下村辰右衛門

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下村辰右衛門

■所在地佐賀市
■登録ID2558

東京・新橋を走った東京鉄道馬車が、電車になるため、「不用になる客車やレールを使って、佐賀県内にも馬車鉄道を敷いたらどうか」、という話が出てきた。当時東京鉄道馬車の社長が、佐賀市出身の牟田口元学(貴族院議員、中央製糖、石狩石炭取締役その他)だったので大隈重信を介して、在京中の藤津郡出身の代議士永田佐治郎へ伝えられた。永田佐治郎は、この話しを聞いて鹿島の実業家牟田萬次郎氏(22歳で県会議員、佐賀米穀取引所開設発起人、広滝水力電気会社事業着手等)へ話しをした。佐賀市と鹿島市の実業家は早速賛成し、鹿島側は永田佐治郎を代表に佐賀側は実業家の下村辰右衛門を代表に交渉を進めた。この交渉が成立し、佐賀馬車鉄道、通称「馬鉄」が明治37年2月18日明治橋から佐賀市諸富町まで開通した。その後県庁前、御幸橋、佐賀駅まで延長されて、昭和3年まで佐賀市民に親しまれ運行された。下村辰右衛門は、佐賀市牛島町(現在東佐賀町)思案橋側で酒造屋を営んでいた。校区出身の国会議員は、現在までこの人一人である。
構口にある二十三夜尊設立に寄付されたことが石造物に記載されていて当時の面影を偲ぶことができる。また、神埼郡千代田町の『次郎物語』で有名な下村湖人の養父に当たるともいわれているようである。

出典:ふるさと循誘(P.19)、国史大辞典(P.625)