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[民俗・芸能][祭り][東与賀町]は9件登録されています。
民俗・芸能 祭り 東与賀町
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花祭り
旧4月8日は釈迦の誕生を祝う花祭りが行われる。寺院では菜の花・すみれ・たんぽぽ・れんげなどで花御堂をつくり水盤の中央に誕生仏を安置する。参拝者は頭上から甘茶をそそぎ、家族のために甘茶を戴いて帰り、飲むほか、目につけたり女性は髪の毛につけた。 また、蚊帳にふりかけて虫(蚊)除け、家のネギダイにまいてヒラクチ(まむし)除けとした。
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村祭り
10月のおくんちを収穫祭りとして祝う集落が多いが、実際の収穫をすませてから祭りをすれば霜月(陰暦11月)となる。 上古賀では11月23日に天満宮、12月15日に八幡宮の祭りが行われる。おとうや(前夜祭)には、子ども達がお茶と芋で参拝人の接待をし、この夜は一晩中太鼓を鳴らした。翌日の祭りは番帳の家で餅米1俵を蒸し、家長には鯛、さしみ、吸物、煮物、なますなどの御馳走がついた。 実久では12月第2日曜日に金毘羅宮で祭りが行われる。祭りの前夜、男児はシメタテといって〆縄を大人の助けを借りてつくり、その夜は宿に泊まって遊んでいた。当日は大人から子どもまでが集まり新穀の赤飯を腹いっぱい食べ収穫の喜びをわかちあった。1週間後の第3日曜日がシメオロシで、〆縄を下ろし50cmずつ位に切り各家の屋根に魔除けとして投げあげる。
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夏祗園
龍王宮と天神社の大前で盛観を極めたのは夏祗園である。この祗園祭には男子が成人して青年団に入団すれば、1個の大提灯を神前に献燈するという掟があった。その大提灯には牡丹に唐獅子が画かれており、これに火を灯すと勇壮華麗な絵が浮き出て、将来の出世と活躍を表明するわけである。参道には出店が並び子ども心を誘う大小さまざまの凧(とうばた)やおもちゃ、それに氷店や菓子店等が所せましと陳列された。 境内には数日前から舞台作りがなされ、昔の臼やばんこと共に茣蓙(ござ)やむしろも敷かれて、にわかに野外劇場が完成するのである。踊りのけい古もその1か月前からの練習で、以前は男に限られていたが、後には女子青年等も加わり中老年の男女が競って毎晩楽しんでやった。しかし昼の農作業の後での稽古であるだけに相当の苦労もあったが、お祝儀を戴いたり拍手を浴びるとまた喜びもひとしおであった。
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川神祭り
毎年5月に立野と中島地区の境界の場所、昔の「ひゃあらんさん」この広場に莚(むしろ)を敷き、弁当やご馳走を持ち寄ってお祭りする。その趣旨は川の水に対する感謝と水難予防である。この堀水に関連して毎年2月には「寒の水」の習俗がある。これは正月に搗(つ)いた餅を寒の水につけておくと1年中腐らないというのである。寒の水を大瓶の中に蓄えこれにつけた餅は、昔から馬耕やごみ揚げや子ども達のおやつとしての「黄粉(きなこ)餅」となる。この味はまた農村では欠くことのできない風味と栄養満点の食品でもある。
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祗園
鍛冶屋天神の祗園は、船津八幡宮の祗園と共に往時は非常に盛大であった。毎年8月1日には天神前の広場には、とうばた(紙凧)をはじめ、おもちゃ等の出店が並び、境内の北側の畑には踊り舞台もできて、夜は遅くまで賑わったものである。しかし、この祗園祭りも時代の推移とともに消え失せて、最後は大正5年で終止符を打ったのである。最後を飾るために各家々では紙で作った角燈籠の提灯を軒先に立て、ほのかなる献燈に誘われて老若男女の群れが浴衣がけで団扇片手に集い興じた姿は、なお今日でも旧き時代の名残として想い出されるのである。
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中の宮の祗園祭り
中の宮は、大日如来、三界万霊を祀り、以前は旧8月9日が例祭であったが、今は改められて毎年7月9日である。昔からこの宮は、天然痘の神様として近隣はもちろん他の町外よりも参詣人が多かった。殊に例祭の当日は、戸主や若者連中は朝からお祭り気分で、酒を飲み太鼓や三味線で大賑わいをやる。お宮の前には手踊りの舞台が掛けられ売店の茶店も各地より競って馳せ参ずる。にわか作りの出店には、子ども等が最も喜ぶ凧(とうばた)やおもちゃが華やかに飾られ、ラムネやかき氷の赤提灯が揺れる。日が暮れて踊り舞台に電燈が灯る頃には、この町の人々はもとより村の内外から参詣する老若男女が押し寄せ、人込みで境内はいっぱい。道も通れぬほどの押し合いへし合いの人出となる。この頃になると舞台では手踊りがはずみ歌もはずんで観客を喜ばせ、出店では客を呼ぶ鐘や太鼓に喇叭(らっぱ)や人声でお祭気分を湧き立たせて、祗園祭りは最高潮に達する。こうして毎年毎年と大賑わいが続いたが、各地より来る出店を半減する政策をとって、船津の祇園祭と同日に挙行したことも度々あった。
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豆祗園
毎年7月15日西の宮に農家の戸主が各自重箱持参で集まり、神酒を戴きながら四方八方の話に談笑し楽しむものである。子ども達は豆かお金を各家から奉加を受けてお宮に集まり、その豆を煮たりお菓子を買って食べたりして喜ぶのである。老人の婆さん連中もこぞって集まり、お茶を沸かしお菓子を味わいながら歌ったり踊ったり、この「豆祗園」を楽しい生き甲斐の一つとして余生を感謝しているのである。 ※「祗」の右側の表記は、「氏」が正しい。
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金毘羅祭りと英彦山詣で
金毘羅祭りは、毎年秋の10月15日、春は4月頃の2回で大人も子ども達も、各自弁当を持ってお宮に集まり、楽しいひと時を過ごし子どもは供膳もいただくのである。英彦山詣では、その前日に村落で、天神さん・伊勢まつり、英彦山祭りを行い、お供日の10月15日、村落の代表が英彦山にお参りするのである。
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わらすぼ祭り
漁村としての面白いお祭りである。大村落であるので、3班に分かれて、一かい小路(約30戸)・西小路(約40戸)・東小路(約35戸)が同時日に挙行する。どの班も朝早く学童等は登校前に母親から連れられて番帳さんの家に集まる。その家では祝賀の赤飯が炊かれており、「わらすぼ」をおかずにしてたらふく食べるのである。その趣旨は豊漁と感謝の意味であろうが、番帳さんは家廻しにまわされて毎年移動してゆく。これも時代のなすわざか今日では衰微して、最後は田中利八の番帳で終止符を告げた。