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[大和町][ 古文書・歴史資料]は9件登録されています。
大和町 古文書・歴史資料
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肥前風土記
前代すでに漢字漢文がわが国に伝来し幾らかの文献ができたが、わが郷土に関する記録は極めて少なく、わずかに肥前風土記があるだけである。 風土記は元明天皇和銅6年(713)諸国に命じてその国名、郡名、郷名、またその郡内に生産する銀銅、彩色、草木禽獣魚虫等の種類名称をくわしく記録し、又その地方の古老が昔から言いつぎ語りついできた古い伝承や変わった事蹟等を集め整理して、これをまとめた書冊にして奉れといっている。当時、62国2島のものが編さんされたはずだが今日まとまって現存するものは、肥前風土記、豊後風土記、常陸風土記、播磨風土記、出雲風土記の5つだけである。このような現状の中で肥前風土記が現在に伝わっていることは非常に貴重なことで、古代における肥前国を知る上に大きな役割を果たしている。この肥前風土記の中から佐賀郡に関係した所をあげてみよう。 佐嘉郡郷六所 里十九 駅一所 寺一所。 昔者、樟の木一株、此の村に生ひたり。幹と技秀高く、茎も繁茂れり。朝日の影には杵島郡の蒲川山を蔽ひ、暮日の影には養父郡の草横山を蔽へり、日本武尊の巡幸したまいし時、樟の茂りたるを御覧して日りたまわく、此の国は栄国と謂うべしと曰りたまいき。因りて栄郡(さかえのこおり)と曰う。後に改めて佐嘉郡と号う。一は云う。郡の西に川あり。名を佐嘉川と曰う。年魚あり。其の源は北の山より出で、南に流れて海に入る。山の川上に荒ぶる神有り。往来の人、半ば生き半殺にき。ここに県主らが祖大荒田、占問いき。時に土蜘妹の大山田女、狭山田女といふものあり。二の女子の云へらく、下田村の土を取りて、人形、馬形を作りて此の神を祭祀らば、必ず応へ和むことあらむとまをしき、即ちそのことばのままに、此の神を祭りしに、神此の祭を受けて、ついに応へ和みき。ここに大荒田云へらく、此の婦はかく実に賢しき女なり。故れ賢女を以て国の名と為むと欲うといいて、因りて賢女郡(さかしめのごおり)と日う。今佐嘉郡と謂うは訛れるなり。 (註) 此の村=鍋島町ではないか。蒲川山=江北町佐留志の堤尾山か。草横山=中原の綾部山を草山といいその辺りを横山という(肥前旧事より) 大山田女、狭山田女は東山田又は西山田に関係があろう。下田=梅野下田 このように、佐嘉郡の名称といわれをそれぞれ二説で表わしている。肥前国における原始時代、大化前代の神々については風土記によって幾らか伺い知る事が出来る。往来の旅人を多く殺したという伝承が見えるが、県主の先祖大荒田が土蜘妹の大山田女、狭山田女という巫女(神のお告げをする女)に占わせて神意を聞き、「いけにえ」の代りに人形、馬形を造って祀りしずめている。このような荒ぶる神は当時の世の乱れを表わすもので、大和朝廷の統一が進むに従って交通路も新しく開かれ、交易、貢納のため旅人の往来も安全になり、従来のとざされた地方神が屈服して行く有様を物語ったものであろう。風土記はその内容に郷里制が見られるところから、郷里制が施行されていた霊亀元年(715)天平11、2年(739-740)までの間に作られたものであろう。
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葉隠とその教え
葉隠は葉隠聞書ともいう。佐賀藩士山本常朝は2代藩主鍋島光茂が死んだので武士を捨てて髪をおろし金立の黒土原に閑居していたが、同じく光茂に仕えていた御書物役を勤めていた田代陣基も御役御免の身となった。この陣基が常朝を黒土原の草庵に訪ねたのが宝永7年(1710)の3月で、それから享保元年(1716)まで前後7年間にわたり常朝の談話や常朝自筆の「山本神右衛門清明年譜」「山本神右衛門重澄年譜」「愚見集」「常朝書置」等を参考にして全11巻にまとめたものである。この葉隠聞書の内容は佐賀藩の伝統的精神に基づく教訓や藩祖直茂、初代勝茂、勝茂の子忠直、2代光茂、3代綱茂らの言行が前半で述べられ、後半に佐賀藩士達の逸話や史跡・伝説等を集めて述べている。それも名前まであげたのが多いこともあるし、「他見の末にては遺恨悪事にもなるべく候間、堅く火中仕るべき由、かえすがえすも御中候也」と、焼き捨てることを命じている。したがって葉隠11巻は秘本であり、佐賀藩士の間にはこっそり写されて読まれていて、出版されて広く世人に読まれる書でもなく、常朝自身も堅く焼き捨てるように、弟子の陣基に厳命しているのである。そこで藩校の弘道館でもついに教科書として用いられるに至らなかったという。 常朝は湛然和尚、石田一鼎から教えを受けており、この湛然、一鼎、常朝、陣基を「葉隠の四哲」と呼んでいる。この葉隠では武士道を説いたところがよく知られているが、その中心的な考え方は四誓願というもので代表されているといってもよい。四誓願というのは 一、武士道においておくれ取り申すまじき事 一、主君の御用に立つべき事 一、親に孝行仕るべき事 一、大慈悲を起し、人の為になるべき事 というのである。葉隠の第十一に「すべての人の為になるは我が仕事と知られざる様に、主君へは陰の奉公が真なり………陰徳を心がけ陽報を存ずまじきなり」とあるように、陰の奉公隠徳を重んじ、いやしくも自分の功績を現わすことを競うようなことがあってはならないという意味で葉隠という書名を付けたともいわれ、又田代陣基が山本常朝をたずねたこの地方には「葉がくし」という柿が多くあるところから、この柿の葉隠れに語ったためという説もある。更に前述したようにこの葉隠は「追って火中すべし」とあることから、広く世人に読ませる書ではなかったので「葉隠」というともいわれている。 この書は全11巻、1358節から成り、総論として「夜陰の閑談」があり、次に直茂・勝茂の言行が第3巻より第5巻までの大部分を占め、第6巻より第11巻までは藩士の言行を主として取り上げている。葉隠の根本精神は総論に述べている四誓願であるが、これは石田一鼎の「武士道要鑑抄」の三誓願にならったものと考えられ、この三誓願に慈悲の心を加えて一つのまとまりを付けているものである。 この慈悲の心は恩師湛然和尚の教えによるもので、武士は勇気ばかりでなく、慈悲の心が必要であると説かれていたためと思われる。葉隠の談話はほとんどが四誓願の武勇、忠義、孝行、慈悲であるが、最も強く述べているのは藩主に対する忠義である。 「我が身を主君に奉り、速に死に切って幽霊になりて、二六時中主君の御事を歎き、無理無体に奉行に好き、無二無三に主人を大切に思へば、それにて済むことなり」 「御主人より懇ろに召し使はれ候時、する奉公は奉公にてなし、御情なく無理千万になさる時、する奉公が奉公」 というような献身的忠節であり、 「武士道とは死狂ひなり…………本気にて大業ならず、気違ひになりて死狂ひするまでなり 「刀を打折れば手にて仕合ひ、手を打落さるれば肩節にてほぐり倒し、肩切離さるれば口にて首の十や十五は喰い切り申すべく候」 とあり、烈々たる気魄のある武士道であるということができる。 わが郷土大和町はこの葉隠に関係した史蹟が多く散在しており、又内容的にも郷土に関係したものが見られる。
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大和町関係の古絵図
江戸時代に入って急速に発達したものの1つに地図がある。一国全域を地図化したものに国絵図があり、村ごとに作られた村絵図、町を示した町絵図等がある。その外多様な絵図が残されているが、江戸時代の絵図は今日とやや異なり絵画的要素を多分に含んだ地図である。 佐賀県立図書館にはこれら各種の古絵図が所蔵されているが、これらの古絵図の中で大和町関係のものは次のとおりである。 国分村絵図、国分寺南方羽巣輪一帯、福島村(天明6年)、川上宿一帯(天明5年)、東山田(天明5年)、淀姫社北方(天明5年)、大願寺(天明5年)2枚、横馬場(天明5年)、今山(仝前)、都渡城(天明6年)、下田一帯(仝前)、有木広坂(仝前)井手原(仝前)、三反田(仝前)、名尾四十坊(仝前) 又この村絵図には一々作製上その他についての説明がつけられている。この絵図を作ったものの道路や堀、屋敷等は異動があるので時々増補するようなど細かい配慮をしている。後に掲げた当町の村絵図は、例えば立石から川上に至るほぼ一直線の道路は、河上神社の参道であったため、他の道路よりも道幅も広く、道の両側には杉の並木が描かれその間に松が点々と描かれている。ここを年2回の祭礼の時は松明をともした御輿が夜中に下り、平野の下の宮から翌々日の昼河上神社へ帰った様子が想像される。又有木から広坂へは今の川沿いの道はなく山麓を通って筑前や唐津等へ往復したのである。
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揚心流捕手目録
長い巻物に墨で鮮やかに図を入れて揚心流の基本型を示した免許状で、これは万治3(1660)年6月28日付である。昔の慣例によると、こうした免許皆伝はいわゆる自分の嗣子か愛弟子の中の1人にしかやらなかったものである。最後にこの揚心流の禁制として五ヵ条をあげているが、この五ヵ条に背く時は摩利支尊天の罰を受けると戒めている。 摩利支尊天は印度の神で、火星の女神をいい、国を護り兵戈を救う大力があるというので、武士や力士等の守り神であったという。 これを納めてある箱は嘉永元年(1848)で、この目録より後に作ったものである。
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山伏棒術免状
横馬場の宮副 茂氏所蔵のもので、享和2年(1802)3月吉日の日付けがある。山伏独特の棒術の免状で図入りの基本型を示している。又棒の持ち方、棒の下ろし方、棒仕合のことや「殺之伝」という項の「月影」、「村雨」、「水月」等いずれも「口伝」となっており極秘のもののようである。免状の文中に 「あぢきなや 山路をたどり 行時は 瀬の鳴音を 道づれにせよ」 と和歌によって秘伝を伝えるなど、まことに奥床しいものである。
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真乱流兵法序
久留間の橋本嘉宣氏所蔵のもので、柔術の奥義を伝える「秘伝」のようである。これは明治22年(1889)3月10日の日付けがある。橋本家の先祖は代々こうした武術のほまれ高く、江戸時代には小城藩の指南を勤めていたらしく、橋本両家の庭にはそれぞれ大きな記念碑が建てられている。 この巻物の終わりの方に「右は伝来の秘事をくわしく伝授した。例え親子兄弟であってもみだりに見せたり話してはならぬ」と戒めてある。
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長崎港の絵図
横馬場地区に代々区長が保管することになっている長崎港の絵図がある。彩色を施した大きなもので長崎港警備藩の配置や港内の水深まで示した詳細なもので、その箱には佐嘉郡佐保川島郷とあり、絵図の内容等から推定して、寛政年間以前のもののようである。 川上村時代の2代村長 岡 太一が村長になる以前長崎に在住し、帰郷する際持ち帰ったものと伝えられている。
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国分忠俊書状
朽井村地頭国分忠俊が田畑山野を尊光寺に寄進するという書状で文永8年(1271)のものである。
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300年続く祭りの記録
川上地区に寛文5年(1665)「肥前国第一宮河上淀姫大明神假(仮)祭帳事九月二十五日」という淀姫社例祭に関する記録綴りと、明和7年(1770)の同様な記録綴りが残されている。 いずれも和紙に毛筆で記録され、紙面は変色しているが、明和のものより100年も古い寛文の方の綴りが破損も軽く、文字も容易に読みとることができる。内容は淀姫社假祭りの「仕様定書」が書かれ、祭りの様式・準備・供物の種類と数量・食事の内容等が定められている。祭主(施主人)を当時「注連本」といっていたようで、これは1年ごとの順番制になっている。この記録は現在もなお受け継がれており、浮立・神楽などは中止されているが、会食の内容、会計等は明らかにされている。300年間の庶民の生活史として貴重な資料である。 (記録の一部) 注連本草富忠左衛門尉前二而改之 寛文五年乙己九月廿五日 一、下田弐畝 右田天明七未年芹田喜平次同萬十奉寄附之畢 一、浮立鉦弐挺 右者安政三丙辰十一月御祭二付 従副島萬兵衛同萬九郎奉寄附 (吉富の副島万氏の祖父)