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[自然][河川・水路][循誘校区]は13件登録されています。
自然 河川・水路 循誘校区
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十間堀川
十間堀川は、佐賀城の外堀の役目を果たしていた。即ち平城であったために、この十間堀川は、ほぼ東西に流れ、勧興小学校の南、循誘小学校の北を経て大財六丁目の南二次井樋までおおよそ1,900m、ここで大溝川に合流し、枝吉樋門まで1,400m合わせて3.3kmにおよんで、川幅は十間(18.2m)あったので十間堀川と云っていた。 この十間堀川の特徴は、佐賀市の北部の河川水を受け、高低差の少ない排水河川である。かつて今宿に千石船が出入りした頃できるだけ川に水を溜めておく必要があったので、下流の蓮池地区には蛇のように曲がりくねったいわゆる蛇行の河川だった。このため枝吉樋門から八田まで河川を改修したり、蒲田津に大きな強制排水ポンプ場を設置して排水能力を高めている。
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裏十間川
この川の北側は、中の小路・中央本町・呉服元町・柳町、川の南側は、松原1丁目から4丁目となっている。上流には、東魚町橋・恵比須橋があり循誘校区の最初は、欄干橋となっている。欄干橋以東は、武家地と町地の境となっている。
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紺屋川
呉服町水路の、元窓の梅東裏を起点として東に流れ旧古賀銀行の北を通って、藤影幼稚園の南から、兵庫屋の追手橋で南に曲がり香月酒屋から思案橋を下り貫通道路の紺屋橋を経て、今宿で佐賀江に合流している川である。
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小寺川
巨勢川西の兵庫町一帯(土井.藤木.西淵.東淵.西中野.下村)の水田の農業用水を受け持つのが、この小寺川であり、上流は川上川の分水で小寺井樋から五領.長瀬.下高木を流れて兵庫町に至っている。
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大溝川下水路
佐賀市消防署の西側を南下し、鉄道線路の下に大藤橋がありこの線路をこえて戸上電機の東の水路を下ると、元佐賀線跡地の道路と金立に至る県道との交差点(大財北町住宅南)の西側に大財橋(昭和45年)がある。 大財橋から約100m南に『楠の木塚橋』があるが、この橋は大財本通りから大財六丁目を経て、兵庫町下村に通じる道路新設工事の道筋に当たるため、新しく鉄筋の橋に1994年架け替えられた。また、大溝橋は、西の元佐賀線跡地の道路新設工事と合わせて、新しい鉄筋のコンクリート橋が完成し面目を一新している。この南三叉路に架かる橋は、火薬庫橋と名付けられているが、この直ぐ西には昔火薬を保管する場所があった。この付近には人家もなく淋しい所であったが現在では、住宅が立ち並んで賑やかな所となっている。この橋から流れた川は、東の二次井樋で十間堀川と合流している。
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大溝都市下水路
大溝川下水路と十間堀川とは二次井樋付近で十間堀川と合流し南下するが、この二次井樋付近は昔『野越し』といって道路より高く水位が上がれば、道路を自然に越して水は他の方に流れる仕組みが、長い間の村と村との間に定められた治水の慣行であった。 これは、この井樋の東は三間川で、西の大溝川と東の幹線水路との間の水量を調整する役目をもっていたのである。しかしながら大水の場合は早急に排水する必要があるので、それぞれ河川の改修や強制排水ポンプなどの設置で、大雨の被害を最小限度に止めるための努力がされている。 二次井樋から南下した水路は、桜大橋を経て構口橋に至っている。
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十島水路
大藤橋(佐賀市消防署西側の河川が、西鉄営業所前でJR長崎本線と交差する場所の橋)から南に入り、戸上前橋、八の坪橋(生長の家西北)中林橋(生長の家西南側)それから十島橋を経て下流は大藤水路と合流して十間堀川に入っている水路である。
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呉服町水路
大財橋より少し西より、願正寺東に南下し、高木町の天神橋を通り愛宕神社、光明寺前の晒橋から裏十間川に流れる。 昔この水路は『新堀』または、『真宗堀』とよばれ、南北400mの短い水路であるが歴史のある水路である。
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高木町水路
高木町水路は、願正寺の東南で新堀と十文字に交差して、大財通りの『井手酒屋』北を通り、循誘小学校校門南前から東の川崎米穀店北に流れ、東佐賀町を経て、長専寺の横から構口橋北で大溝都市下水路に至っている。
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芦町水路
呉服町水路の愛宕神社東から分流して、大財町本通り『春駒』の南に架かる『芦町橋』を東に流れ、循誘小学校の南の『循誘橋』から東の追手橋北に至っている。また、牛島天満宮の西鳥居の『天満橋』は芦町水路に架かっている。
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大藤水路
大溝川の『藤の木橋』から分かれて南流しているが、新村川の末端である、愛敬島水路や大財水路とも連絡している。主な橋に、鶴橋、北御堂橋、御堂橋、竜頭橋、大財新橋があり、末は十間堀川に至っている。
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川の底をくぐる川
裏十間川は朝日町了関橋の下流でいくつかに枝分かれして東に流れている。この川の末流は八田江に注いでいるが、枝分かれした水路はすべて八田江右岸で姿を消す。 そのうち朝日町、今宿町を流れる水路は、今宿町証明寺裏で姿を消している。八田江の両岸を注意して見ないと分からないが、この水路は八田江の底をくぐりサイホンの原理で枝吉、木原方面に流れるようになっている。これは枝吉、木原方面の灌漑用水に八田江の潮がまじらない工夫であると思われる。 なおその下流の姿を消した水路は、八田江の水が少ないときは大きなコンクリート製の管の一部が姿を現し、小さな堰のような役割をしているようである。 ※写真3枚目は水利工事に関係する記念碑。地図の場所にあり。
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佐賀江川
今宿を起点とする一級河川佐賀江川は、かつては今宿江湖と呼ばれていた。佐賀平野を流れる川は、原則として北から南へ流れているが、この川はいちじるしく蛇行しながら高低もなく東西に流れている。(改修以後は直線)これは大昔の海岸線(海抜4mの長崎街道)に沿った干潟の澪が成長した結果である。 この川の役割は嘉瀬川から城原川に至るこの川の以北の佐賀平野の排水機能である。従って材木町で明渠や暗渠で多布施川末流の裏十間川とむすびついたり、十間堀川と巨勢でつながったりして、循誘校区内の水路はすべてこの川で排水されている。そのためこの川の排水能力の限度を越えると校区内も洪水に見舞われていた。 もう一つの役割は運河としての役割である。慶長18年(1608)鍋島直茂が佐賀城を築き城下町を経営するに当たって、これに目をつけ、筑後川と城下を結ぶ運河として利用した。築城や城下町形成には膨大な石材や木材が必要となるが、これらの運搬は船に頼る他はなかった。これらの材料は下今宿の船着き場に陸揚げされた。 この運河としての役割は江戸時代、明治、大正と陸上交通の発達するまで、米、薪炭、味噌、しょうゆ等城下町の人々の生活必需品の輸送に欠かせない水路であった。下今宿は城下町最初の宿泊地であったため、商家、問屋が発達した記録が残されている。