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[旧佐賀市][ 樹木・花]は48件登録されています。
旧佐賀市 樹木・花
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高木の大楠(クスノキ)
高木八幡宮境内の楠木で、樹齢は400年以上である。 高さ22m、幹周り5.6m、枝張り22.5mで、平成17年4月21日付け、登録番号0127290番で佐賀県知事から「佐賀県名木・古木」に登録されたことが通知されている。
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高木のムクノキ
高木八幡宮境内のムクノキで、樹齢は450年以上である。 高さ15m、幹周り3.5m、枝張り15.0mで、平成17年4月21日付け、登録番号0191059番で佐賀県知事から「佐賀県名木・古木」に登録されたことが通知されている。
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深町のクスノ木
所有者は八戸区で、クスの木は安房社境内にあり、樹齢約500年以上の巨木である。
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多布施の矢竹の生け垣
「多布施の矢竹の生け垣」は、多布施四丁目中央部の住宅地の中にあり、近くには宗智寺がある。風情のある矢竹の生垣が連なるこの道は、かつて多布施小路(たふせくうじ)と呼ばれていた。この小路は今も周辺の小道とともに落ち着いた居住景観を作り出している。 宗智寺は、かつて藩祖鍋島直茂公が嫡子勝茂公(初代藩主)に家督を譲った後、隠居所を構えた場所で、直茂公は亡くなるまでここをこよなく愛していたと言われている。直茂公もお屋敷を出て、すぐそばのこの小路をよく散歩されたことであろう。 古来、矢竹は弓矢に使用された竹で、これを生垣にした屋敷には武家屋敷が多いが、多布施小路に住んだ古の人達はどんな職業の人達であったかは分かっていない。生垣が作られた年代も分からない。 昭和40年頃は多布施小路には戸数も少なく、良く手入れされた矢竹の生垣が整然と途切れることなく300mも続き、まるで矢竹の回廊の様であった。 今もこの地区はどこか田舎の雰囲気を残しており、小路を歩くと心が安らぐ感じがするところである。 この生垣は、平成18年に第9回佐賀市都市景観賞を受賞した。
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矢竹の生垣
市内の武家屋敷が急激に減少していく中、わずかに残る竹垣は武家屋敷の名残を見出すことができる。佐賀市の景観賞に輝いた「鍋島本村の矢竹の生垣」は、かつて鍋島氏が佐賀の地に下向した際の御館の森近く、付き従った武士の屋敷である。 矢竹の生垣は、武家屋敷の面影を今に残している。この生垣の竹は、食料や弓矢としても用いられたと伝えられている。(「ふるさと佐賀 21世紀に伝えたい、佐賀市の姿」より) 東水ヶ江地区には部分的にではあるが以下の5ヶ所で確認できた。水ヶ江4丁目 高柳家(部分)、同 茂田家(部分)、同 ふさや酒店(部分)、朝日町 牛島家、 同 鳴海家(部分)、 その中でも牛島家は南側の道路に面したところ全面に、良好な状態で残り、手入れも行き届いている。
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牛島天満宮の飛び梅
昭和15年10月23日の佐賀新聞によれば、神埼郡千歳村崎村の出身で東京に住む三浦光二氏が千歳村の庭内に太宰府天満宮の『飛び梅』の芽生を移植した老木があることが判り、その老木の根元からさらに芽生えた梅の木が献木されたとの記事が掲載されている。三浦光二氏の曾祖父に当たる肥前蓮池藩士古賀源太輔は、毎月太宰府天満宮に月参りを続けるうち、当時の宮司小西摂津守と昵懇になり、同神社の御更衣祭に際して、菅公着用の御衣の一片を拝領更に文久3年同神社境内にある安楽寺、司務正別当.延寿王院の法印信全から菅公御尊容にと『飛び梅』の芽生えとともに墨附を拝受されたのである。太宰府天満宮の『飛び梅』は醍醐天皇延喜5年の社殿造宮以来しばしば兵火の難を受け、現存するのはその代樹であるが、奇しくも佐賀県に太宰府天満宮の『飛び梅』の老木が見つかったのである。
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蛎久天満宮の一位樫
根回9米、樹高21m、市内では余り見ない樫の巨木。毎年一定の季節になると、主幹にある多くの空洞にフクロウが棲みつく。
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蛎久天満宮の飛梅
太宰府天満宮の飛梅の苗を移植したと伝えられる2世の梅がある。巨木ではないが由緒深い梅である。
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鍋島の竹垣
永禄年間(1558~1570)山城の領主であった佐々木伊勢守が最初に居を構えた時に、京都より従ってきた一族の屋敷の回りに植えた竹垣である。その竹は特殊の竹で小粒の真っ直ぐな竹の種類で、弓の矢に用いられていた様である。後に移り住んだ本庄館附近にも有るが、現在の鍋島の家の竹垣は県の町並み保存の指定となっている。
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新庄八幡神社のクスノキ
・ 昭和51年佐賀県の名木古木に登録されている ・ 登録時推定樹齢は400年以上 ・ 佐賀県名木古木番号は、01273 ・ 幹周りは、3.9m 樹高は16m ・ 平成18年9月1日佐賀市保存樹に指定されている
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稲荷大明神のムクノキ
・ 昭和51年佐賀県の名木古木に登録されている ・ 登録時推定樹齢は300年以上 ・ 佐賀県名木古木番号は、01694 ・ 幹周りは、3.1m 樹高は20m ・ 平成18年11月1日佐賀市保存樹に指定されている
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蛎久天満宮のムクノキ
・ 昭和51年佐賀県の名木古木に登録されている ・ 登録時推定樹齢は410年以上 ・ 佐賀県名木古木番号は、01695 ・ 幹周りは、3.3m 樹高は20m ・ 平成18年11月1日佐賀市保存樹に指定されている
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誰故草(たれゆえぐさ)
桜の花の咲く頃から、脊振南麓の古生層地帯に、小さなあやめそのままのかわいい薫紫の花が、群をなして咲く。昔は「雛あやめ」「姫あやめ」と呼び、子供が花あそびをしていた。 明治30年(1897)、愛媛県で見付けられ、当時の植物学者牧野富太郎博士によって地名をとって『えひめあやめ』と命名された。ところが既に世界植物学会では洋名の登録があり、日本でも古い地誌(『芸藩通志』(※安芸国広島藩の地誌)及び『西備名区』(※備後地方の郷土史書))に『誰故草』と呼ばれていることを知られ、5年後に『本名を誰故草、一名をえひめあやめ』と訂正発表されて以来、学術書も辞書も「誰故草」で出てくる。 この野生植物はなかなかの気難し屋であるが、一般的に考えられるのは、 1)土質土壌と酸度の関係、 2)土中湿度と排水、 3)気流と極端な気温変化及び雨量、 4)日照方位と植被率の関係、 5)種子の発芽と活着条件、 6)それに盗株防止である。だがその他に、 7)昔のように秣場(採草地)であった頃は数回草刈をし、秋口の草を冬になって野焼きをしていた。 今は、自然保護の名目で葛かやの茂るにまかせていいものか。天童山・日の隈山・大分県の自滅と同じになりはしないか。 1)白絹病などの病害と花昌蒲のような嫌地性対策、 2)水源となる上部の植生品種と腐葉土の厚さ、要求微量要素、 3)共生と単植、 4)結実は虫媒か風媒か、人工交配は必要がないか、 5)移植の時季・踏圧・どろんこ植え、 6)根群の水のうと種まくら、などについての研究は不充分である。 愛媛県・大分県・山口県の一部では、消滅を理由に指定が解除された。日の隈山もそうだが、消滅の要因は何だったのか。県や市の報告書の不備もだが、今後の基本的研究と対策・保存会の実践活動に期待する。 誰ゆへに乱れそめ来し花なれや みちのしりへの里ならなくに 〔広島県西備名区〕
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銀木犀
県道小城・北茂安線の南400mの折地地区(下四)増田樸氏方の庭先きに根廻り2.3m目通しで二枝に分かれ、高さ10m余、樹令300年を越すといわれる名木銀木犀があった。ひひらぎ科、雌雄異株。 夏の日差しがいくらか和らいだと思う頃、どこからともなくいい薫りが漂って来る。春は白木蓮の蕾が、秋には木犀の薫りが古里の四季を教えてくれた。誰かがこの薫りは「極楽の匂い」だよと教えてくれた。秋の彼岸前後だからか、よか人ばっかいの久保泉と言うのだろう。 むかし、馬上のもののふがここを通るとき、いずこからともなく匂って来るこの花の香にしばし駒を止どめ、腰の矢立から筆をとり出し、すらすらと詩歌を書きとめたであろう。「駒止めの銀木犀」とは、よくも名付けた秀句たることよ。 金木犀の花は橙黄色で、いささか強烈な薫だが、銀木犀の花は青白色に近い白色で、和らかくふくいくたる芳香を放つというべきか。 昭和4年、名木として天然記念物に指定された頃は、伊賀屋駅を降りるとその薫に、ああ郷里へ着いたと一安心したもの。傘の形の優美な樹相も想い出される。昭和28年、県の再指定を受けた頃から、北の枝に樹勢の弱まりを感じ、専門委員の関谷・馬場先生を始め、県林業試験場・県林務課・営林署の各専門技師に来て貰い診断をお願いした。白蟻・葉ダニ・白紋パ病・一時冠水等による根群活動の変化、老令化などの意見は出たが決定には至らず、32年枯死。現在小株はあるが残念なことだった。
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県営模範林
川久保藩邑主神代直宝(鍋島直大の従兄)は、明治20年頃山林原野350町歩を川久保村に、明治38年1月山林95町余を佐賀県に寄贈した。貰い受けた佐賀県は、林業の合理的経営のテストケースとして『県営第一模範林』とした。 早速、その年(1905)の3月から、松・檜・杉の植林を始め3ヶ年で造林を完了した。植林後の数ヶ年は地元民の協力によって、下草刈・つる切り・枝打を続け保育して来た。 その甲斐があって、露出した山肌に緑が蘇り、大雨も急に流れ出さず、土砂の崩壊もなくなり、少々の干ばつでも川の水は絶えなくなり、久保泉の水田も潤い作物も多く獲れるようになった。 敗戦(1945年)前後の建築資材不足の頃は、伐期令には少し早かったが3分の2を伐採した。 〔伐期令標準は松35年、檜45年、杉40年が、伐積成長量最大のとき〕 敗戦後の混乱で、新植事業なかばの昭和24年ジェディス台風で伐採地に土石流が生じ、西原西の谷は土砂に埋った。 この頃は、干ばつ・洪水が続き山河は荒れた。 昭和26年に水源かん養兼土砂流出防備保安林に編入され、逐次新植され、また下刈・つる切り・枝打ちが町民によって続けられた。 林道も年々延長され、やがて大小野に通じるようになりそうだし、保安林だから5ha〜3ha以下の小面積皆伐方式がとられ、平成3年の2回の連続台風による倒木を教訓として、林種転換その他根本対策が考えられているようだ。
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宮分の鐘掛松跡
宮分鳥居原集落の北に、土地の人が「鐘掛松」と地名をさしていっている。 今は道筋も、川筋も直線化しているが、元は道路も川も大木の松を中央にして曲っていた。樹齢700年を越すとさえ言われた程で、根廻り6mはある老松。樹姿も美しかった。 敗戦後枯れたが、松食い虫の痕跡は無く、何人もの人が臼を造った。この松は、白鬚明神の神木と言われ、戦時中松根油を掘るときも、神木の名でこれだけは除外された。 この松が「鐘掛松」と呼ばれていたのは、戦国時代戦斗開始を知らせる鐘を吊るし、且つ士気を鼓舞していたという説話による。 また、戦に勝つときは枝が上に栄え、敗け戦の場合は枝が下へ下がると言われ、それだけに対応策を講じたと伝える。そういえば、日支事変から大東亜戦と言っていた頃は、地につく程に枝が下がっていたし、敗色強まった頃から樹勢が衰え、終に枯れてしまった。 徐福が千布に出ないで、ここを通りここで一休みし、山様を調べて登山道を決定し、天神山から水分け、ひどのへのコースを選んだとも伝えられるが、年代が違い過ぎる。
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上和泉の金立森
上和泉集落の東にタカタ山または金立森というのがあって、昔は老松が生い茂っていた。徐福一行はここに来て休んだが、松風の音で夜は眠られず、『波の音聞くまい山の仮り住まい 苦はのがれぬ松風の音』と詠んだという。泊った祠を「元金立社」といい、上和泉上古賀の人達は代々免田(祭田)を持って、年1回の祭りを続けていたという。
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ノウルシ
水辺や湿地に群落をつくるトウダイグサ科の多年草。茎は高さ40~60cm、春に上部の葉が黄色になり、その葉の間に多数の小さなさかずき状の花を咲かせる。茎を折ると出てくる白い液に触るとかぶれるため、「野漆」という名前がつけられた。本州から九州・四国に分布する。 兵庫町では圃場整備による環境の変化や除草剤などに耐えながら自生しているが、環境省及び佐賀県のレッドデータブックにおいて準絶滅危惧(NT)に指定されている。