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[産業][漁業][川副町]は7件登録されています。
産業 漁業 川副町
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潟漁
犬井道潟、大詫間潟を主漁場とし、白石や柳川の蟶探りも時により出漁した。地元漁場では干拓の先端から、押板に押桶を乗せて出漁し、あげまきの徒手採捕、むつ釣り、むつ掘り、ワラスボ掻き、鰻掻き、メガジャ掘り、マテ掘りなどがふくまれた。このため干拓の海岸堤防には「降り口」という階段が数カ所造られ、付近の堤防には、押板や押桶が格納されていた。
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洲のもん捕り
日本一、潮の干満の差の大きい有明海でも、特に湾奥部の当地が最高であるため、冬期夜間の大潮干潮時には、沖合の洲(デルタ)が干出し、たいらぎ、赤貝、あかにし、えにしなどが姿を見せる。また蟹や鯊、蛸なども採れる。漁民は潮の引きがけに、一隻の船に数人ずつ乗り合わせて漁港を下り、遠くは10kmも離れた洲まで、羅針盤も灯台もないまま潮の流れや、海底の土質、深浅などを頼りに目的の漁場に漕ぎつき、錨を下ろして潮待ちする。やがて洲があらわれると、漁夫はたいまつを背負い押桶を腰縄で曳いて獲物を捜す。大正末期から、たいまつはガス灯に代わり、裸足は刺子の足袋となり、昭和の初め頃よりゴム長を使う人も現れ、戦後ゴムの中長靴や胴付長靴が使用され今日に至った。
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海茸と鰻
洲や潟の中間地帯、川岸の砂気の多い潟地などにいるのが、海茸や鰻である。 海茸は「サシオイ」という杉材を大根のように削り、上部に横20cmぐらいの柄をつけたもので穴を広げ、徒手採捕するが、大正時代からは、樫の棒の先に15cm程の鉄の金(捻じ金)を取りつけて、これを船の上から、海中の泥土に突っ込み、一廻しして海茸を横金に引っ掛けて、垂直に船に上げる「海茸捻じ」なる漁法も現れ、今日まで続いている。捻じ棒は、水中に入って裸足で海茸の穴を探ってから使う「入り捻じ」と船上からの、一間物、二間物、四間物を使う人もある。
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シオマネキ(マガニ)
ガン漬蟹である。川岸や干拓の潮遊びの芦の中に棲息し、紫や青の甲羅に、鮮やかなピンクの腕、特に雄蟹の片方の腕が大きく、潮際で雌に会えば、この腕を上下して示威する様を潮待ちして潮を招くものと思い「潮招き」の名ができたものである。 原産地は東南アジアで、日本では徳島県、和歌山県あたりが北限と言われる。有明湾や、不知火海にも棲息しているが、食用にカニ味噌として有名になしたのは当地だけである。しかし、農薬の普及で大方が死滅した。
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筌羽瀬 (ウケハゼ)
明治43年から漁業県税の対象となっており、いつ頃からこの漁法があったのかさだかでない。 小笹や芦で編んだ簀(す)をつかって高さ1尺から2尺の垣をつくり下に筌をつける。 かに、むつごろう、えび、はぜ、わらすぼなどが獲れる、潟羽瀬は垣を泥で築くが、後には泥で築いた土手に低い芦簀の垣をした。今日なお僅かの人が営んでいる。
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海苔養殖の歴史
有明海の佐賀県沿岸が海苔畑になって、かれこれ50年。その間の成長ぶりは他県にないユニークな試み、よその産地で見られない独自のプロセスが佐賀海苔を名実ともに日本一にした理由である。 【水揚げ高日本一(6年連続) 平成15年〜現在・ 川副町のシェアー45.3%】 それは、有明海という恵まれた漁場環境に加えて、常に海苔を育てる漁家と漁連・県・大学が一体となって海苔づくりに取り組んできた軌跡からもうかがえる。 とりわけ昭和43年から全国でもユニークな集団管理方式を打ち出して以来、その成果は目覚しいものがある。これは前年に起こった異常干ばつと疑似白ぐされ症による大被害の反省を踏まえての大決断でもあった。まず県と漁連は海苔漁場の新たな区画整理を徹底して基盤の目を作った。 これまで密殖していた漁場は船通しあるいは潮通しと呼ばれる水路をスッキリさせた。 潮の流れが良くなったことで、病害を免れるだけではなく、漁船の航行がスムーズに出来るようになり、さらに良質の海苔が生産されるようになった。 漁連・漁協は集団管理方式を漁家に徹底して指導しながら、さらに漁場環境の改善、採苗や養殖技術の集団管理、冷凍網の導入等の対策を着実に進めてきた。そして生産の増大、安定化に成功した。 しかし、昭和40年代にはいると冷凍保存網の技術が開発され海苔養殖ブームとともに生産量が急速に伸び、こうした過剰生産が問題になり始めたなか県は量産から品質への転換つまり「うまい佐賀海苔つくり運動」を昭和49年度からスタートさせた。昭和51年には佐賀海苔の平均単価が全国一になり、運動の成果が海苔の一枚当たりの単価に現れ始め、この年に全国で始めてフリー糸状体の種苗センターを作り、格安で安定した種苗を各漁協に配布するのが目的で、こうして人々がお互いに力を出し合い、協力した結果、佐賀(川副)は全国で優秀な海苔の産地として、知られるようになった。
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龍造寺隆信公と網漁業(立切網・はじさし網)
天文20年(1551)、豊後の大友宗麟に内通した家臣等に水ヶ江城を攻囲され龍造寺隆信公(1529〜1584)は、柳川城主蒲池鑑盛を頼って落ち延び、筑後柳川に近い一木村に身をひそめた。 天文22年(1553)ひそかに水ヶ江城奪還を企てていた隆信公は鹿江兼明らの舟に乗り込み犬井道地先の燈堂に上陸した。当時、この辺一帯は、まだ葦の生い茂った海岸で、航路の安全を祈る灯りをつける堂があったことからアカシドウと呼ばれている。 この時、水先案内をつとめたのが漁夫の園田二郎兵衛と犬井道新兵衛で、この両名に、今の漁業権にあたる立切網・はじさし網(定置網)を許可する「お墨付き」が下された。この判物木札は、慶長10年(1605)、隆信公の弟長信の子与兵衛(多久二代目邑主安順)が園田と犬井道に対し、従来どおり(はじさし網)【漁法について後段で解説】の特権を認め、魚百掛を藩に納めるように命じたもの。 この漁業権は、その子孫等により守り続けられている。 燈堂にある隆信公の坐像は、昭和28年4月、この子孫等有志により建立されたものである。 その後、隆信公は鹿江の威徳寺に入り、川副・与賀郷の武士3,000余名の協力を得て旗揚げし、以来30年間に渡って破竹の勢いで周辺の武将を降ろして、遂に五国二島の大守となり、薩摩の島津、豊後の大友と並ぶ九州の後の雄藩を築き上げた。 威徳寺には、寺宝として隆信公の法体の「画像」と隆信公が使用したと言われる「陣太鼓」がある。小々森にある此荷大明神(コノニダイミョウジン)は威徳寺で軍備を整えた際、この地に軍荷を置いたと言われている。 早津江の志賀神社には、隆信公が使った軍旗が残っている。 また、町内には、海童神社(犬井童)、天満宮(咾分)天満神社(鰡江)、天満宮(船津)、天満社(重久)、天満宮(小々森)、海童神社(広江)天満社(久町)、天満社(新村)など、隆信公ゆかりの神社も多い。 このように、戦国時代の英雄であった龍造寺隆信公と川副町の因縁は大変深い。 ■網漁業【立切網・はじさし網の説明】 『鹿江崎大詫間江、はじさしの儀堅存申にまかせ、魚百掛、上江さし上申可然候、以上慶長十年八月十日』の御判物板札以来、400年続いた漁法である。 犬井道潟、大詫間潟に600間の身網をはり、3間置きに五寸竹を立て、干潮時に網を敷き込み、8合満に網を建竹に張り上げ、浮魚は干潮時に棚網で、また底魚は裾に集めて捕獲する。 漁夫20人から30人、船4隻から7隻、漁獲物は、あかめ・えびな・ぐち・つなしなど、漁期は4月から10月まで、戦後は年中操業していたが、のり養殖漁業の普及に反比例し、現在は操業されなくなった。