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[旧佐賀市][ 樹木・花]は48件登録されています。
旧佐賀市 樹木・花
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シチメンソウ
嘉瀬町では嘉瀬川河口と本庄江河口に生育しているが、ウラギクやヨシ、ヒロハマツナなどと混生していることが多い。 昭和62年5月に昭和天皇が全国植樹祭に行幸された折、東与賀大授搦地先のシチメンソウを御覧になってから、急に脚光を浴びるようになった。アカザ科の塩性植物で葉をかめば、塩分を含んでいることがわかる。葉は棍棒状で横断面が円形。若い時から部分的に淡紅紫色や淡緑色をしており、秋になると全株が鮮かに紅葉して美しい。12月になると種子を落として枯れる。有明海北部の河口や干拓地先で、満水の時に冠水し干潮に潟地になるようなところに群落をつくっている。 全国的に生育地が限られていて環境省の絶滅危惧Ⅱ類種に指定されており、佐賀県でも絶滅危惧Ⅱ類種に指定され保護の対象となっている。
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ヒロハマツナ
嘉瀬町では嘉瀬川と本庄江湖の河口付近にシチメンソウと混生していることが多い。 シチメンソウに似ているが、葉の上面が平らで長さ3.5cm、幅が3mmぐらいあるので区別できる。アカザ科で、日本固有の塩性植物である。有明海北部沿岸に生育し、本庄江湖では1km上流まで分布している。土木工事などで全国的に減少傾向にあり、環境省の絶滅危惧Ⅱ類、佐賀県の絶滅危惧Ⅱ類種に指定され、シチメンソウと共に貴重な植物である。
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イセウキヤガラ
嘉瀬町では本庄江湖河口干潟に生育するカヤツリグサ科の植物。根茎は細く地中をはい、先端に塊茎をつくる。地上の茎や葉の横断面は三角形で細長く、高さは80cmほどになる。全国的に稀な植物で、佐賀県では有明海北部の河口干潟にだけ群落をつくって生育し、最近浚渫作業などで減少する傾向にある。佐賀県では準絶滅危惧種に指定し保護につとめている。
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アサザ
ミツガシワ科の多年生水草で、根茎は水底の泥中を長くはい、太く長い茎を水面に出す。葉は卵形又は円形で直径5~10cm。やや厚く縁には波形の鋸歯がある。表面は緑色で光沢があり、裏面は紫褐色。花は鮮かな黄色で5つに深く裂け、花弁の縁は糸状になっている。 六月から七月にかけて水上に抽出し、午前中に開花し午後はしぼむ。久保田町、三日月町、千代田町、鹿島市の堀や流れのゆるやかな川に群生する。佐賀市では嘉瀬町の荻野、東原、嘉瀬津、元町の堀に生育している。 全国的に少ないので、環境省の絶滅危惧Ⅱ類に指定され、佐賀県では準絶滅危惧種に挙げられている。河川改修や圃場整備により減少したが、最近では徐々に増加している。除草剤の被害も時折見かけられる。
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ドクゼリ
セリ科で水辺に生育する大形の多年生草本。地下茎は太く、竹の地下茎に似て節があり、内部には隔壁がある。地上の茎は中空で高さ60~120cm。その先端にセリの花に似た白い小さな花のあつまりを傘状に着ける。花の時期は6月から9月で遠方からでもよく目立つ。茎や葉柄を折ると黄色の汁が出る。これは、トキシンやチクトールなどの有毒成分を含むので、口に入れると神経中枢に作用し、呼吸困難となり死に至る。 佐賀県では、準絶滅危惧種に指定されている。佐賀平野南部、特に嘉瀬町、本庄町、川副町に大きな群落をつくっていたが、最近圃場整備のために急激に減少した。現在嘉瀬町では、中原や扇町の堀に僅かに見られる程度である。
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ホウライチク
筍が夏の土用頃に出るので、ドヨウタケとも言う。嘉瀬町ではオナゴタケとも呼んでいる。横にはう地下茎がないので、こんもりと茂る竹薮を形成する。日本原産ではなく、台湾、中国南部、タイ、フィリピンを原産地とする南洋竹(バンブウ)である。この竹は、火縄銃とともに中国南部から移入されたもので、鹿児島の島津義弘公が一朝有事のために家来たちの家に植えさせたのが発端である。のちに九州一円から四国南部の藩主が競って火縄銃とホウライチクを入手し分布が広められたと言われている。火縄を作るには、若い一年生のものの皮をはぎ、生のものを打ち砕いて縄をなうだけでよく、これを保存しておく。現在では防風、西陽避け、堀岸補強などの為、家の周辺に植えられている。また水鉄砲や紙鉄砲など子供の遊具を作るのに利用したり、キウリの垣や草花の支柱に利用している。筍は食べられるが、その習慣は無い。ホウライチクの竹薮は、平野部の特徴的な景観であり、圃場整備や宅地造成により近年その数が激減した。
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モウコガマズミ
スイカズラ科の高さ4mほどの落葉かん木。葉は卵形で全面に毛が多い。春先に黄白色の小さい花が多数集まって径8~13cmのかたまりをつくる。平成2年(1990)、県立森林公園に鑑真和上の上陸記念碑が竣工した折、その傍らに植えられた。鑑真和上の故郷、中国楊州市から贈られたもので、現在41株に増えている。原産地がモンゴルであるところから、和名をモウコガマズミと新しく名付けられた。中国名は瓊(けい)花(美しい花)又は八仙花で、中国では庭園木として各地に植えられている。日本では、森林公園と楊州市の姉妹都市唐津市に植えられている。
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乙護神社のクスノキ
境内の南東隅にあり、胸高直径1.25m、高さ12m。枝張りは南北19.5m、東西18mの巨木である。県の指定巨木で樹勢は極めて良好。幹にはコケ類やノキシノブが着生している。境内にはこの巨木の他に3本のクスノキが生育している。
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四面神社のクスノキ
境内には5本のクスノキが見られるが、最も大きいのは、社殿の東にある個体で、胸高直径0.9m、高さ8m。ノキシノブが着生しており樹勢旺盛。
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苗運寺のクスノキ
境内の南東隅にあって、胸高直径1.2m、高さ7m。大枝を強く剪りつめられているが生育状態は良好。ナツヅタが着生している。
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若宮神社のクスノキ
2本あるうち、社殿の東のクスノキは、胸高直径1.15m、高さ10m。社殿の北西のクスノキは、胸高直径1.35m、高さ8m。枝は剪定されているが生育状態は良好。 国道近くにもう1本あったが、道路拡幅のため平成15年に伐採された。
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八幡神社のクスノキ
境内入口南のクスノキは、1株2本立で、2本とも胸高直径は0.75m、高さ10m。オオイタビが着生している。この株以外に4本のクスノキがアラカシなどと混生している。 下宮のクスノキは、胸高直径0.3m、高さ12m。生育状態は良好。
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湾頭(わんどう)の松
本庄江河口近くの右岸(新町地区)にある祠(ほこら)を挟んで両側に5本ずつ合計10本の松が植樹されていた。この松は大きく成長して遠方からも望見できた。そこで本庄江目指して航行してくる船舶の安全航行の指標となっていた。しかし昭和20年前後に総て伐採されて、今はない。
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百間土居(土手)の松
市の廃棄物最終処分場の北側の土手に植えられていた松で、今は伐採されてない。嘉瀬川水系の泥は砂の含有量が多く粘土質が少なく干拓堤防として弱点が大きかったので、それを補強する目的で植林されたと思われている。昭和28年の水害の潮止めの杭にも使った。
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徳善院の西方にあった松林
鍋島家の徳善院縁起によると「徳善院の西方にあった松林八丁余歩を払い下げて同寺の建築材に供せり」とある。古老の話ではその松の残り1本が八幡宮と一の鳥居のほぼ中間に残っていたが最近伐採された。また、この松林の松の一部が有重の松林寺の建立に使用されたとも言い伝えられている。
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別れの松
藩政時代処刑される人が最後に家族と別れを惜しんだ場所に植えられていた松で現在は第三代目が植樹されている。 佐賀城下の西端・高橋を渡って扇町を西に過ぎて、嘉瀬元町に少し寄ったところに1本の松が植えられていた。現在は、造園業者の敷地の一隅に植えられている。藩政時代、嘉瀬川沿いに刑場があった頃には、刑場に引かれる罪人がここで見送りの肉親の者や知人と永遠の別れを告げねばならなかった。早朝、白衣蓆駕で獄舎を出された罪人は、見送りの者と水盃を汲み交わすことが許されたそうである。そこで別れの松と呼ばれている。
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四面神社の境内とその参道の松
四面神社の境内とその南側の参道沿いに旧長崎街道筋の鳥居まで、松並木がつくられていた。しかし、大東亜戦争中航空機の潤滑油として松根油が使用されるようになって、この松も松根油をとるため伐採されて今はない。
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藤棚
今はコンクリートになっているが、昔は皮をむいた丸太であり、藤の花の色を一層ひきたたせていた。戦前の佐商生のテニスのネットは、この丸太の1本と、神社前の大銀杏の樹を利用して張られていた。
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大楠の穴
與衆館の横から女山へ行く途中に、今は枯れた大楠がある。この幹に大きな穴があり、その穴から這入って幹の上に抜け出すことが出来る。落雷によるものと伝えられているが、子ども達にとって、現在のジャングルジムに相当する遊び場であった。
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老松神社の大楠
樹高24m、幹回り5m、枝張り22m
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藤棚の跡
高尾消防格納庫のある所で、東西2間(3.6m)、南北7・8間(12.6〜14.4m)に広がっていた藤棚があって、旧藩時代参勤交代などで出仕の折は、ここで歓送迎したという。
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櫨(はぜ)の木・南京櫨(唐櫨)の木
佐賀藩第10代藩主鍋島直正公は、藩の財政立て直しや殖産興業を断行した。その中で、100年位前から九州各地で広がり、佐賀東部地区を中心に盛んだった櫨の栽培に1843年、筑後から仕入れた苗木25.000本を村々に配布し、佐賀で生産された蝋は好評で、巨勢村は中でも有名な産地であったようである。 真崎照郷氏は18歳で櫨から油と蝋を取り出す機械を発明したと記されており、巨勢村は有名な産地であったと思える。 昔は、クリークの周囲には大きな唐櫨(南京櫨)があったが、近年圃場整備、開発でほとんど見当たらなくなったが、構口、二木、修理田、高尾小路、西分の焼原川沿いに今でも大木が存在する。 東西(佐賀江沿いの地名)には当時「蝋屋」があり、佐賀江沿いに取引があったとされている。
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梅林庵凱旋柿
梅林庵の墓所内に1本の柿の木がある。これを凱旋柿と呼んでいる。藩祖・鍋島直茂が朝鮮出征から凱旋の時持ち帰った柿の木をここに植えたものと伝えられている。直茂が少年期に梅林庵で修学、成長した縁で凱旋を機に贈ったものと推察されている。現在の木は原木に接ぎ木されたものと言われ実の太い澁柿の種類である。
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高傳寺八太郎槇
本堂の前庭には槇の大木が左右に根を張って威容を誇っています。この槇の愛称である八太郎は、郷土の生んだ大政治家大隈重信侯の幼名にちなんだもので、侯が少年の頃、両親に伴われて来れば、必ずこの槇の木に登って遊んだことから付けられた名前です。
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萵苣の木
萵苣の木川のチヤノ木(正しくはチシャノ木)とは、別名カキノキダマシという植物で、柿の木に姿形が非常に似ている。現在道祖神社南を流れる川端の東の屋敷に1本あり、本庄町内には溝口南と中島の古川氏宅に大木が繁茂していたが、溝口の木は数年前に切り倒されている。
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せんだんの木
勧興小学校旧校舎の中庭にあった。 幹の真ん中あたりには「刀傷」の跡がある。
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蘇鉄
大正2年12月に勧興小学校は、弘道館跡の北堀端より現在地(当時神野村平島)に移転した。 長い歴史と伝統を持つ北堀端の校舎に名残りを惜しみ先生や児童達は長い行列をつくり県庁通りを通って机や椅子、道具などを運んだ。 この移転の時、弘道館時代から長い間、皆を見守ってきた玄関前の「蘇鉄」も一緒に移された。 200年もの昔から「佐賀七賢人」らや勧興小学校の卒業生を見送った「蘇鉄」は、今も玄関前に立っている。
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道祖神松
道祖神社は金立町字金立(松原)の南金立川の西岸に(国民保険直営所の南より大野原方面に通ずる道路の南側に見ゆる)立つ姿美しき老松のことである。往時肥前を横断し筑前を横断し遠く中央政府のある京都奈良に通する道路の守り神として道路の諸々に祀られてある道祖神を祀った場所に植えられ(又は植え替えられた)松と思わる。 此処には道祖神を祀る祠があった筈と思われる。私の幼少の頃の思い出(此松の程近くに元は小学校があったので此処らにはよく遊んだし、又大正2年から4年間はこの母校に教鞭を取ったことがある)によると、この松樹の根元に1つの自然石が立っていて、この石に文字か絵見たいなものを書いてあったのがおぼろに浮んで来る。 当時までは史実史蹟方面に趣味を持っていて郷土史の研究も少しづつやってはいたが、この方面まで研究して心を留めていなかったことを残念に思われてならない。近年になってから古老に聴いて見ると其処にあった石は川の石橋建設の際川岸深く沈められた様だとのこと、それは何処の川岸かも勿論知らないと、残念なことをしたものだと思われてならない。 兎に角此地は往時の人々が道を守り道を司る道祖神を祀り崇めていたささやかながら1つの神域であったろうことには間違いなかろう。 一説に道祖神松に伝わる巷間の昔語りによると、昔この道路(車道)を通って旅する気品のある(或る家柄の正しい)兄妹があった。ところがこの兄妹がここらあたりにさしかかったとき(昔時はこの道路(車道)の通ずるあたりは松林などの続いた人里離れた淋しい所であった)青春の燃ゆる兄妹これも人の子で思春の悩みを持っていて、兄妹の垣根をこえてはならない事をわきまえ抑えに抑えて来たものであったのが、この淋しい人里離れのこの場が誘い出したのか、妹からその苦悩を訴え兄にこれを満足させて貰うよう迫った。兄は強くこれを戒めたが妹が又も強く熱情をこめて再度要求したので兄も人の子、思春の情高まりおさえる由もなく遂にその情熱のまにまに人倫の大道を破って終った。 ところがそのあと冷静にかえった2人は非常に悩み苦しみ。兄は妹にその誘惑を責め妹の死を決するを見て遂に妹の命を縮めて終い、その骸をこの道祖神のほとりにほうむった。その松に祈りを捧げると男子の陰部の病が治るといって昔はこの老松に七五三縄を張り、夜間人目をしのんで祈っていたとの話である。 このような話は真疑の程はわからないが、道祖神と男子の陰具とがこんがらがって妙な話や妙な事柄があることは世の中に幾らもあることで、愚考すると道祖神を道祖神と言うことから男子の陰具を「さや」と言っていたことから、何時の世か或るこじつけ、或は結付けに興味を持つ人のものしたものから始まったもので、水商売の人がさやを祀る妙な所に持っていったものではあるまいか。……兎に角時を改め研究の要があるものと思わる。
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源蔵松
伝説によれば、秦の徐福は孝霊天皇代、一族数百名をつれ渡来し、有明海の浮盃津に上陸し北行したが、到る処に蘆が茂り湿地が多く布を敷いて進み、今の千布まで進んだとき千反の布を使ったので、千布というようになったという。今千布の北外れに源蔵松と呼ぶ松が生えている。たびたびの災害で植え替えられ今は小さい松であるが、ここは徐福一行が案内役を探し求めたとき野良仕事をしていた百姓源蔵を発見したところといわれている。
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薬師の森
所在する大字薬師丸付近は、昔は江湖が深く入り込んでいて、帆をかけた船がここらまで自由に上下していた。あるとき船中に薬師如来を祀った薬師丸という船が、この森の東北にあたる「はぎや」と呼ばれるところで沈没してしまった。その後、この船の薬師如来を移して祀ったのが薬師の森と言い伝えられている。