本庄町地域の平野の成り立ち

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本庄町地域の平野の成り立ち

■所在地佐賀市本庄町
■登録ID870

弥生時代中期(約2,000年前頃)の有明海の海岸線は、佐賀市街を東・西に貫通している国道264号(通称・貫通道路)の線とされている。この付近は、海抜4m(当時の暴潮位)で、この頃の人々の居住圏の南限といわれている。それ以降、河川などの営力によって自然陸化の平野が南部に進展し、開墾が始められた。鎌倉時代(1200~1338)には、川副町南里~本庄町上飯盛~嘉瀬町中原を結ぶ線(海抜3m・大潮平均高潮位)が海岸線で、ここまで自然陸化が促進された。この線が、開墾から干拓に移る漸位線に位置付けられ、これから以南(東与賀町)は、人工的干拓によってさらに平野が進展している。
このような平野の進展から見ると、本庄町地域は、弥生時代中期から鎌倉時代にかけて自然陸化により立地した平野と言える。『慶長年中肥前国絵図』(1596~1614)には、本庄、鹿子、末次、袋、里(厘)外、(上)飯盛が表示され、石高が記してある。これから集落の成立を知ることができる。

出典:佐賀市史地理的環境