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[富士町][ 人物]は52件登録されています。
富士町 人物
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原初枝
歌人 原初枝(本名松江)は、明治27年7月22日旧南山村古湯に生まれ、女学生時代より短歌の道にいそしみ、その天才的な歌は当時、日本少女の友社の認むるところとなり、月々紙面を飾ったという。明治43年京城の女学生4年のとき天才にはつきものの胸(肺)を病むところとなり、学業半ばにして臥床する身となり、唐津で転地療養していたが、ここで明治44年12月13日、看病中の母親原勇子女史が逝去し、病床の初枝の悲しみはその極に達し、病床より這い出して冷たくなった母親にとりすがり、嘆き悲しんだという。 その時の詠草に、 「雪降れり炬燵に入りて今いちどおとぎ話をのう母上よ」と詠んでいる。 その後、初枝の病も篤くなり、明治45年3月19日遂にこの世を去ったのである。享年19歳。 この悲報を知った、東京の少女の友社より駆けつけてこの天才少女歌人を惜しんだという。翌月の誌上には追悼の記事が載せられ、続いて原初枝歌集が単行本として本社から発刊されている。その後七回忌に少女の友社より墓標の写真を撮り、原初枝七回忌号として誌上を飾っている。 この短歌に感動した貝野の山中濶氏は、富士小学校の児童の情操教育の一助にと考え、校庭に歌碑を建設。建設工事全額を負担した。昭和61年8月23日、盛大に原初枝歌碑除幕式が挙行された。
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斎藤茂吉
歌人 日本歌壇の重鎮でアララギ派の総帥一歌人斎藤茂吉(当時長崎医学専門学校教授)が、古湯温泉に滞在していたのは、大正9年(1920)9月11日から10月3日までの約3週間であった。茂吉の日記に 「8月30日に友と二人で、佐賀県唐津市の海岸に転地療養していた。9月11日の朝、唐津を去り、1人になって、南山村古湯温泉に来た。ここへ来てから痰がだんだん減って、血の色がつかなくなった。2、3日してからはじめて「あらたま」の草稿の入っている風呂敷を広げて心しづかに少しづつ歌を整理して行った。9月30日には編輯を終えた。山中のこの浴場も僅かの間にひっそりとして行き、流れる如き月光が峽間を照らしたら、細く冷たい雨が終日降ったりした。むらがり立っていた曼珠沙華も凋んで、赭く金づいた栗が僕のいる部屋の前にも落ちたりした。山の祠の公孫樹の下には、いつしか黄色に熟した銀杏が落ちはじめて、毎朝それを拾うのを楽みにしていると、ある朝「ギナンヒロフコトナラヌ持主稲口熊蔵」という木の札が公孫樹にぶらさがっていたりした。10月3日に、すべてに感謝したき心持ちで古湯を立った」と記してある。 うつせみの病やしなふ寂しさは 川上川のみなもとどころ 茂吉 この短歌は、昭和37年10月3日、川上川河畔に建立した歌碑である。当時、茂吉は、長崎医専(現長崎大学医学部)の精神病学の教授で、当時流行していたスペイン風邪が悪化して静養中の折、長崎市から唐津市へそして古湯に転地療養していた頃のことである。 茂吉は大正9年9月11日から10月3日まで約3週間古湯に滞在し、古湯での作歌38首を残している。歌碑に刻んだ作品はその中の一首である。 原文は原稿用紙に筆で書いてあり、それを写真に撮り引き伸ばして自然石に彫刻したもので、10月3日の除幕式には東京から輝子夫人も古賀残星も出席してくださった。 茂吉は山形県に生まれ、東京大学医学部を卒業、歌誌「アララギ」を主宰し、多くの歌集を出版している同派の最高峰であった。
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郭沫若
中国の詩人 〔1892〜1978〕 中国の科学院長、元副総理の郭沫若が、熊の川温泉に滞在していたのは、大正13年9月30日からで、前年、九州帝国大学医学部を卒業して、福岡市の箱崎に偶居していたが、当時は日本人が中国人を蔑視していたためがまんが出来ず、妻子5人で人里離れたこの熊の川温泉へ逃避して来たのである。 郭沫若が青木書店から発刊した郭沫若作品集の下巻に、私小説ともいわれている「行路難」の下篇に熊の川一帯をこう描写している。 「夕日が川上川の川面に照っていた。澄んだ清々しい流れがきらきらと輝く白い石の間から歓呼の声をあげて、湧き立っていた。青翠の寒林、まっかなまんじゅしゃげ、黄金色の柿のある両岸の高い山も、一進一退して人に向かってうなずき微笑しているように思われるのだった。」以下省略する。 郭沫若一家5人が投宿していたのは「新屋旅館」で部屋代は1日6円であったが、長期滞在は旅館代が嵩むので、隣家の斎藤太吉氏方の二階を間借りすることにして転居した。 主人は斎藤芳男氏と夫人のヒサ様で、2人共養子と養女であった、と述べてある。 ここでマルクスの研究に没頭して、同年末に中国に帰国している。 昭和41年4月、全世界を驚かした文化大革命で燕山夜話など一連の夜話3題を書き、真っ先に自己批判をやってのけた郭沫若であった。在日中の夫人は、日本人佐藤とみ(中国名安那)である。
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青木繁
画家 「天才画家」と謳われながら、中央画壇に認められず、懊悩と憤懣そして病魔への苦悩を紛らすために自から求めた酒のため益々病勢を悪化させながら、最後の力を振り絞って描いた大作「朝日」の絵を抱いて、青木繁が唐津駅前の木村屋旅館を発ったのは、明治43年10月初旬のことであった。 唐津市から小城町まで40㎞の道程を歩いて寄宿していた平島家に辿りついた青木は大分衰弱していた。 平島家では、画友江里口が、肺結核には温泉療養がよくはないかと、古湯温泉へ連れてきた。小城町の清水から、白坂峠を越えて、天水、柚木の集落を経て古湯へ来ているようである。 「青木繁その愛と彷徨、著者の北川晃二(当時、夕刊「フクニチ」編集長)は、次のように記している。 「古湯は川上川の上流だが、小城町からはさして遠くない。山あいの鄙びた温泉で、湯治客もそう多くはなかった。扇屋という宿を紹介し、友人江里口は、何も彼も忘れてじっくり静養するようにいい聞かせた。 温泉のせいか、まもなく青木は元気を回復した。 平島はまた、旅館代その他青木の借金返済のため努力した。 平島は自分が勤めている小城中学(現小城高校)の校長国井清音に頼んで、青木の絵「朝日」を買ってくれるように頼んだ。平島が人格者であったことから、その友情に報いてやろうと56円30銭で買ってやる。(現在、小城高校に保管してある縦91㎝横117㎝の大作がそれである。時価数千万円といわれている)。 ○古湯での作品 古湯で画いたものに「温泉」と「浴女」がある。「温泉」は、広い湯槽の中に立っている若い女の裸身がきれいで、青木のデッサンの確かさ、情感の豊かさを示すものである。 青木はこの作画を引っ提げて上京この年の文展にすべてを賭けるつもりだっただろう。 東京に寄せる思いは、最後まで強かったのだ。「浴女」は、浴槽で腰に布をひろげて腰かけている女の入浴姿である。 眞裸を水鏡する温泉や膚で温くき百合の咲く谷 解き髪に乳房を押さへ湯滝俗む大理のとばり 肌滑かき ねくたれやもろ手を挙げて掻いけづる肩にうねりの蛇に似る髪 誰のことを思ってつくったのか、古湯温泉に残した短歌である。
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木下義行
安政5年~昭和8年(1858~1933年)地方政治家 安政5年神埼郡三瀬村にて出生、明治7年旧小関村上関屋字下の原(現在北山湖に水没している)に移住。明治23年小関村長に就任、在職5期20年、村会議員当選2回、郡会議員3期12年。その間に、国有林原野1056町歩の払い下げに成功し村有基本財産の造成に努めた。更に義務教育諸学校の設備充実はもとより実業補習学校の設立等に力を注ぎ、名村長の誉れ高かった。 昭和8年、享年75歳で世を去った。村民はひとしくその功績を讃え、昭和11年「木下義行表彰記念碑」を建立した。現在、下小副川公民館前に記念碑がある。
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嘉村美津羅
明治4年〜昭和4年(1871〜1929)地方政治家 明治4年旧北山村大野に生まれ、明治26年中原嘉村家に養子。北山村長23年5か月、郡会議員4期、県議会議員2期、在職中に村営発電所の建設、官行造林300余町歩の植林、村道の開発、改修、県道の改修に努め、村立学校の理科器械の購入等教育熱旺盛で名村長の名を残した人物である。昭和4年没、享年58歳。昭和5年10月「嘉村美津羅君彰徳碑」が、鉄道大臣床次竹次郎の揮亳により建立された。碑の撰文は、校医陣内味不味先生の手によるもの。尚、日露戦争に従軍、功により勲七等青色桐葉章を授与されている。
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江口彦三
明治9年〜昭和41年(1876〜1966)軍人・地方政治家 江口彦三は、明治9年2月27日旧北山村大串にて出生、早くから軍籍に身を置き、陸軍主計中尉で退官、軍功により勲五等旭日章受章の栄誉に輝く。 帰郷後は、北山村議会議員、産業組合長、農会長等の要職を歴任、昭和26年から北山村長1期(4年)を経て、悠々自適の生活を愉しむ。昭和41年8月12日逝去、享年90歳。
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柴戸勝市
明治25年〜昭和22年(1892〜1947年)地方政治家 明治25年、旧小関村下小副川に生まれ、大正6年25歳の若さで村収入役に就任、以後、助役、村長(3期12年間)等の要職に在ること27年の長きに亘り、旧小関村の発展・興隆に尽力した。 退職後更に村議会議員1期(4年)を勤めた。昭和12年、地方自治功労者として内務大臣より表彰を受く。昭和22年3月病没す。享年56歳。 旧小関村民は、氏の功績を称え、旧小関村役場横(上小副川)に「柴戸勝市君彰徳碑」を建立している。
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中島義夫
明治26年~昭和22年(1893年~1947年)公務員 明治26年12月7日旧北山村麻那古にて出生、鹿児島高等農林学校卒業、宮崎県高鍋営林区に勤務し後、熊本営林署、人吉営林署次長を経て、37歳の若さで屋久島営林署長に昇任、昭和8年大分県臼杵営林署長に就任したが、直後原因不明の大病を患い、1年有餘休職、福岡営林署に復職したが健康不調のため20年3月希望退職し郷里北山村麻那古にて静養中も北山自動車株式会社の役員や北山村議会議員等の要職を歴任し郷土の発展に貢献する。昭和22年7月14日永眠す。享年55歳。
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山中義輔
明治29年〜昭和46年(1896〜1971)軍人・地方政治家 明治29年旧南山村市川に生まる。陸軍に入隊し、大正14年陸軍士官学校卒業。日本陸軍航空界パイロットの草分け的存在であったといわれる。昭和15年勲四等旭日章を授与され、16年3月、タイ国皇帝陛下から親善飛行により『オフヰシェーレレファン、ダヒラ勲章』を拝受し、20年従五位に叙せられている。終戦時は陸軍(航空)中佐である。27年南山村教育委員に30年から村議会議長に、32年から農業委員を兼任。36年から富士町村議会議長に就任、42年から郡議長会長、43年から佐賀県町村議会議長会副会長の要職を歴任している。46年8月15日病没。享年75歳。46年8月19日富士中体育館で町葬が執行された。
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吉浦大蔵
明治31年〜昭和53年(1898〜1978年)裁判官・弁護士 明治31年旧北山村上津呂にて出生。佐賀師範学校、東京高等師範学校英文科、九州帝国大学法文学部法律学科卒業。昭和2年高等文官試験司法科に合格、東京地方裁判所判事に就任。在任中に審理された主な事件に、昭和13年の「東京帝大経済学者グループ事件」が有名である。 マルクス経済学者の大内兵衛・有沢広己の両教授をはじめ美濃部亮吉助教授(後東京都知事)ら労農派教授2人のほか24人が検挙されたいわゆる第2次人民戦線事件である。この事件の審理に携った。後年、文芸春秋誌上でこの判決は「名判決」であったと論評されている。後、東京控訴院(現高裁)予審部長判事に就任。昭和20年大東亜戦争終結と同時に辞職、郷里北山に帰っている。そして、北山村長1期4年で辞任し、佐賀市にて弁護士を開業活躍している。また日本弁護士連合会理事として永年に亘り弁護士活動団体の運営に協力し、裁判官の功績と共にその偉大な足跡に対して、昭和50年政府は勲四等旭日章を贈りその栄誉を称えた。昭和53年病没す。享年80歳。吉浦忠敬氏の厳父である。
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姉川捨己
明治41年〜昭和51年(1908〜1976年)裁判官 明治41年4月18日、旧北山村大野にて出生。法政大学法学部を卒業後、裁判官となり、静岡地方裁判所裁判官を最後に退職。その後、静岡公証役場の公証人として勤務し、公証人退官後は弁護士として活動中であったが、昭和51年5月19日病没す。享年68歳。姉川巧氏の叔父にあたる。
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天野武一
明治41年〜平成9年(1908〜1997年)最高裁判事 旧北山村中原出身、海軍大佐天野六郎の長男。明治41年9月31日父の赴任地横須賀市にて生まれる。昭和7年東京帝国大学法科を卒業。昭和9年司法官試補、仝10年検事。神戸地検、大阪地検検事正、その後高松、福岡各高検検事長となり、45年3月最高検次長検事、5月大阪高検検事長に。46年5月最高裁判事に就任、53年9月定年退官。以後弁護士として活躍中。平成9年12月2日死去、享年89歳。 昭和53年11月3日勲一等瑞宝章の栄誉に輝き、平成9年12月2日正三位に叙せられた。
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山本新
明治45年〜平成11年(1912〜1999年)法律学者・高検検事 明治45年旧南山村古湯にて出生。昭和12年中央大学法学部卒業、昭和13年から陸軍法務官として各師団の軍法会議に勤務。仝19年8月陸軍法務少佐第三十五軍法務部長の要職を経て22年6月復員、仝11月弁護士登録、仝28年7月検事に任官、青森、宮崎、熊本、長崎、福岡、鹿児島の各地検検事を歴任、仝37年九大より法学博士の学位を受け、仝44年福岡高検総務部長、刑事部長を最後に仝48年退官、その後、公証人、福岡大学法学部、西南学院大学各講師、同57年西日本短期大学教授となり副学長の要職に就き、仝年従六位勲三等旭日中綬章を受く。平成3年西日本短大を辞任、名誉教授の称号を受く。平成11年1月26日病没す。享年86歳。
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八段麒一郎
大正3年〜昭和47年(1914〜1972年)国家公務員 大正3年、旧北山村大串にて出生。北山小学校から小城中学校、旧制佐賀高等学校、東京帝国大学文学部を卒業、成績優秀につき恩賜の銀時計拝受。大学院にて西洋史学を研究する。大学院修了後、参謀本部嘱託、文部省民族研究所、総理府情報局等に勤務し、内閣総理大臣官房参事官兼内閣審議官等を歴任する。 学生時代から健康には恵まれず兵役に服していなかったため、北山小校庭にて簡閲点呼を受けた折、簡閲官(退役の大佐位の階級)からお前達は多数の将兵が戦地で戦っているのに、内地にいては国家の役に立たぬ、と罵声を浴びせた。八段は激怒して、「ノルマンディー上陸作戦をドイツ語で説明しましょうか」と反論した。 簡閲官は驚いて、「お前は何処に勤めているか」と問うた。八段は「僕は大本営に勤めて参謀達にドイツ語を教えています」と答えた。簡閲官は暴言を取り消した。という逸話が残っている。 在職中の功績により、勲四等瑞宝章を授与されている。昭和47年5月4日病没、享年58歳。
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斎藤實
大正3年〜昭和61年(1914〜1986年)国家公務員 大正3年旧南山村上熊川にて出生、旧制佐賀高等学校、東京帝国大学経済学部卒。会計検査院第一局長、国際協力事業団理事、監事等の要職を歴任。 在職中の功績により勲三等瑞宝章の栄誉に輝く。会計検査院在職中は、上司の池田 直会計検査院事務総長後佐賀県知事の愛顧を受く。昭和61年1月没す。享年72歳。墓は町内内野の西光寺境内に。
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嘉村珠一
大正4年〜平成7年(1915〜1995年)警察官 大正4年旧北山村下無津呂で生まれる。昭和12年佐賀県警察官に任命され、昭和24年警察大学校卒業。その後、呼子、相知、大町、小城、伊万里、鳥栖の各警察署長の要職を歴任警視正に昇任し、45年定年退職する。 50年佐賀地裁民事調停委員、同家裁調停委員を勤め、61年退職。その間、有田ライオンズクラブ会長。 平成7年勲五等雙光旭日章の栄誉に輝く。7年1月病没す。享年80歳。
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杉山要三
大正6年〜昭和52年(1917〜1977年)警察官 大正6年旧南山村杉山にて出生。昭和10年陸軍に志願入隊せしも短期間にて除隊。 13年佐賀県巡査拝命、16年陸軍へ応召し、21年召集解除、同年佐賀県警察官に復帰する。29年警部に、39年警視に昇任し、佐賀警察署次長に、40年から諸富署長、県警本部鑑識課長、秘書課長、武雄、伊万里の各署長を経て、警備部長、唐津署長等の要職を歴任し、48年警視正に昇任し、辞職する。 その後、警備保障会社の専務取締役に就任する。52年永年に亘る県警察に尽力した功労により、正六位に叙し、勲六等瑞宝章を賜わる。52年逝去、享年60歳。
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上滝空蝉
天保9年〜大正7年(1838〜1918年)地方開発者 上滝空蝉は、天保9年4月4日小城郡小城町にて出生(北山小学校校医陣内味不味の父常一郎の実兄)、号を芝山と称し、学者であり、特に書をよくし、人格、識見共に秀れ、人間修業に努め政治力豊かな人物であった。 空蝉は30有余にして京都に学び、ときの小城藩主の乞いに従って、藩士(祐筆係)として仕えていたが、当時山内部と呼ばれていた小城郡大野区長(北山地区)として赴任してきた。空蝉は先見の明があり、決断力も優れた人物で、当時住民は官有地(国有地)を官山と呼んでいたが、住民を説いて私有林として払い下げを受けるよう勧誘し、上滝区長の勧奨が実を結び、私有林造成への意欲を燃え上がらせ、林業に大きな役割を果たしたものである。更に上滝区長は、子弟の教育にも常に心を砕き、私塾を開いて多くの人に教えた。 数ある塾生のなかでも陣内味不味(軍医、後医師、学校医)、吉村赳臣、久保田剛毅(医師、久保田環医学博士の父)等多くの俊秀を訓育に、有為の人材を世に送った。上滝区長は、実に林業開発、教育文化に鋭意を傾注し、地域社会の善導にあたり、大きな治績を挙げた。後年熊本県天草郡福連木の村長に迎えられ、晩年は郷里小城町に帰り、80歳の高齢で他界した。翁の彰徳碑は、旧北山村中原公園内に在り、表の碑文は、子爵・海軍中将小笠原長生(旧唐津藩主)の書で、昭和3年4月建立し、翁の功績を讃えている。
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木原藤一
明治7年〜昭和35年(1874〜1960年)教育家・地方政治家 明治7年旧南山村上熊川に生まれる。明治28年東京専門学校校外生として法律学研修後、小学校教員生活20年中、校長として15か年勤務。旧南山村議1期、旧南山村長6期24か年、その他小城郡町村長会会長、村農会、森林組合長等の要職を歴任。昭和15年勲七等瑞宝章を授与される。昭和35年享年86歳にて歿す。
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吉浦松義
明治41年〜平成4年(1908〜1992年)教育家 明治41年旧北山村上無津呂にて出生。昭和4年佐賀県師範学校本科第一部卒業、小城郡砥川小訓導、同郡芦刈小訓導、18年に佐師専攻科卒業、北山小教諭から教頭に昇任。28年南山村立内野小校長、30年北山村立北山東部小校長、31年北山中学校教諭に復職し同校教頭に、35年北山東部小校長、(2回目)に就任、36年北山中学校長を6年間勤務し、42年定年退職した。 44年富士町教育委員に選任され、教育長に就任、3期12年間。 この間、教育功労者として、県小中学校長会より感謝状を、九州地区町村教育長会連絡協議会会長表彰を、更に全国教育長会長表彰を、亦県教委からも表彰を受く。 昭和60年4月、永年に亘る教育功労者として、勲五等双光旭日章の栄誉に輝いた。 平成4年5月17日病没す、享年84歳。政府は同日正六位を追贈して生前の功績に報いた。
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嘉村哲夫
明治35年〜昭和43年(1902〜1968年)教育家 明治35年旧北山村麻那古にて出生。佐賀師範学校を卒業後、大正15年東京高等師範学校卒業。同年長崎師範学校に赴任、昭和4年から佐賀成美高女に勤務、更に鹿児島県志布志中学(旧制)、鹿屋高女、志布志高校、伊集院高校の各学校長を歴任し、35年退職する。同年東京私立佼正学園高校に就職し、43年5月逝去するまで同校に勤務する。佼正学園高校勤務中は野球部長として活躍し、東京代表として2回甲子園に出場させた頃が、生涯でいちばん愉しかった由。43年没す、享年66歳
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無津呂留雄
明治36年~昭和27年(1903~1952年)大学理事 明治36年旧北山村下無津呂にて誕生、日本大学法学部卒業後、同大学事務局に勤務。同大学通信教育部経理監を歴任し、同大学専務理事に昇格、戦災で荒廃した同大学を、学制改革により新制大学としてスタート、戦後の同大学復興に尽力した。旧北山村から多数の子弟が日本大学に学んだのも、氏の努力に負うところ大である。昭和27年6月19日没す。享年49歳。惜しい人がこの世を去っていった。
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樋口林三
明治39年〜昭和61年(1906年〜1986年)大学教授 明治39年旧北山村大野にて出生。九州帝国大学経済学部卒業後、満洲の昭和製鋼所に勤務。昭和20年太平洋戦争終戦後、内地に引揚げ、福岡大学商学部教授に就任し、同大学院教授を経て、53年同大学を退職する。61年病没、享年80歳。
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矢俣九洲男
明治40年〜平成9年(1907〜1997年)教育家 明治40年12月3日旧南山村市川にて出生。大正14年3月県立小城中学校、15年3月佐賀師範学校本科第二部卒業、同年9月北多久尋常高等小学校訓導、21年4月小城町岩松小学校教頭、22年4月南山中学校教頭、23年4月古湯小学校長に昇任、26年4月南山中学校長、27年4月小城町桜岡小学校校長に就任し、同校退職後31年4月南山村・北山村教育委員会の併任教育長に、更に富士町教育長を2期8年勤務し任期満了退職。49年行政事務所を開設した。 また、角川日本地名大図鑑佐賀県版の富士町内地名の執筆者として名を連ねている、51年富士町長より教育功労者として表彰を受け、58年4月勲五等瑞宝章受賞の栄誉に輝いている。平成9年5月8日病没、享年90歳。著書「市川のまつり」がある。
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光野次市
明治44年〜平成10年(1911〜1998年)教育家 明治44年7月20日旧南山村貝野山下家に生まる(後光野家の養子となる)昭和7年3月鹿児島高等農林学校農芸化学科卒業。仝年4月佐賀県農事試験場助手、同8年農林技手、同13年5月県立佐賀工業学校数諭に任命される。同15年3月西部四八部隊に入隊、太平洋戦争に従軍以来東南アジア方面を転戦、20年3月戦功により勲八等瑞宝章を授与さる。同年8月13日帰還し、直ちに佐賀工業学校に復職、法律の改正により、工業高等学校教諭となる。25年南山村中学校教頭に就任、33年各北山中学校長に昇進、36年4月から39年3月まで佐賀県社会教育課勤務を経て、39年4月富士中学校校長に就任、同45年3月31日辞職する。 その間、富士町体育協会副会長、町行政相談員、青少年スポーツクラブ育成会会長、三瀬村社会教育主事、明選推進委員長、町公民館運営委員、町交通安全協会会長、町老連副会長、富士町教育委員等を歴任。 以上に掲げた多数の要職により、多数の感謝状、表彰状等を受賞している。 平成10年8月5日病気のため永眠す。享年87歳。政府は、従六位に叙し勲五等瑞宝章を授与した。
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川原惣市
大正2年〜昭和59年(1913〜1984)教育家 大正2年旧北山村下無津呂にて出生。県立唐津中学校(旧制)を経て、昭和7年8月、台湾総督府台南師範学校演習科卒業。直ちに台湾台中州公立公学校国民学校及び公立青年学校指導員として、20年5月まで勤務し、同年5月、無事故国日本へ帰り、故郷の北山小教諭に就職した。更に北山東部小、再び北山小、北山東部小教頭、古湯小杉山分校主任、北山小教頭等を歴任後、南山中教頭、佐城教育事務所指導主事を経て古湯小学校長に昇任し、その後、富士中学校長を最後に47年定年退職する。48年保護司に就任、56年まで8年間、少年の保護活動に従事、更に、富士町社会教育指導員、同公民館長、56年町教育 委員に選任され同教育長に任命された。58年12月、2年3か月間にて、教育長職を病気により退職する。 昭和59年10月22日逝去享年71歳。生前の教育関係功労により、勲五等瑞宝章の栄誉を受く。
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天本良子
大正8年~平成9年(1919~1997年)教育家 大正8年旧南山村古湯にて出生、旧姓大塚から母方の養女として久保姓となり、結婚して天本の姓となる。 昭和14年佐賀県師範学校本科卒業、翌15年同校専攻科卒業。同年南山村立古湯小訓導、23年から南山中学校教諭、24年から東京都目黒区駒場小数諭、25年から千代田区立小川小教諭、29年から富士見小教諭、37年天本伍市と結婚天本姓となる。40年千代田区立小川小数頭、44年日本で最初の女性校長として港区芝小学校長兼幼稚園長に就任。夫の伍市も校長であったのでおしどり校長として有名。55年定年退職。同年港区教委社会教育指導員、49年港区助椎園長会会長、54年港区小学校長会副会長、51年から東京都公立小中学校婦人校長会会長・52年から全国公立小中学校婦人校長会副会長、53年から東京都社会教育委員、55年1月10日「宮中歌会初め」に東京都教育界代表として招待される。平成3年11月3日勲五等宝冠章を授章。7年より東京都公立学校退職女性校長会会長、同年より東京佐賀県人会女性部かささぎ会会長、東京有朋会会長の要職を歴任し、平成9年7月14日病没す。享年78歳。
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大石繁男
大正10年〜平成6年(1921〜1994年)教育家 大正10年級南山村下熊川にて出生。昭和16年3月佐賀師範学校本科第一部を卒業。小城郡西多久小学校訓導として赴任、同16年12月から20年10月帰還するまで兵役に従事。帰国後、南山村内野小訓導、川上村川上小教諭、松梅村松梅小教諭、同松梅中敷諭、富士町立北山中敷頭を経て、50年北山東部小校長に昇格、富士中校長に転任、56年3月にて定年退職する。57年富士町公民館長に就任、59年町教育委員に選任され、60年2月町教育長に就任し、同年8月任期満了退職、更に62年10月から平成元年3月まで教育委員長の要職に在りて、町教育の振興に寄与す。 45年剣道六段、50年12月剣道教士の称号を授与される。平成6年5月15日永年に亘る教育功労者として勲五等瑞宝章を授与される。同年5月15日永眠す。享年75歳。
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中村冨可男
大正11年〜昭和38年(1922〜1963年)教育家 大正11年旧北山村上無津呂にて出生。旧制唐津中学卒。小学校教諭となり、古湯小、北山東小、北山小の各学校に勤務。昭和38年1月28日、60年振りの豪雪のため、川頭、山端部落の児童を送り届け帰途遭難殉職す。昭和38年大阪教育塔に合祀、同年正八位勲七等瑞宝章を授与される。先生の功績を讃え、北山小校庭に顕彰碑を建立する。