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[物語・いわれ][地名・とおり名][本庄校区]は12件登録されています。
物語・いわれ 地名・とおり名 本庄校区
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本庄の地名の起源
平安時代になると土地所有の仕組みがゆるみ、有力貴族や寺社が土地を所有するようになり、荘園制度が発達した。平安時代後期になると佐賀地方でも与賀荘を含む多くの荘園が設定された。 与賀荘は、建長2年(1250)には与賀町からその南部に存在していたことが史料(『東福寺文書(京都)』)などで確認されている。正応5年(1292)の史料(『河上神社文書(大和町)』)には、与賀本荘120丁、与賀新荘600丁との記載がある。 建長2年以降与賀荘に近接してできた荘園を与賀新荘(鍋島町新庄一帯)と呼び、もともとの与賀荘を与賀本荘としたことが分かる。この与賀本荘から「本荘」を地名にしたことが考えられる。荘園の名残りの地名と言える。 明治22年(1889)の市制・町村制施行に伴い、村名を「本荘」から「本庄村」と公示したことから「本庄」が用いられるようになった。
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本庄町の変遷
本庄町の藩政時代は、本庄東西を本荘郷とし、末次東西、鹿子、上飯盛を与賀上郷と称し、六庄屋を配し、六郷蔵一社倉を置いていたが、明治維新の際に、川副郷の一部であった袋村を編入し四十大区三小区と称した。また本庄村外三ケ村戸長区域としていたが、明治22年市制・町村制実施の際、厘外村の一部であった正里村を編入し、上飯盛の一部を西与賀村に割き、また、鬼丸、田端、大崎等の転在地を佐賀市に譲り、面積は約6.8k㎡となった。 藩政時代は藩の直轄で、庄屋、村役、咾、吟味人、散使(さじ)等をもって一つの村の行政を形作り、筆者をもって、名寄帳の整理をさせていた。 また人、馬の数により年貢を納めさせ、郷蔵を置き腐敗苗に備え、御囲苗(オカコイナエ)を播き、斃馬のためには、馬拝借(金員)を下賜し、雇人取締のためには小頭を置き、農家のため保護をした。 維新後は大区、小区となり、区長の下に副区長を置き、また小区ごとに戸長を置く制度となり、その後村長となる。 また納税は金納となり、戸長においてすべての収支を司どる。
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西川内地名の由来
西川路(地)と書かれていたが、神戸の湊川神社より30年も早く梅林庵に楠公を祀ったので、その生地、河内国にちなんで西河内と改められ、その後西川内になる。
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灰塚の起源
永享3年(1431)将軍足利義教の時、防州の大内徳雄(盛見)が筑後に進出し、立花城(柳川)を攻める。城主はこれを幕府に訴えた。徳雄は追われ、肥前に逃れて来たのを少貳資嗣が佐賀城に迎え戦った。徳雄は飯盛城(上飯盛常照院付近)に籠る。少貳資嗣は龍造寺家氏の部下、鹿江遠江守と謀り、西の飯盛城を夜討ちした。その結果、大内徳雄は飯盛の西方から上松浦を経て、筑前へ逃れた。その時西与賀高太郎の高太郎丸、小太郎丸の両名が戦って、功名をたてた(西与賀高太郎に両者の屋形跡あり)。この戦いで大内軍は唐菱錦旗を捨てて逃げたので、その旗を観音寺に納め、大内籏山と称えるようになった。 また激戦のあとの死骸、槍、鎧等は集め焼き灰は盛り塚を築き葬ったので、地名を灰塚と称するようになる。 「西肥古蹟詠曰」 十萬精兵待指麾 六州茅土入封時 英雄の末路何堪説 蕭寺空餘大内簱 あわれをば 塚にとどめて 野里なる 寺にも 旗の 名を残しけり
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袋地名考
大字袋は、水ヶ江町慶雲院より流れる水を四囲に井堰を築き袋の如く溜めて、灌漑用水となしたので、その様をみて「袋」といった説と、袋区がもと川副上郷の内八田江が蛇行して袋状をなしていた地形から付けられたとも言う。 袋村は、もともと川副上郷の内であったが、明治22年に本庄村に編入された。 袋に曹洞宗の古刹寒若寺がある。「酒袋山」を山号としている。寺の隣り合わせに、袋天満宮が遷座している。この宮の由緒によると「酒袋」を氏とした、惣兵衛、晋太郎、新七郎が宮住まいで居たことが記してある。酒袋山、酒袋氏いずれも「袋」の文字があり、地名に関することが感じられる。 また、寒若寺に地名起源の物証となる史料が所蔵されている。次に掲げる。 ○開基の位牌 當寺開基 前遠州太守詣阿大禅定門 尊霊 應長元 辛亥 年(1311) 五月三日 北条遠江守 平朝臣 時政公現住 徳雲叟營建立 ○鰐口(刻銘の一部) 慶長十九年 甲○(1614) 十一月吉日 肥前 佐賀 河副 酒袋村 薬師御寶殿 ○半鐘(刻銘の一部) 九州肥前國 佐賀郡河副庄 上江袋村 酒袋山 寒若寺奉掛 享保十九 甲寅 歳(1734) 十二月吉日 [註]享保十九年に「酒袋山 寒若」と後刻。また、「寛文三 癸卯(1663)」を「享保十九 甲寅」と後刻。 半鐘は肥前の鋳物師・植木の鋳造。現在は小城市牛津町の寺院に保存されている。(『肥前の鋳工』中村 勲から) 以上の史料から、「酒袋山」、「酒袋村」、「上江袋村」など刻名が確認され、これから後世になって「袋」だけをとって地名に用いられたことが考察できる。
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元船津
大字末次字八田は文化14年(1817)の郷村帳に末次東分村(中島、西八田、末次本村)と記されている。 八田江は佐賀藩当時の重要水路で船舶の出入が頻繁で八田井樋尻(現在の八田橋附近)にはいつも帆柱が林立していたので、「元船津」(船の碇泊する所)と名付ける。 八田江畔の堤塘には、御船屋跡が八田江改良工事前まで残っていたが現存せず。 八田区南が当時の船着場で、ここを中心に西川副南里の正定寺と鹿子の慶誾寺を結ぶ東西の道路は歴代藩主が両寺の参詣に利用されたので「お殿さんみち」という。
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末次の起源
近衛天皇(第76代)の久寿元年(1154)鎮西八郎爲朝が九州で猛威をふるっているとの知らせにより、鎮西の監視役に5名が派遣されてきた。その内の一人である藤原秀郷の孫季清左衛門尉は佐賀に来て龍造寺村に館を構えた。(一説には藤原季清は、仁平元年(1151)杵島郡黒髪山の大蛇退治で名高い、源爲朝に従って肥前に下向し、のちに小津郷龍造寺村に住んだとある。) 季清の第5子季慶(季喜)は父の職を継いで佐賀において、小津の東郷槇村(今の市内水ヶ江)を賜る。季慶には子が無かったので、高木(高木瀬の内)の城主藤原季綱(季慶の母の兄弟)の次男季家(南二郎)を養子とした。 文治2年(1186)9月27日源頼朝より龍造寺村の地頭職に任ぜられ、京都護衛の任を兼掌したが、この時季家は龍造寺とその氏を改めた。 季慶の弟季次は戦功によって、佐嘉郡小津郷(与賀上郷)の地頭職に補せられ、名を「末次」と改める。 末次から八田間に「杵ケ崎の薮」と呼ばれる所が藤原季次の旧城(館)跡である。
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寺家の起源
第54代仁明天皇(834〜)の御孫常康親王の御子空也上人は九品念佛宗の宗祖である。村上天皇の天暦5年(951)京都平安城内は熱病に襲われて多数の死者が出た。これを見て、空也上人は十一面観音を自作して、茶を煎じてこれを観音さんに供え、患者に与えたら病気は悉く癒えた。これに感激していた平貞盛は、空也上人の弟子となり修行した。貞盛の子孫中尾甚左衛門は一族9名を伴い龍造寺2代の祖藤原季喜公が九州下向の際随行し、佐賀に来て、末次村に居住す。また季喜公は中尾一門の為にここに光明寺を建立し、空也上人自作の十一面観音を本尊として、六波羅蜜寺の末寺と定められる。(光明寺跡は緑ヶ丘の東側。)これが佐賀における同宗の始りという。(寺号を畳山光明寺と言う。) これより寺家と地名を言う。寺家一門は和讃念仏を怠らず、ことに由緒ある茶筅の製作分配をなした。また龍造寺家、鍋島家に仕えて功績があった。
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米蔵古賀村
正保(1644〜1647)・元禄(1688〜1703)年間の絵図には、米蔵古賀村の村名が記されている。 文化14年(1817)の郷村帳によれば上飯盛村に属している。天保年間の絵図によれば、二本柳八角に「三蔵天神」が祀られていた。この地に藩政時代には三つの米蔵が建っていたそうで、現在は田圃になりその面影もないが、時々瓦等が出土するそうである。 「米蔵古賀」という地名はこれより言われたものであろう。
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上飯盛地名の由来
江戸期の村名は「かみいさかえ」「かみいさかり」とも言う。佐賀本藩領。与賀上郷に属す。村高は『天明村々目録』によれば、1.175石余とある。 『天明郷村帳』では、小村に米蔵古賀・夜尺・田中がある。上飯盛一帯は鎌倉期頃の海岸線で、飯盛の字は、飯を盛るという意義で、現在の東与賀の大野・住吉・新村等の干拓の際に、新地方の役所を置き、飯の炊出方をなし、これを盛って公役の人夫に配ったので「飯盛」と呼ぶようになった。 現在の与賀高等小学校跡がその地である。
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正里の地名考
正里は始め新村と呼んでいた。元亀元年(1570)8月19日鍋島直茂が川上村(現大和町)今山における大友八郎軍本陣へ夜襲の際、新村から農民が鍋島勢に加担し大勝利をおさめたので地名を「勝利」と称していたが、何時の頃からか、年貢取立帳等に「正里」と書き損じたのを踏襲したといわれている。現在も正里と称している。 明治22年市制・町村制実施の際に厘外村の一部であった正里を本庄村に編入した。 永享3年(1431)6月24日大内盛見(徳雄)が大軍を率いて佐賀の鹿子の塁を攻めてきたが、少貳満貞、資嗣等力を併せてこれを防ぎ、盛見は鹿子において敗れ、松浦へ敗走し、遂に糸島郡深江において敗死した。 正里(勝利)、灰塚等の地名は、この戦いにおいて起ったと言う。
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本庄町地域の平野の成り立ち
弥生時代中期(約2,000年前頃)の有明海の海岸線は、佐賀市街を東・西に貫通している国道264号(通称・貫通道路)の線とされている。この付近は、海抜4m(当時の暴潮位)で、この頃の人々の居住圏の南限といわれている。それ以降、河川などの営力によって自然陸化の平野が南部に進展し、開墾が始められた。鎌倉時代(1200~1338)には、川副町南里~本庄町上飯盛~嘉瀬町中原を結ぶ線(海抜3m・大潮平均高潮位)が海岸線で、ここまで自然陸化が促進された。この線が、開墾から干拓に移る漸位線に位置付けられ、これから以南(東与賀町)は、人工的干拓によってさらに平野が進展している。 このような平野の進展から見ると、本庄町地域は、弥生時代中期から鎌倉時代にかけて自然陸化により立地した平野と言える。『慶長年中肥前国絵図』(1596~1614)には、本庄、鹿子、末次、袋、里(厘)外、(上)飯盛が表示され、石高が記してある。これから集落の成立を知ることができる。