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[人物][人物][循誘校区]は3件登録されています。
人物 人物 循誘校区
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下村辰右衛門
東京・新橋を走った東京鉄道馬車が、電車になるため、「不用になる客車やレールを使って、佐賀県内にも馬車鉄道を敷いたらどうか」、という話が出てきた。当時東京鉄道馬車の社長が、佐賀市出身の牟田口元学(貴族院議員、中央製糖、石狩石炭取締役その他)だったので大隈重信を介して、在京中の藤津郡出身の代議士永田佐治郎へ伝えられた。永田佐治郎は、この話しを聞いて鹿島の実業家牟田萬次郎氏(22歳で県会議員、佐賀米穀取引所開設発起人、広滝水力電気会社事業着手等)へ話しをした。佐賀市と鹿島市の実業家は早速賛成し、鹿島側は永田佐治郎を代表に佐賀側は実業家の下村辰右衛門を代表に交渉を進めた。この交渉が成立し、佐賀馬車鉄道、通称「馬鉄」が明治37年2月18日明治橋から佐賀市諸富町まで開通した。その後県庁前、御幸橋、佐賀駅まで延長されて、昭和3年まで佐賀市民に親しまれ運行された。下村辰右衛門は、佐賀市牛島町(現在東佐賀町)思案橋側で酒造屋を営んでいた。校区出身の国会議員は、現在までこの人一人である。 構口にある二十三夜尊設立に寄付されたことが石造物に記載されていて当時の面影を偲ぶことができる。また、神埼郡千代田町の『次郎物語』で有名な下村湖人の養父に当たるともいわれているようである。
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島本良順
代々漢方医の家に生れ蓮池町に開業、寛政年間(1789年〜1801年)長崎にて蘭学を学び、佐賀に帰り(1804年〜1818年)蘭方医の看板を掲げ、一方では門弟に講義を始めた。文政5年(1822年)執行勘造(後の伊東玄朴)が長崎から帰った良順へ入門した。門弟には伊東玄朴をはじめ、金武良哲、大庭雪齊など多数の入門者があった。天保5年(1834年)佐賀藩医学寮が八幡小路に設けられ、最初は漢方を教えていたが良順が寮監となって初めて蘭学が加えられた。こののち鍋島直正の時初めて種痘が実施された。因みに安政5年(1858年)今の片田江に医学寮が移ったが、現在の好生館の始まりである。島本良順は人柄、学力ともに認められ蓮池藩の侍医に抜擢された。晩年は寂しく、報いられることなく嘉永元年(1848年)11月13日に病没し、呉服元町光明寺に葬られたが、のちに柳町専福寺に改葬された。
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中牟田倉之助
1837.2.24~1916.3.30(天保8~大正5年) 海軍中将、子爵。佐賀城下蓮池町(旧佐賀市千代町)に生まれる。父は佐賀藩士金丸文雅、母は中牟田氏。後、母方の姓を称す。明治期の帝国海軍の創設確立に貢献。二十歳のとき藩命で長崎海軍伝習所に学ぶ。卒業後帰藩し、海軍方助役となり三重津御船手稽古所の教官として、藩の海軍創設に尽力した。さらに軍艦操練や英学を修む。戊辰戦争の際に海軍先鋒隊が編成されたとき、藩の軍艦孟春丸船将として官軍に従軍。次いで秋田藩の陽春丸船将として奥羽沿岸に転戦し、1869年(明治2)函館の役には朝陽丸艦長として奮戦。朝陽は旧幕艦蟠龍の砲弾のため爆沈し、九死に一生を得た。1870年兵部省に奉職。普(ドイツ)仏戦争の勃発に際し政府は局外中立を宣言し、函館、横浜、長崎に艦隊を配備すると長崎小艦隊指揮に任じられ、海軍中佐に昇進。1871年海軍大佐兼兵学寮兵学権頭に任じられ、次いで海軍少将兵学頭となる。1875年江華島事件が発生した時、西部指揮官を拝命、朝鮮に出動し在留邦人の保護に当たる。さらに海軍省副官兼海軍兵学校長、横須賀造船所長を経て、1878年中将に進み、東海鎮守府長官を務む。1886年横須賀鎮守府司令長官、1892年には海軍大学校長兼海軍参謀部長、翌年に初代海軍軍令部長、翌々年に枢密院顧問官。八十歳で没した。→三重津海軍所→長崎海軍伝習所→孟春丸