検索結果 RESULT
- 富士町
- 検索結果
[富士町][ 人物]は52件登録されています。
富士町 人物
-
柴田政利
大正11年〜平成7年(1922〜1995年)大学教授 大正11年7月13日旧北山村大野にて出生。北山小学校5年終了後旧制県立小城中学校に入学、4年終了後、陸軍士官学校に入学、同学校卒業後少尉に任官、終戦時の昭和20年には陸軍大尉中隊長としてニューギニアにて終戦を迎える。復員後、明治大学商学部に入学し、26年12月、同大学大学院商学科を卒業し、33年助教授に、38年10月教授に昇格する。42年に商学博士の学位を取得、平成2年定年退職する。尚退職後も名誉教授として大学の教壇に立ち、43年間の長きに亘って学究生活に没頭した。平成7年8月20日病没す。享年73歳。著編書に「現代資本主義と世界経済」が在り、その他多数の論文集が刊行されている。特に光彩を放つものに「商学博士柴田雅利先生古稀祝賀記念論文叢書」が、同僚や教え子の教授達によって刊行されている。
-
副田萍泉
明治33年〜昭和45年(1900〜1970年)俳人 明治33年旧南山村にて出生。本名清一、萍泉は俳号。県立佐賀商船学校中途退学。南山農協理事、南山村議会議員等の要職に就く。本業は湯元で、鶴霊泉を経営。特に俳句に造詣深く佐賀ホトトギスの会員指導にあたり多くの俳句愛好家を育成した功績は大きい。昭和37年 斎藤茂吉の歌碑建立については建立委員長として活躍した。昭和45年歿す。享年70歳。
-
原ケサクリ
明治35年〜平成7年(1903〜1995年)俳人 明治35年旧南山村にて出生。原家に嫁ぎ、農業に従事。63歳の時、短詩型文学に目覚め、古湯の俳人副田萍泉先生に師事し、俳句の勉強を始む。 作句2600、句会特選数回、入選数回。昭和52年句集「山里」を出版。 平成7年93歳にて没す。
-
吉浦史郎
明治40年〜昭和58年(1907〜1983年)歌人 明治40年旧北山村下合瀬で出生。本名爲作。史郎はペンネームである。15歳で肢体の自由を失い、76歳の生涯を閉じるまで61年間の不自由な生活を続けた。その間読書に親しみ、短歌を愛し、歌誌「アララギ」でも上位にランクされていた。詠草数千首。特に中島哀浪(歌人)との交友はむつまじく、まさに親友であり、心の友であった。昭和49年歌集「撫山集」を出版した。哀浪が命名した「撫山荘」から採った歌集名である。昭和57年英国のシンクレア・エイトン氏がこの歌集を英訳した。その英訳歌集を米国のハイスクール高校)でテキストとして使用している由。平成4年北山東部小学校内に「亡き母がお百度踏みし石佛あらはになりぬ公孫樹切られて」
-
森平太郎
明治2年〜昭和21年(1869〜1946年)実業家 旧川上村に生まれ、幼にして旧北山村古場の叔父森源兵衛の養子となる。明治28年台湾に渡り饅頭造り、キャラメル店員など苦労して、台北にて菓子店を開きその後、株式会社を設立し、「新高キャラメル」や「新高ドロップス」等を製造販売する。東京、大阪、大連に各工場、支店を設ける。昭和8年、北山小学校に講堂一棟工事関係一切を建築し寄附する。(森の頌徳碑は森源兵衛の名をもって建立されている。)
-
津野喜七
明治29年〜昭和22年(1896〜1947年)実業家 明治29年 旧北山村下無津呂にて出生。本名は無津呂半三、東京帝大農学部を卒業して、福島県郡山市の津野家の養子となり、津野半三が本名、襲名して津野喜七となる。津野百貨店の社長となり、昭和2年郡山市議会議員に当選し、7年には推されて市議会議長の要職に就く。一方、県農業会副会長に就任し、郡山市の政治、商業、農業等広範囲な方面に活躍した。21年、市民の信望を一身に集めながら他界した。享年51歳。
-
八段音三
明治32年〜昭和45年(1899〜1970年)実業家 八段音三は、明治32年7月29日旧北山村大串にて出生、大正7年3月朝鮮に渡り、逓信局及び営林署に22年6ヵ月勤務し、昭和15年8月、朝鮮合同木材株式会社に転職重役として活躍、後同会社を解散し、更に北鮮合同木材株式会社を設立、重役として社運の発展に寄与し、当時、大東亜戦争中のこと故、故郷の北山小学校にも科学教育等も必要であろうと考慮、昭和19年2月11日、金壱万円(現在額に換算すれば壱億円に相当する)を教育資金に寄附されたのである。終戦後、帰郷された氏は佐賀市に於いて、八段木材店を経営していたが、45年5月21日急逝、享年71歳。 その後、氏の意志を受け継ぎ、昭和45年6月11日夫人シズ、長男正の両名から北山小学校へ金100万円を寄贈されたので、校舎前に記念の庭園を設置して、遺徳を偲んでいる。
-
陣内勝市
明治34年〜昭和54年(1901〜1979年)実業家 明治34年旧南山村下熊川に生まる。中学(現高校)課程を通信教育で学び、上京して東京電気学校高等科(現東京電気大学)をトップで卒業。大正12年陸軍に入隊し除隊後15年逓信省電気試験所の第一種試験の難関をパス。昭和16年豊国電機工業株式会社常務取締役に、18年代表取締役社長に就任する。 東京電気大学学賓、全日本学士会名誉会員等をはじめ、顧問、相談役、理事長、区議会議員(議長)等20余の名誉職をもち、馬術、ゴルフ、小唄等の趣味にも徹している。 電気事業界における永年の功績により、34年紺綬褒賞、40年黄綬褒賞、赤十字金色有効章、46年勲五等双光旭日章の栄誉に輝く。著書「宿根草」を46年に出版、54年永眠す、享年78歳。
-
大塚正善
大正4年〜平成9年(1915〜1997年)国家公務員・実業家 大正4年旧南山村古湯で出生。昭和14年高等文官試験(行政科)合格、15年3月東京帝大法学部政治学科卒業恩賜の銀時計拝受。15年4月内務省採用、9月海軍主計中尉に任官、17年5月海軍主計大尉に昇任、元山海軍航空隊副官兼主計長。20年5月海軍主計少佐、9月復員。12月厚生事務官、23年5月警視庁警視に任命、28年岩手県警本部長、30年熊本県警本部長、32年中国管区警察局総務部長を歴任、12月依頼退職。39年三幸企業株式会社を設立し代表取締役に就任、平成9年3月18日逝去、享年82歳。
-
陣内味不味
元治元年~昭和7年(1864~1932年)医師・軍医・校医 元治元年(1864年)小城郡旧北山村中原に生まれ、伯父である大野区長上滝空蝉の私塾に学ぶ。後、熊本医学校に学び同校を卒業し、上京して医療に従事する。明治20年代に佐賀に帰り、大串、東松浦郡相知(現相知町)、古湯、大野で開業、明治44年中原(現在の富士町公民館の所在地)に開業して名医の評判高く、佐賀市や唐津市等からも患者が来た。「医は仁術」を実践し、貧しい者からは薬代も取らなかったので信望も厚かった。北山小学校の校医を25年にわたって勤めた。なお村議会議員も3回当選して村政・教育・文化、医療等各分野にわたり社会の発展に寄与した。この間、陸軍軍医として、日露戦争及び第一次世界大戦に従軍、青島攻略戦に参加している。陸軍二等軍医中尉として活躍された功績により、従七位・勲五等旭日章の栄誉に輝いている。 先生は特に詩歌を能くし、「環翠」と号して「北山公論」(古賀次郎氏発行)に投稿毎号漢詩を掲載されている。昭和7年5月7日永眠す。享年68歳。
-
深川良知
明治4年〜昭和26年(1871〜1951年)医師・地方政治家 明治4年8月、旧川上村にて出生。佐賀中学校から、長崎医学専門学校を卒業し、台湾にて明治33年から42年まで公医として医業に従事。南山村から招かれて43年から古湯にて開業する。大正10年南山議会議員となり、その間小城郡議会議員を大正4年から3期12年勤め、昭和21年初代の南山村議会議長に就任する。村政、教育、産業振興等に貢献した。昭和26年10月7日逝去、享年81歳。
-
吉浦秀作
明治22年~昭和16年(1889~1941年)医学者 明治22年11月26日小城郡旧北山村下無津呂にて出生。私立日本医学校卒業(東京)大正2年9月佐賀市水ヶ江町の池田医院院長医学博士池田陽一氏に師事し、産婦人科学を研究、9年から11年まで朝鮮総督府忠清南道立公州慈恵医院勤務、11年から14年まで慶尚南道晋州慈恵医院勤務、大正14年から昭和14年まで、金羅北道立全州慈恵医院勤務。この間、昭和6年から2年間、総督府から朝鮮全州から優秀な医師2名が選ばれドイツに留学。ドイツのギーセン大学での研究論文を昭和8年慶應義塾大学へ提出し、医学博士の学位を取得する。14年脳卒中で斃れ退職、療養のため佐賀へ帰国、16年12月26日逝去。享年53歳。生前、正五位勲六等を受章。
-
福島権三郎
明治22年〜昭和29年(1889〜1954年)歯大講師・歯科医師 明治22年7月20日、旧北山町上無津呂にて出生。旧制唐津中学校を卒業後、上京して、大正9年9月26日、東京歯科医学専門学校を卒業し、学校に残り、講師を3年間務めた後、東京にて歯科医院を開業す。 なお、法律学の勉強に憧れ、中央大学法学部を昭和5年2月卒業し、歯科医学士、中央法学士の学士号を取得す。後年、福岡県前原町に開業、旧制糸島中学校歯科校医、糸島郡歯科医師会長等の要職に就任す。昭和29年3月6日病没す。享年65歳。
-
松永琢磨
明治23年~昭和32年(1890~1957年)医学者 明治23年2月21日旧北山村下無津呂にて出生。温知小学校(北山小の前身)から旧制佐賀中学校、旧制山口高等学校を経て、明治40年東京帝国大学医学部を卒業。明治44年から大正11年6月まで福島県立病院外科部長として勤務。その間約2年間に亘り、ドイツ・スイスの各医科大学で留学、帰朝後医学博士の学位を取得。日本大学医学部教授に就任、更に同大学附属病院長の要職に就き、宮内省侍医拝命、大正14年医療法人道園会東京松永病院を設立。昭和20年8月の終戦まで昭和天皇侍医となる。昭和29年北山中学校新築記念として、オリンパス顕微鏡2基を寄贈した。昭和32年3月鎌倉市内の別荘で逝去。享年67歳。 ※出生年と享年について、『栄国城人国記』『佐賀県教育史』第2巻等の記録から、出生年は明治13年(1880年)、享年は77歳の誤りであることを追記する。
-
吉浦盛純
明治29年〜平成2年(1896〜1990年)外交官 明治29年旧北山村上無津呂にて出生。旧制唐津中学、佐賀師範学校卒業後大正9年、外務省留学生試験に合格、以後ブラジル国、イタリア国、バチカン市国等の在外公館に勤務し、イタリー大使館参事官となる。 退官後、東京外国語大学講師、株式会社鹿島建設参与として活躍する。多年の外交功績により昭和41年勲三等瑞宝章を授与さる。平成2年12月、東京都武蔵野市にて逝去す。享年94歳。平成2年12月追位正四位。 著書に「聖ザビエルの生涯と奇跡」「ザビエル絵伝」「日伊文化史考」「ローマ歴史散歩」等多数あり、吉浦河三氏は同氏の末弟。
-
渡辺朱一
明治30年〜昭和22年(1897〜1947年)医学者 明治30年6月12日現在の佐賀市蓮池町にて出生、九州帝大医学部在学中の大正12年4月13日渡辺の養子となる(旧姓赤司)。昭和4年九州医学専門学校〔現久留米大医学部〕教授に就任。昭和7年医学博士の学位を受く。その後招きにより、旧満洲鉄道株式会社附属病院長として、錦州、遼陽・本渓湖の各病院長を歴任す。昭和20年11月終戦により引揚げ、22年3月22日病歿す。享年51歳。
-
陣内朽索
明治32年〜昭和19年(1899〜1944年)陸軍軍医 明治32年旧北山村中原にて北山小校医陣内味不味先生の長男として出生。大正10年熊本医学専門学校卒業、同年軍医少尉に任官。台北、鹿児島、都城、大村の各連隊に勤務し、更に日支事変により満洲、北支に転戦、大東亜戦争となり、昭和19年、蘭領ニューギニアに進出、昭和19年6月13日、栄養失調症により戦病死。陸軍軍医大佐、正五位勲三等旭日章を授与される。昭和18年歌集「弾痕」を出版、中国兵の俘虜を治療した詠草あり、帝国学士院会員佐々木信綱博士の俘虜治療を讃えた序文が載せてある。
-
久保田環
明治33年~昭和39年(1900~1964年)医師 明治33年8月14日、旧北山村下無津呂にて出生。大正13年3月長崎医学専門学校卒業。15年同医大助手を勤め、昭和5年2月医学博士の学位を取得。7年3月、長崎市出島町に産婦人科病院を開業。19年に唐津市に移転開業していたため、長崎の原子爆弾による被爆を免れた。原子爆弾による白血病と闘った「この子を残して」外多数の著書を残した永井博士との交遊は深く、久保田病院には多数の永井博士の書簡が残されている。 博士は若くして父親に死別しておられたため母親の手によって学資が調達され高等教育を受けておられるので、母親に対する感謝の気持ちは特に強く、「母」の著書が目を引く、冒頭の写真は、「母」の執筆中のものである。また博士は愛郷心強く、故郷北山の発展のため北山村議会議員としても活躍した。 昭和39年10月26日逝去。享年64歳。
-
嘉村武夫
明治38年〜昭和63年(1905〜1988年)軍人 明治38年旧北山村麻那古にて出生。大正12年熊本陸軍幼年学校卒業、昭和2年陸軍士官学校卒業、同年陸軍少尉に任官、5年陸軍砲工学校高等科卒業。陸軍兵器学校、兵器部、造兵廠、兵器本部等に勤務し、陸軍中佐のとき終戦。20年12月厚生省博多引揚援護局勤務、21年戸畑市役所に、23年九州電力株式会社入社、35年定年退職。同年大光炉材株式会社に入社、40年退社。63年病没す。享年83歳。 陸軍在職中に「風船爆弾」の製造に着手した責任者である。15年勲四等旭日章を授与され、20年に正六位に叙せられている。
-
古賀彦次郎
明治22年~昭和24年(1889~1949年) 団体役員 明治22年5月30日旧北山村下無津呂にて出生。旧制唐津中学校を卒業し、旧佐賀師範学校を卒業し3年間教鞭を取る。更に上京して早稲田大学に入学したが制服が制定されたためこれを嫌い国学院大学文学部国史学科に転校、大正5年7月同校を卒業す。卒業後、東京市にて就職していたが脚気病のため帰省す。 帰省後は、北山金融株式会社、北山自動車株式会社、北山村利用組合(発電事業)に参画し村内各事業に役員として活躍す。産業組合(現農協の前身)が創立されるや専務理事に就任、同時に村農会の副会長を兼務し、北山村議会議員も3期12年間に亘って村政発展のため寄与している。 特筆すべきは、大正14年6月10日創刊号を発刊し、以来昭和14年10月10日紙不足のため廃刊するまで15年間に亘って、村内情報紙「北山公論」を毎月編集発行したことである。 当時は、新聞も一部の有識者のみが購読していた時代であったので、「北山公論」は、唯一の村内情報紙で、毎月1000部位印刷されて、村内各家庭はもとより、県外にて活躍中の知名士にも送付されていたようである。 この「北山公論」が、富士町史執筆に当っては多大の資料源となったことは大変有難く、15年間に亘って掲載された県外在住の知名士の消息、村内の各種情報、敵地だより、政党論争に至るまで様々の情報に、村内外の愛読者に刺激を与えてくれたことは山村における文化の灯であった。 編集子の彦次郎は、昭和24年8月25日病没。享年60歳であった。
-
山中猛
大正5年〜平成11年(1916〜1999年)会社員特別職公務員 大正5年8月19日旧南山村大字古湯にて出生、昭和10年9月東邦電力(株)入社、16年3月九州電気工学校卒業。17年4月日本発送電(株)川上川第一発電所勤務。18年応召休職。20年9月復職、26年九州電力佐賀支店川上川第一発電所勤務。30年広滝第一発電所長兼広滝第二発電所長。33年9月小関発電所長兼川上川第四発電所長、37年7月川上川第一発電所長兼南山発電所長兼川上川第五発電所長。 43年10月富士町教育委員会委員に就任。 46年9月定年退職(九電) 49年10月富士町教育委員会に就任。 56年2月富士町教育長に就任、同年9月任期満了により退職。56年7月佐賀県へき地教育振興会会長に就任、58年7月同会長を任期満了により退職。 60年4月29日電力事業及び教育行政に永年に亘って貢献した功績が認められ勲七等青色桐葉受章の栄誉に輝く。 61年1月4日富士町監査委員に就任、平成10年1月3日同委員を退職。 平成11年7月14日小副川の自宅にて逝去。享年83歳。
-
富岡敬明
富岡敬明は、山内郷の代官時代、脱藩の罪で死罪を赦され永蟄居となっていた江藤新平を迎え、役所近くの金福寺で寺子屋を開かせた。しかし小城藩騒動(1864)といわれる刃傷事件の首謀者として3ヶ年の取調後、死罪の判決を受けるが、本藩藩主鍋島直正(閑叟公)の「敬明は殺すなかれ」の鶴の一声で(江藤新平も同じ)、伊万里久原(小城藩の飛地)の獄で終身禁錮に処せられた(約3ケ年間) 明治5年3月(1872)北海道支配置への赴任の準備中、山梨県権参事の命令を受く。(これは山岡鉄太郎の推薦による。2人は伊万里で僅か2ケ月余の間柄であったのみであるが)。明治新政府の地租改正に不満を抱いた農民達が、武田信玄以来の大小切といわれる税制(江戸時代も続いていた)を残せとして、一揆の騒動を起こしていたところに権参事として赴任。赴任後、敬明は権令をよく補佐し誠意をもって鎮撫に成功した。さらに県北西部の開拓を率先して奨励するなどで治績をあげる。山梨県民から惜しまれる中に、明治8年9月(1875) 名東県(徳島県)権令となり、本藩と淡路島の支藩との抗争後の民心の安定化に努めた。(稲田騒動と言われる、この争いの結果、太政官は布告をもって、淡路島を兵庫県の管轄とした。さらに、熊本神風連の乱(1875)の後の政情不安と西郷隆盛等の不穏な動きから、大久保利通の要請によって(これも鉄舟の推薦と言われる)明治9年(1877)熊本県権令として赴任した。やがて西南の役となり熊本城で司令長官谷干城少将、参謀長樺山資紀中佐・同副長児玉源太郎中佐(日露戦争中の満州軍総参謀長)特派員川上操六少佐等と籠城(54日間)食糧の不足に苦しみながらも戦い抜いた。乱後は熊本県の開発に努め特に三角に築港するなど、14年間(明治24年1891まで)にわたって県令から知事として業績を残した。(三角町には頌徳碑が建っている)。この時代に上滝空蝉を招いたのである。 敬明は退官後小城に帰らず山梨県に戻った。これは「あの2人の首謀者が埋められている甲州の地に、自分も骨を埋め申し訳としたい」と、常々語っていたことが動機であったと言う。里垣村(現甲府市)の名誉村会議員をするなど、地域の発展に尽力した。明治42年(1909)88歳の天寿を全う。 山梨県長坂町日野春の富岡区(富岡敬明の名字をとったもの)に、開拓神社(開拓の恩人として敬明を記念したもの)が建てられ、横手には顕彰碑もある。今でも地区の人から「敬明さん」と慕われている。これらから敬明がこの開発に力を入れ尽力したことがわかるものである。(貴族院議員・従二位勲二等男爵) (子孫は甲府市で葡萄園を経営)。 書聖といわれている中林梧竹とは従兄弟であり、梧竹から「あんじゃいもん」といって慕われ徳島・熊本・山梨によく尋ねてきたそうで、永い交友があった。山梨の家には梧竹の書が多く残されている。敬明も梧竹とともに書をよくしたそうで、大小切騒動で処刑された首謀者(2名)の頼彰碑建立に際し、騒動の時は取り締まりに当たった立場の者に、顕彰碑文の題字を依頼されたのは奇有のことであり、これは敬明の誠意ある行動言論が農民達の心に刻まれていた為で、それで快く依頼をすることになったものである。 富岡敬明と上滝空蝉の2人が最後の仕事を熊本で為されたのは、共に小城藩出身でこの山内郷の代官・区長として、先輩、後輩の縁によるものであろう。敬明が熊本にありながらも、この山内郷に深く心を寄せていたからであるといえよう。 小城藩騒動の責を負い、死罪となり赦されたものの、数年を獄窓にて過ごした人が、伊万里県権参事・山梨県権参事・名東県権令・熊本県権令から県知事として20年間にわたる要職を歴任できたのは、敬明の識見力量によるものであろうが、多くの人の支援による幸運にも恵まれたからである。それは獄窓での苦しみを泡の如く消し空白を取り戻すのに十分のものであったと言えるのでないだろうか。 富岡敬明は、中原区とは特別に関係のある人ではないが、幕末において最後の代官と言われ、また中原公園内にある頌徳碑の上瀧空蝉との関係から敢えて附記した。