、もと南茂安村と呼ばれていた。これらはすべて戦国の武将龍造寺隆信の家臣で、その死後鍋島直茂、勝茂に仕えた成富兵庫茂安の名にちなんだものである。また、北茂安町には、北茂安音頭が生まれた。佐賀大学名誉教授内山良男氏作詞、唐津松浦文化連盟委員松下又彦氏作曲のもので、その新民謡には茂安の徳をしのんだ一節がある。 ハア 成富公のナイナイ ご遺徳偲びチョイト 土手のあたりで鳥が舞う サテピーチクパーチク賑やかに このように死後300年たつ今もなお、兵庫は治水の神として、あちこちで年に1度は「兵庫さん祭」といって、近くの農民が集まり、彼の遺徳を偲んでいる。成富兵庫茂安こそは、鍋島が生んだ第一級の偉人である。 成富兵庫茂安は、成富甲斐守信種の二男として、永禄3年(1560)鍋島町増田で生まれた。増田地区東北隅嘉瀬川堤防には、昭和42年2月同町公民館有志の発起で、「成富兵庫茂安公誕生の地」の碑がたてられている。 その記念碑の題字は池田知事の筆で、裏には宮田佐賀市長の撰文になる功績を称える碑文が刻まれている。除幕式には、増田子どもクラブのよい子たちが歌う「成富兵庫の歌」が早春の嘉瀬川堤防にはずんだ。 茂安は資性豪勇、智慮深く、17才の初陣に、偉功をたてたのを初めとし、寛永11年(1634)9月病没するまで75年間、前半は今山戦は勿論、朝鮮の役はじめ、大小幾多の戦闘に参加し、武勲を顕はした武将として知られている。 また築城、治水、土木工事の達人で、荒蕪地を開墾し、干拓工事を起したり、新田を作ったり、或は植林をなすなど幾多の事業を行って藩の財政を豊かにした。 即ち中年頃は江戸、京都、駿府などで築城技術の名手として招かれ、次の様に佐賀以外の各地で名をあげた。 慶長6年二条城普請 慶長8年江戸市街修理、運漕水路開発 慶長11年江戸城修築 慶長13年駿府城築造 慶長14年名古屋築城 このように茂安は、豊臣直系の加藤清正と共に、各方面の工事に参画し、手腕をふるい、しばしば当意即妙の技を演じ、数々の逸話を遺している。それは「成富家譜」にくわしい。 こうして兵庫は「鍋島家に成富兵庫あり」と名がとどろいた。一方武士としての心ばえもいさざよく、加藤清正から1万石で招かれたとき、鍋島武士のならい「たとえ肥後一国を賜わるとも応じがたく侯」と謝絶したことは有名である。
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高木秀臣
天保4年(1833)江里に生る。明治3年伊万里県大属となり、6年文部省出仕、7年司法省に入り、累進して20年東京控訴院検事長に補せられたが、大正5年83才の高令にて逝去。若い頃脱藩上洛の罪によって、小城大野山金福寺に蟄居中の江藤新平の世話をして、佐賀城外丸目に移転の便宜をはかったこともある。時に元治元年江藤32才。高木33才であった。長男甚平はベルリン大学卒業後東京高商教授、次いで日本銀行に転じ、次男祐吉は東京大学工科卒業後実業界に入り、孫高木八尺は法博東大教授であった。
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小林芳郎
安政4年(1857)佐賀藩士南里与助四男として出生、即日岸川小林文蔵の養子となる。司法官を志し明治16年判事補に任じ、累進して大正2年大阪控訴院検事長に補せられた。その間取扱った事件としては、大正2年米騒動、京都府疑獄事件(豚箱事件)朝日新聞主筆鳥居素川筆禍事件などがある。大正11年80才の高令にて逝去す。
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本村善太郎
木角出身。京都大学法科卒業後東京大学大学院にて刑法専攻中、時の大蔵大臣武富時敏に認められ、秘書官として20余年間その側近に終始し、大正6年弁護士に登録し次第に敏腕を認められ、国鉄事件、二・二六事件(久原房之助、眞崎大将関係分)、九州電力背任事件、神兵隊事件など天下の大事件を担当した。これは彼の信望と実力を如実に物語るものと言えよう。こうして昭和27年認証官たる最高裁判所判事に就任したことは郷土の誇りであり、退官後も法曹界の重鎮として活躍した。彼の郷土愛と母校愛とは人も知る通りで、常に郷土の振興発展を念願とし、後輩の指導啓発に努力しつつあり、町民の信望と敬慕を集めた。28年大水害には、直ちに被害状況と死傷者の有無問合せの電報と、多額の見舞金を送った。また母校鍋島小学校には勧学旗(2回)を寄贈し、昭和30年には新時代の子どもたちの心の糧として校歌を贈った。鍋小のよい子たちはいつも恩情あふれる校歌を口ずさみながら、大水害にも大火災にも屈せず頑張りつづけている。
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堤長定
植木出身。嘉永6年(1853)生れで明治7年佐賀戦争には血気21才で少年隊に属し、3月23日寒水川、田手川の戦にて勇戦した記録がある。彼は資性剛直、清廉潔白で教育事業に特に熱心であった。当時鍋島町内には小学校が数カ所に別れ非常に不便であったので、一町一校の学校建設のため、東奔西走して町民の同意を得て、遂に明治16年養正小学校が創設された。彼は教員として或は学務委員として本町教育に貢献すること30有余年不滅の功績を留め大正13年72才にして長逝した。七賢人の島義勇の甥にあたる。
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吉田熊一郎
東新庄出身。教育界に長く職を奉じ、精励格勤県知事表彰を受け、佐賀郡三反田小学校長を最後に現職を退き上京、金融界に活躍すること10余年にて帰郷し、以来学務委員、学校後援会長に選ばれ村教育発展に尽瘁した。彼の住宅は由緒ある佐賀藩鷹屋敷であり、その壮大な庭園には今尚その名残が偲ばれる。
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千住九三郎
増田出身。明治2年生。22年鍋島小学校教員に任命され、以来その職にあること30余年にて多大の功労を残し大正8年12月退職に際しては、全村その謝恩会を開き、金盃1組を贈呈した。
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古川栄
本村出身。明治28年佐賀師範を卒業し、直ちに青藍高等小学校教員に就任し、翌年異数の抜擢にて新田小学校長に任命され、その後教職にあること15年、鍋島小学校長に任命されてから最後の御奉公として鋭意奮闘内容改善、校風振興に努力し、その功績顕著なりとして知事表彰を受けた。退職後村会議員2期務めた。明治43年古川校長以下小学校全教員協力編纂した「郷土案内歌」は昔の鍋島風景を如実に語っている。
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石丸久光
元陸軍工兵中佐。蛎久出身。明治45年陸士卒。大正3年青島戦に戦功抜群にて、近衛隊附となり昭和7年予備役となり帰郷し、青年学校指導員となり郷土青年の指導訓練に精進し、昭和12年村助役に推され、村政に参画し村民の信望をあつめた。終戦後村教育委員長として教育振興に全力を傾注した。昭和28年6月大水害当時蛎久区長として消防団青年団員を指揮して徹宵堤防補強作業を続けたが、26日午前8時40分決潰し、最後まで堤防上にて警戒中の彼は濁流に呑まれ殉職した。至誠剛直で愛郷心が強く、鍋島の発展と教育の振興に、青年の様な夢と熱をもって活躍した人であった。
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千綿ちか
明治17年3日月生。明治35年佐賀師範卒業後若木、桜ケ丘各学校の教職にあること16年。其後推されて方面委員、母性補導委員、愛国婦人会鍋島分会長などの公職につき、村教育厚生方面に多大の貢献をなし、終戦後昭和26年村会議員に当選、昭和30年には多年の宿願であった幼稚園を設立し、人間形成上最重要な幼児教育に体当りで取りくみ、若者の様な夢と情熱をもって絶えず前進しようとの熱意に燃えていた。然し天は女史に齢をかさず昭和39年4月病のため81才にて没した。幼稚園は五男安正氏が遺志をつぎめざましい発展をとげている。女史の女性らしい物腰、かんで含める様な口調、理路整然とした講話は今もなお婦人会での語り草となっている。
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中島ヤス
明治30年20才の若さで養正校へ奉職のかたわら、近隣の子女裁縫其他女子日常の心得について教えを乞う者集り、いつしか私塾が形づくられた。明治37年佐賀市に移転、その慈愛深い懇切な指導に教え子の数も次第にふえ、大正12年佐賀裁縫女学校、昭和4年佐賀高等裁縫女学校、昭和18年佐賀高等実業女学校、昭和21年佐賀旭高等女学校、41年佐賀女子高等学校と改称、女子短期大学設立、53年佐賀女子短大附属佐賀女子高等学校と改称され、学長坂田力三、高校長岡崎喜久にて学生数2069名のマンモス学園に成長した。これ実に女史の順和礼譲、敬愛奉仕の精神に徹し、勤労を尊び、忍耐と感謝に終始する遺徳の賜と言うべきである。
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田中直一
蛎久出身。明治7年生。父祖の遺業たる酒造業をつぎ実業界に活躍し、永年酒造組合長の栄職にあり、大正14年には県会議員に当選し、昭和11年に実業功労者として知事から表彰された。
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富崎高一
木角出身。明治7年生。人格高潔で進取の気象にとみ、明治39年佐賀県属に任ぜられ、学務課をふり出しに土木主任を経て、理事官に進み、退官後は、おされて村長に就任、次で郡農会長に推され後県会議員当選2回、その間昭和5年鍋島駅新設、村内県道の整備などに尽瘁し、新鍋島建設の礎石を築いた先覚者として村民感謝の的であった。満洲視察旅行中事故のため、歩行不自由となり第一線を退き、木角に悠悠自適した。隠棲後も彼の郷土を愛し、青年を愛する熱情は変らず、農民特に青年の来訪を歓迎し、共に時局を語り、農を談じ時のたつのを忘れる事もあった。昭和33年3月死去。85才。
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井手雄次
明治12年生。本村出身。長じて軍に入り日露戦争に従軍、戦功顕著であった。除隊後大正8年村会議員当選2期、その間村産業組合理事、村農会総代3期、また多年警防団長として活躍し、終戦後は教育委員に当選し、村教育振興に献身した。
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犬塚正雄
蛎久出身。長崎医専卒業後父の遺業をつぎ、日夜村民の保健医療に奔走し、傍ら社会事業に献身し、青少年の指導、知識の啓発、風紀の醇化に努力し、また小学校校医として、児童の体力向上に努めその功により昭和29年知事表彰を受けた。その間消防団長として活躍したが昭和32年2月死去。 彼は田舎医としては稀な名医であり、仁医であり、しかも研究心旺盛で、最後の病床にありながら専門書を枕頭から離さなかった。誰よりも鍋島と農民と子どもを愛した人格者であり、その高潔な人となりは今に至るまで語り草となっている。彼こそは農民と一体となりきったほんとの農村医であった。
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池田種三
森田出身。明治39年佐賀中学卒業。小学校教員となり、大正9年には校長となり、金立・春日・本庄・東与賀小学校を歴任し、辞任後は村会議員、産業組合長として村政と産業の発達改善につとめ、終戦後教育委員公選にあたり見事当選し、また昭和24年から36年まで公民館長として、新時代の人づくりのため努力を傾注し功績顕著なものとして昭和36年全国表彰を受けた。誠に温厚なる教育者型の人格者であり、また話術の功みなことで知られた。
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久野源四郎
明治15年生。佐賀農学校卒業後、明治39年杵島郡農業技手となり、大正7年長崎県農会技師に進み、朝鮮東山農場、飯田農場、長崎県愛野農場、北支山開関農場など各地に勤務、昭和19年佐賀県に入り技師として農業指導に従事した。また昭和25年から引続き佐賀県産業振興会理事として多年産業教育発展に尽瘁した。ために鍋島村長から村政功労者表彰、県知事から民生委員功労感謝状、文部大臣から産業教育振興功労者表彰をうけた。 また曲った事のきらいで世話すきな勤勉な実務家であった。 また彼が佐賀農芸高校創立のため、日夜寝食を忘れ奔走したことは人も知る通りである。