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[遺跡・跡地][遺跡][金立校区]は4件登録されています。
遺跡・跡地 遺跡 金立校区
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金宝山一乗院観音寺遺跡
金刀比羅山の南麓の階段式畑地を成しているのが其の跡である。寺跡の畑地と山との境界に当山10世の住職権僧正真舜の石像(坐像)を果せた石塔が遺っている。真舜は江戸一乗院14世当山中興の祖であり、金刀比羅神社の鳥居並に石段はこの時代に修築されたものである。 寺跡を語るものとしては寺跡の南下より東にかけて寺の馬場と呼ばれる地名が残っている。これは昔の名残である。更に大門の地名は昔は此地は熊山と呼ばれていたが当寺が隆昌となり、宏大な山門が構えらるに到って土地の人は大門のあたりだとか、大門のあたりに行くなどと常用せられ何時とはなく熊山の名は失せて地区の名が大門と化し、名づけられて今日に到ったものである。(寺院の建立以前は金刀比羅山も熊山で附近の地区は熊山であった。筆者の幼少の頃は大門の上部の方は熊山と呼ばれていたし、神社の高張提灯や消防組の名は熊山と銘を打っていた時代があった)熊山は元々隈山であったらしい。 当山の沿革 当寺は日峯様泰盛様の時代御開基慶舜宝光院宝林院元忠寺住職之内元和中高麗御山陣之節□元忠寺千座万之護摩其外被仰付、山林等五拾町余御寄附被成下僧正地に御取立被下寛永九年に住職仕同十一年に僧正官相勤功又寛永十五年より島原御出陣に付御祈祷被仰付候末御差控御座候砌弟子寛了房円義天海大僧随身の砌にて慶舜と申含天海僧正迄相煩被申侯由、天海公儀之御執成有之首尾能相済み候上同十七年東叡山御参詣被遊旨にて一乗院慶舜え開基被仰付候東叡山一乗院と号候 開基 僧正 慶舜(寛永元年5月) 二世 昌舜(〃18年5月) 三世 忠舜(寛文11年) 四世 (栄舜)舜栄(延宝5年3月) 五世 宗舜(宝永5年9月) 六世 垣舜(享保15年5月) 七世 権僧正 真舜(延享2年) 八世 範舜(天明5年9月) 以上の記録があるが其の後記録は当神社には見当たらない。 鍋島家の内庫所書蔵の書類に或は保存されているやも知れない。 兎に角鍋島家代々の祈願所として崇拝せられて廃藩から神仏分離となり廃寺となった。
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金立町内の遺跡分布
金立町内には、すでに発掘、調査等で判明しているだけでも20個所に及ぶ古墳群や、遺跡が存在している。知られているもの、知られていないものを、次に一覧してみると 1 西隈古墳 2 権現原遺跡 3 銚子塚古墳 4 三郎山遺跡 5 長尾遺跡 6 大門西遺跡 7 北山遺跡 8 大門遺跡 9 小坪山古墳群 10 六本黒木遺跡 11 乱斗山古墳群 12 大門古墳群 13 黒土原古墳群 14 来迎寺遺跡 15 三本黒木古墳群 16 三本黒木窯跡 17 久保泉丸山遺跡移設地 18 金立開拓遺跡 19 金立開拓かめ棺遺跡 20 五本黒木丸山古墳 この外に、金立町内には無数の古墳や遺跡が存在しているが、その全ぼうは明らかではない。
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大門遺跡
字大門にある、金立山のふもとで、標高60m前後の低い丘陵地にある複合遺跡である。 金立川、巨勢川、上流の小川を挟み、西方には大門西遺跡がある。昭和47年に2次にわたる調査が行われ、縄紋時代前期・(曽畑式)。後晩期の土器・石器・土製品、弥生時代のかめ棺墓や時期および性格不明の配石遺構が検出された。縄紋時代の遺構は、かめ棺墓によって破壊され、石斧・石錐・石さじ・十字形石製品・石錘・磨石などが出土している。 深鉢形土器2個が4mほど隔たって埋置されていたが、これは、かめ棺として使用された可能性もあると考えられている。 弥生時代のかめ棺基(16基)は、中期前半から中ごろにかけてのもので、いずれも水平に埋置され、副装品をもつかめ棺はない。 15基のかめ棺から、人骨が発見されている。
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大門西遺跡
金立町字十一本杉あたりにある遺跡 金立山ろくから佐賀平野へ向って延びた舌状丘陵の基部・標高40mにあり、弥生時代前期末の集落跡と古墳16基からなる複合遺跡である。 縄文時代各時期の土器片が出土している。 遺構としては晩期のかめ棺墓と土境など各1基がある。 弥生時代の遺構は、前期末のもので、竪穴式住居あと4棟、貯蔵穴27基、その他の竪穴2基がみつかっている。 住居あとの平面形はいずれも円形で、直径3〜5mの小規模のものである。床面には炉あとや排水溝などはない。 柱穴の配列は、かべぎわに5〜7か所円形に配置されたもの4つを方形に配置するものなどがあった。 古墳16基のうち5世紀代の石棺系石室3基、竪穴式石室2基と6世紀未から7世紀前半に築造された横穴式石室7基に大別される。 横穴式石室古墳からは、須恵器の量が豊富で、馬具・鉄器・装身具額・土師器などが出土している。