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[民俗・芸能][行事][鍋島校区]は21件登録されています。
民俗・芸能 行事 鍋島校区
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水神楽(川上参り)
昔から鍋島では各地区とも淀姫神社へお礼参りをして、御神楽を奉納し御神酒開きをする等、現在まで毎年の慣例になっているが、これは淀姫社の御神徳により灌漑水に不足なく、秋の実りの喜びを報告し感謝の意を捧ぐる為の年中行事である。
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お粥ためし
お粥試しというのは綾部神社の「旗上げ」と共に佐賀地方農民の注目の年中行事である。毎年1月1日の四方拝の式典に、蛎久天満宮の神前にお供えした白米の一定量を2月11日建国の記念式に、神官によって修祓をなした後に大きな釜に入れて炊き、焚きあげてから鉢に盛り、これを唐ひつに納め奉殿の神側に安置し、3月25日例大祭の早朝再び神官の手に依って参籠所に持ち出し、一般参詣人に公開されるのである。 そして鉢に盛ったお弼の面にあらわれるカビの色合い、水気の工合等によって其年の米の豊凶を占うものである。特に農家はこれによって、その後の対策を講じる必要があるので、みな真剣である。尚鉢盛の粥には東西南北を更に中間線を画し、中心を佐賀城として放射線的に分画してある。
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ホンゲンギョウ
1月7日朝早く餅を焼いて食べる。昔清涼殿で青竹をたき餅を焼いた。これは全国的な行事となり、鬼火たき、鬼(悪魔)退治の意味がある。ホンゲンギョウは鬼火焚きとかドンドン焼きとか色々の名前で呼ばれ、厄払いの行事で各地で行われていたようだが、どの地方の行事も趣旨は同じのようである。
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荒神餅
正月9日の朝は荒神さんに供えた餅を焼いて食べる。この餅はカマド(へっつい)を摸して作った餅で、これは男性に忌まれ専ら女性用の餅であった。つまり男は台所くさくなってはいけないということであろう。
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もぐら打ち
正月14日に行う男児の行事、田畑を荒らすモグラの害を除き果樹豊産を祈るものである。雌竹を切って先端にわらずとをくくりつけて地区ごとに庭先に円陣を作り、次の歌に合わせて地面を叩くのである。 なれなれ柿の木。ならずの木をばなれぞというた。千なれ万なれ。億万なぁれ。つる落ちすんな。空花さくな。人の子のちぎっときゃ。堀の岸なぁれ。うちの子のちぎっときぁ。畑のまん中なぁれ。去年よりぁ今年ぁ。所見がようして。太うして長うして。ぶちぶらっとなぁれ。十四日のもぐら打ち。
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灌仏会
4月8日。釈尊誕生日。 甘茶とり、花祭りと言って、各寺院ですみれ、たんぽぽ、菜の花、れんげ草など春の草花で飾った「華堂」を作り、その前に大きなたらいを置いて甘茶を入れ、その中に釈尊像をたて、参拝者はお賽銭をあげ、甘茶を釈尊像にかけて礼拝し、甘茶をもらって帰る。家族全部はこれを戴いて病魔よりのがれる様に祈った。
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さなぼり (早苗祭)
7月上旬頃田の神が田植えの終了を見届けて、帰り上がる日であるといわれている。農家では一番つらい田植えが終わり、無事すんだというお祝で、各家庭でご馳走を作り、慰労するものである。この日は米の粉であんこ入り饅頭を作り近隣にも配る。また農家の新嫁はこの日から里帰りする。
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おくんち (供日)
おくんちとは村の鎮守の秋祭りで、豊年に対する感謝祭といえよう。神社では早朝御神幸の式を行い神輿を一時下の宮に安置し、午後上の宮に御遷幸の式を行い、神輿を神殿に奉遷するのであるが、参詣人は神輿の下をくぐって一家繁栄、家内安全を祈る。おくんちには「鮒のこぶまき」を御馳走するのが通例である。
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歳末、家児揃
一年も押しつまり、12月25日になると歳末の行事がある。それは一年間無事生きつづけたことを先祖に感謝して、親類一同集まり会食する。この頃には、正月準備に神棚、家の中の大掃除、すす払いをすまし、大晦日の晩は、「家児そろい」と言って、一家揃って膳につく。相応のご馳走をして、菊がらをたいて、その煙で貧乏神を追いだし、俵箸のけずりくずをたいて、繰り合いの向上を祈り、来年また幸運にめぐり会う様に運そばをたべ、百八煩悩をつきならす除夜の鐘をきいて寝につく。
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三夜待
毎月の23日を中心に開かれる町区の親睦会のことである。普通三夜待の神は女神様だから男がまつり、六夜待は男神だから女がまつるといわれる。三夜待の石碑の前に酒肴をささげ、おさがりを戴いて四方山話に花を咲かせた。三夜さんや三夜待等と言って、佐賀地方の風習行事で、何処の村でも行われていた。 年齢・職業等比較的環境のにかよった人々で仲間を作り、月に1回程度輪番制で当番の家に集まり、会食後夜遅くまで語り合って楽しんでいた。また、三夜待仲間といって、旅行や色々な行事、憂い事、お祝い、病気等で全ての喜怒哀楽を友にする仲間として三夜待があった。 現在周囲は団地化され、職業も境遇も違う人々で、自然と昔式の三夜待グループも解散になり、数グループが残っている程度で、現在は形を変えた仲間作りとして、職業年齢など関係なく気の合う人たちで三夜待の名前で食堂での会食等で会費制の仲間作りがされている。
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六夜待
主婦たちが毎月26日夜、順番に集まった親睦会のことである。一説には26日は石川五右衛門が生まれた日で、この日懐妊しない様に主婦が集まり、徹夜して話にふけり夜があけてから帰宅したともいう。
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彼岸遍路さん
春、秋の彼岸には「彼岸おこもり」と言って、地区のお宮の堂などに集まり、先祖をしのび感謝するもので、主として主婦が出席する。この彼岸中にお遍路の一隊が巡ってくる。遍路とは元来弘法大師の修行の遺跡、四国八十八ヵ所の霊場を祈願のため巡る人たちのことである。佐賀では四国めぐりは困難であるから、佐賀八十八ヵ所を設けてこれで代行している。
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鍬入れの式
東新庄や岸川・他の地区では、地区の行事としてでなく、個人として1月2日、戸主が自家の苗代に鍬入れの儀式を行っている。 それは2日の早朝、松、ツリシバを1本ずつ持って苗代田に行き、鍬で3度土を掘り起こして、それらを土にさし恵方を拝し帰る。 この儀式は今は殆ど行われていない。
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水天宮祭
東新庄の水天宮の年中行事として春祭は3月15月、秋祭は9月15日、近所の世帯主が回り番の当番の家に行き、酒をくみ交し、赤飯を炊いて祝う。
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萬部塔の供養
萬部祈願石塔二基 所在地 木角 蓮成寺境内 一基 奉漸読大乗経王一萬餘部 宝永五戍子天四月四日 願主 松尾山白慧上人 門弟 弟謹中 法主 本蒲寺中興通正院日達聖修立 二基 妙法蓮華経二萬餘部日恵 寛保二歳壬戌二月時正日起立 願主 光勝寺三十一世 日宣聖人 法主 部許護國松尾山二十七世讀誦主 萬部堂再建 安政五年とあり 蓮成寺は、百数年前火災で本堂は焼失したと伝えられているが、祈願塔については何の手がかりもなく不明である。 佐賀市水ヶ江1丁目万部島の祈願石塔群の2基とは前後して建立されている。 ○木角地区の人は、毎年4月(第2日曜日)萬部塔の供養を行い、餅と酒を供えて法要を行い、地区民を災害から守り1年間無事で暮らす事ができるようにと神酒をいただき、餅を分けてもらい、各家庭でいただく。 毎年、区の行事として昔から行われているが、建立当時から行われておれば何百年と続いている事になる。
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祗園
一般に祗園といえば祗園会の略で、京都八坂神社祭礼のことであるが、今では村の鎮守の夏祭りのことを「ぎおん」と呼んでいる。元来この祭りは水神信仰からきたものと言われている。神社の境内では仮舞台を設けて、芝居や舞踊をして参道には出店がたち並び、子どもたちにとっては最高の楽しみであった。 ○津留地区では、薬師如来祗園(7月12日)弁財天祗園(7月17日)地蔵さん祗園(7月24日) ○角目地区のお地蔵さん祗園(7月24日)は子どもが祭り、天満宮さん祗園は青年団が祭る。 ○増田地区では、天満宮の祗園祭があり、婦人会役員たちが世話をする。 ○東新庄地区では、宝暦6年に建立された地蔵さんの祭りを夏にしているが、男子の祗園祭である。
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淀姫神社へお礼参り(八朔お籠り)
昔から鍋島の各地区とも淀姫神社へお参り(別名、水神楽詣)をし、御神楽を奉納、御神酒開きをすることが毎年の慣例になっている。これは、淀姫神社の御神徳により、農業用水に対する御礼と秋のみのりを得た喜びを感謝する行事である。 この時、東新庄、江里地区では、神扉を開き、金の御幣を排する。この特典があるのは、元亀元年8月、大友軍が佐賀に攻め寄せてきた時、鍋島の軍勢が夜襲を敢行する事になり、勝楽寺に陣揃いをした。この時、東新庄、江里の百姓が当寺に馳せつけ、竹を伐り、竹槍を作り、奮って従軍した。いよいよ夜襲となり、大勝利を得た。このとき、直茂公から東新庄、江里の土民に対し「何か望みがあるなら遣わそう」、というありがたい御下命があった。すると、淀姫神社の金の御幣を拝したい旨をお答え申し上げた。それからは、この特典がつづいたという。 ○津留では、昭和53年までは全員参拝していたが、今では三役の方が代表で参拝し、帰参後、公民館で全員がいただき座を設ける。 ○増田は早朝から淀姫神社に参拝し、その御神酒をいただく。 ○岸川も同様で代表が参拝している。
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お稲荷さん祭
○蛎久地区では、各組1戸より主婦が1人ずつ出席して当番の家に行き、お稲荷さんに魚、揚げ竹輪をお供えして、1年の無事と五穀豊穣の感謝をする。 ○植木地区も同じく11月の第1日曜に、神主の祝詞があり五穀の実りをお願いする。
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八天神社参り
○江里地区では毎月3名、焼山の八天神社に火災免れのため参拝する。 ○東新庄地区では、希望者が藤津郡五町田町にある八天宮に代参し、2月、5月、11月の第3、申の日に当番の家で餅をつき酒を汲み交し安全を祈る。
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堀干しやごみ揚げ
現在の堀はコンクリート護岸が施され、昔の面影は殆どなくなったが、昔は両岸には柳の木や芦が生い茂り、堀の幅も広く、深くて流れは清く、鯉や鮒、鯰などが沢山棲んでいて、夏は魚釣りドウケやウケ等の漁具を使っての魚取りは村民の楽しみだった。 堀は所々に堰で区切られ、色々と堀の名前が付けられて居て、管理は両岸の水田の持ち主で管理と決められていた。 秋の供日が近づけば堀の持ち主が気の合った人を集めて堀干しが始められる。(堀を干し上て魚を捕る事) 堀干しは下流から順々に始められ、堀の水は何時も流れて居るので、上流から始めると吐水が下流に流れ魚が吃驚して逃げ出すので、堀干しは必ず下流から始められる。 水車を何台も据え付けて水を汲出して堀を干上げて魚取り皆で分けて持ち帰り、昆布巻きや焼鮒子を作り、供日のお客のもてなしに利用された。 又春には人手を集めてごみ揚げ(堀の中のがた土)が実施され、昔は化学肥料も少なかったので水田の肥料にされ、又堀は綺麗に清掃され、堀の底の日当たりの良い所にぬくめ(魚拓)等つくり魚が棲み易い様に工夫して魚の繁殖に努めていた。
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鍋島イカダ流し大会
昭和61年度から平成14年度までの15回に渡り、鍋島の西側を流れ、古今そのままの雄大さと恵み豊かな自然美を残して流れる嘉瀬川を活用して、「イカダ流し大会」を実施していた。 子ども達には冒険をとおして心身を鍛え、また協調性や社会性を身につけさせ、併せて自然の美しさを愛する心情を養うとともに、「親と子」「町区相互」のふれあいを深めるとともに、明るく住み良い町づくりを目指すためのイベントとして開催していた。 乗船場所は池森橋で、下流の嘉瀬大橋下まで約2kmのコースを流し、乗船対象者は小学4・5・6年生、中学生とし、低学年生が参加の場合は保護者同伴とした。一般の事業所等の自由参加も花を添えた。 イカダは、地区ごとに親子の手づくりで、工夫した船が作製され、材料は竹・古材木・タイヤ・チューブ・発砲スチロール・空缶などの廃材が多く活用されていた。 どこの地区のイカダにもニックネームがつけられ、ポケモン・サントアイヌ号・ほたるの里号・はばたけムッピー・七夕号・たまごっち・水族館・うるおい水辺号等すばらしい愛称できれいに飾り付けられ、懸命に作ったいかだで楽しい川下りを経験した。また、下船後には第2部のイベントとして、かき氷・バザー・ヨーヨー釣り・お楽しみ抽選会等でさらに会場が盛り上がり、川下りの人気も上昇していった。しかし、各地区でイカダを保存する場所の確保が困難となり、またイカダを製作する時間や費用が年々増大する傾向から平成16年度以降中止せざるをえなかった。