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[自然][河川・水路][本庄校区]は5件登録されています。
自然 河川・水路 本庄校区
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本庄町地域の主要な河川
本庄町地域が、陸化し平野地として成立すると、干潟の時の澪(みお)筋が江湖または江と呼ばれる平野に源流をもつ(上流を海抜4m)感潮河川が生成された。これが町中央部を南流していた小津江であり、東部を流れる八田江(古江湖川)であった。今は、僅かに旧江湖筋の名残りを留めるのみとなっているが、これら旧河道が主要水系となっている。 また、山地に源流をもつ河川(嘉瀬川〜多布施〜天祐寺川)の末流・萵苣木川が、町西部を南流している。この3河川が、本庄町地域の往時の主要河川で地域の生業、農業に大きな役割を果たし続けてきた。今では水系の改編・改良で整備が図られているが、本庄町地域の主要河川に変わりはない。
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本庄町地域のクリーク網
堀は、クリークとか溝渠ともよばれ、灌漑排水、生活用水、たんぱく源供給など農・漁業、日常生活に重要な役割を果たしてきた。本庄町地域内も縦横無尽、網の目のように張り巡らされていた。域内のクリークには自然的成因である、干潟時代の澪(江湖)及びその支流や旧河道が堀、いわゆる自然堀(江湖堀)として遺存するもの。また、灌漑排水用として設けられたもの、集落形成や宅地造成用の土取りとして掘削されたもの、人為的成因のものがあった。南北方向の堀が導水的機能をもち、東西方向の堀が貯水的機能をもっていた。およそ海抜4m線あたりが多布施川末流と江上流との結接点となっている。これによって多布施川水系からの淡水がひかれ、灌漑・生活用水が維持されてきた。 本庄町地域の水田面積に対する用水堀の占める面積の割合は、水田面積479町に対し用水堀面積は49.8町で10.4%となっていた。(『佐賀平野における農業水利事業の沿革』による。)その様相は、本庄村当時の『本庄村水路要図』(古野尚司元本庄公民館長作成)で窺うことができる。今日では、往時の河川・水路の状態が圃場整備事業や宅地造成等の開発で大きく変化している。
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大井手幹線下流部〜萵苣木川
多布施川の分流・天祐寺川が南流、天祐、中折、長瀬町を経て、ここから(六長橋)厘外、西与賀方面の天祐寺線と本庄、東与賀方面への大井手幹線水路(下流)とに分かれる。大井手幹線は、道祖元町を過ぎ本庄町東・西寺小路の間を南流。溝口に入り、ここで高傳寺川に分水、また、溝口集落東、水田地帯の堀に分水する。さらに正里、上飯盛を経て東与賀町に流下し、南部水田地帯の農業用幹線三面水路となっている。 以前は、本庄区間の、川の土手には萵苣木が植えられ、並木をなしていたので、萵苣木川、萵苣木堤(デー)と呼ばれていた。この川に由緒のある橋名の「法無乱橋」、「萵苣木橋」、「周防殿橋」などが架けられている。
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大覚寺井樋水路(小津江旧河道)
伊勢町の大覚寺井樋(大覚寺東南角)から導水、伊勢町、西田代、与賀町から本庄町中央部を貫流し、西与賀町丸目の本庄江河口に至る用・排水路である。佐賀市は、昭和55年(1980)大覚寺井樋水路(排水路)として指定した。町の西・南部域の灌漑用水供給と排水機能を持たせる幹線水路としての機能を果たしている。 市街地から町内に入り十五川(堀)に流れ、十五縄手橋~佐賀大学構内貫流~西頭橋南で二つに分かれ東は、蔵橋を経て本庄小学校西の浜橋に至り、灰塚方面の用水堀となっている。本流は、西に折れ、慈姑田堀から慈姑田橋(橋親柱は貝田橋となっている。)、岩崎橋、ここから南流、西川内集落内を流れ、梅林寺橋、官人橋が架かる。さらに南下、正里を過ぎ、鹿子に至るが、圃場整備で、昔の一町六反橋、石井殿橋、夫婦橋などがなくなった。鹿子から西に折れ上飯盛に入ると妙院橋、上飯盛橋、宝伝寺橋が架かる。宝伝寺橋傍に常十井樋(上飯盛制水門)が設置され、これで流域水田地帯の用排水の調節が図られている。ここまでが大覚寺井樋水路である。 これから南、東与賀を経て西与賀町元相応、丸目に達し、自然排水のドンポ(呑接尾)井樋から、本庄江河口に流している。また、ドンポ井樋傍に湛水防除の強制排水施設丸目排水機場がある。 この大覚寺井樋水路の本庄町地域以南は、小津江の旧河道と言われている。「文明14年(1428)頃、少弐政資の居館与賀館(城)付近に小津江の入江があり、商家軒を並べて喧騒なりしをとがめ、入江を西郷に移し、両岸の在家を分けて東岸の移るところを今宿、西岸の移るところを今津とした。」(『佐賀市史』第1巻)との記述からして、室町時代までは、小津江は舟運の往来に重要な役割を果たしたことが想像できる。
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善左衛門井樋水路〜古江湖川
多布施川に架かる善左衛門橋傍の井樋が善左衛門井樋(伊勢町・川原町境)である。これからの導水が、川原町、伊勢町、与賀町精を貫流し、本庄町に流入する。県道東与賀・佐賀線(佐賀大学東)に沿い南下、鬼丸町に達し境橋が架かり、これから大井樋辺で古江湖川に繋がっている。ここまでが善左衛門井樋水路で、昭和56年(1981)に市はモデル水系に指定している。この下流が古江湖川となり、準用河川となっている。大井樋あたりを古江湖川上流部に、大井樋・末次・満穴・中島を西に、袋・八田を東に流路をとり、八田最南端の樋門を通して八田江に合流している。この古江湖川から流域内の堀(クリーク)へ分水が図られ、灌漑用排水の制水機能を果たしている。元々の八田江の上流部であったが、今の八田江の上流部が新しく開削されたので、旧河道となり、古江湖川となっている。