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[物語・いわれ][地名・とおり名][巨勢校区]は6件登録されています。
物語・いわれ 地名・とおり名 巨勢校区
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長崎街道跡
江戸時代の地図でみると当時の橋は今の構口橋のやや南に架かり街道は川に沿って南に下り構口公民館の横を通り丸中木材市場の南を回り九州恵商会の南を経て五叉路に出て牛島宿の旧道につないでいた。 今は構口公民館で消えている。
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東西の「蔵福坊」
田原伊勢守尚明は大友宗麟の家臣であったが、今山の戦いの際、宗麟に諫言したが用いられず怒りにふれ浪人となった。そこで、龍造寺に降り、佐賀東西に領地を受け住むことになった。その長男は感ずるところがあって、修験者となり蔵福坊と称した。以後、天正7年には熊野権現社を同地に勧請し、氏名を代々世襲にし、明治20年ごろまで祈祷を続けていた。 蔵福坊の祈祷所は東西にあったが、勧請した熊野権現は現在、権現堂の修理田神社となり、境内には巨楠、老松あり、いかにも往時を物語っている。東分下を権現堂と呼ぶのはこの堂に由来する。また、この辺りを千本山というがそれは田原家調練所跡と伝えられている。 現在長江寺横、東西稲荷神社前に建っている鳥居は、明治時代まで蔵福坊御坊397番地に建っていたものと言われ、「東西村高平山、保食社蔵福坊良政貞亨四年」と刻まれている。徳川綱吉の生類憐みの令が、出された年に作ったもので、歳福坊が専心郷土の五穀豊穣を祈願したものと思われる。この一大勢力を保持した蔵福坊も時代の流れには抗することができず、いつしか彦山権現に移ってしまった。
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東分の「雪隠角」と「柳原の裏門」
修理田311番地、現在の東島部落の東南、長崎街道筋にあって旧藩時代上使上下向の際、あるいは、佐嘉城入城前不浄のため、また任務終了後の帰途、身を整えるため大小便をした。「雪隠角」とはその公衆便所があった一角と言われている。 なお、その西南の土橋を「柳原の裏門」という。昔、ここに大庄屋が住んでいて、その大邸宅の裏門があったとも、上納米を蓄える郷倉があって門番がいたその東門の一の橋を裏門といったとも言われている。
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高尾の「堂屋敷」「八幡屋敷」
学校から西方約200mの地点で堀で囲まれた約5.500㎡を高尾堂屋敷という。また、池田氏宅堀南を八幡屋敷という。現在水田や住宅地で何の変哲もないが、藩政時代は佐賀の東の入口で、一大要害所であった。ここに城郭があって竈王院などもその城郭の一角であったと言われる。(明治24〜5年までは小笹や松が生い茂り荒蕪地であった)また、その西には「藤棚があり江戸への参勤交代の際の送迎の地であった。なお、その辺りには慰安所が置かれ、昭和の初めまで名残りを留めていた。
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高平と「長専寺」「高平寺」
修理田451番地の堀に囲まれた一角を長専屋敷と呼ぶ。ここには昔「長専寺」という一大寺院があったと言われる。その東北の角には大正時代まで1本の巨楠と薬師堂があった。今は「ヤクシドウ」という地名として名残りを留めている。またその南を「サラマチ」、西南を「寺町」と呼び、竹薮からは墓石が発見される。 なお、この地は古文書によれば「古溝が里」と記され、今宿江と巨勢川の合流地であり、佐賀東の入口として重要な船運の地であり、交通運輸の中心地であった。 長専寺の北には高平寺があり、いつの時代からか一帯を「高平」と呼ぶようになった。高平寺は大友宗麟の佐嘉城包囲の際焼失したと伝えられる。 現在の巨勢町の中心地、高尾・平尾などは後年開けたので高平の尻尾の意味だともいわれ、昔の高平とは現在の西分・東分下・東分上を称した。
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高尾宿
長崎街道は構口より丸中市場の南を通り、牛島宿の五叉路にでて旧道をとおり高尾宿の旧道をぬけ、東で南に折れ、公民館前に出た。また、寛政元年の巡見録によると当時の人数550人、戸数は、100軒ほどと書かれており、郷村帳には宿、南小路、中小路、井手小路、竈王院小路などの集落が書かれている。この宿が高尾宿で他は高尾小路である。 また、菱屋平七の筑紫紀行には「7、8町いけば人家100軒あまり、茶屋多し」と書かれ、高札といって、宿屋をおかない、小店並ぶ宿場町であったそうである。 このように、長崎街道と巨勢川の交差点で恵まれた場所で、高尾宿公民館付近は佐賀藩の年貢米の倉庫があって、ここをお倉浜といって「津出し浜だし」といい、高尾津より米の積出しが行われ、牛島宿には、「高尾市場」と呼ばれる農作物の市が開かれ、物資の集散地として栄えた。 昭和初期までは、魚屋、八百屋、酒屋、豆腐屋、菓子屋、床屋、荒物屋、畳屋、仕出し屋、自転車屋、醤油屋、肉屋、飲食店、粉ひき屋、煙草屋、製麺屋、精米所、小菓子屋が軒を並べ、それに酌婦を置く遊里が5軒ぐらいあって、さらに、高尾宿の公民館前の倉庫は巨勢町の役場があり、駐在所、病院もあって巨勢町の中心で人通りも多くつねに賑やかであった。 しかし、南に新しい道が出来て、店なども他に移り、ぽつぽつと空地もできて次第にさびれていった。