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[建造物][碑][本庄校区]は5件登録されています。
建造物 碑 本庄校区
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本庄小学校忠魂碑
本庄小学校校庭の南に2基の石碑が建っている。昔は東に建っていたが、戦後現在地に移転された。 表面「忠魂碑」と東郷平八郎元帥の書によるものが刻まれている。 本碑建設発起人は 本庄村長 三好 勝一 本庄小学校長 香月 清次 ほか当時の各区の代表が名を連ねている。 「本庄村関係戦没者」 戊辰之役戦没者 野口 孫太夫 霊 西南戦争戦没者 川谷 次吉 霊 ほか210余柱の英霊顕彰の碑である。 本庄町では、毎年5月の第2日曜に、本庄町民による、慰霊祭が現在も執行されている。 忠魂碑の裏面の碑文は下記の通りである。 「上ニ費スベキコトハ、節義ナリ、以テ國ニ殉ジ以テ公ニ奉ズ 我ガ國燦然トシテ八紘ニ輝ク良ニ故アルナリ、惟ツテ皇國幾タビカ、大兵ヲ動カシテ、膺懲ノ義戦ヲ行ルヤ本村ノ勇士命ヲ鴻毛ノ軽キニ比シ躍シテ邦家ノ難ニ赴キ奮戦激闘克ク其面目ヲ発揮セリ、士人ノ榮譽何物カ之ニ如カン、茲ニ同志挙テ忠魂碑ヲ建テ英霊ヲ不窮ニ慰メ、勲績ヲ永勃(永劫か)ニ伝へントス洵ニ近代ノ美挙卜謂フベシ。庶義ノ後進子弟アル者ハ克ク先進ノ偉績ヲ追懐シ以テ益國家擁護ノ赤誠ヲ致サムコト」 大正十一年三月 従六位勲六等 千住 武次郎 謹撰
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中野實翁頌徳碑
忠魂碑の右に同形の石碑が建っていた。これが中野實翁の頌徳碑である。 同碑文下記の通りである。 「起身於乏○作○富非発憤努力者則不能也。富抛資於公共非趨義竭誠者、則不能也。有能成之者、中野實君之也。君安政元年生于本荘村上飯盛、明治十年熊本鎮台徴丁壮、君応徴入営、能府軍紀勉其職、以養志氣矣。任満而帰也。志商業到琉球視糖○○○○購砂粕○和船数隻鬻之于大阪。又自往為菓商得巨利。君殖貨漸多營業愈盛、而其名亦顕于阪地代全國周業者多有所、而果策特抱濟故園志用力於此亦大矣。大正五六年産業振興于佐賀著六七君(殆か)無于投資以助之各會社創立速成者、君之力與居多也。而明治三十年以後身爲各地株式会社十餘所重役、蓋由致力於産業乎。平欧洲戦後都鄙到處教育費増加、而経常費動輙不給。况於臨時費乎。如我本荘村小學校舎朽廃○○改造。君○欲独力新築之通其意。於当路村長大喜不遷時之營之問數月、而于竣矣。其賞金五萬圓皆出於君之十可知君盡心。于公共事業用力于故園也。村民徳之建碑以使君功績照永遠云爾」 大正十一年三月 本荘村長 三好 勝一 誌之 (校庭の一隅なるこの石碑、その遺徳を語りつぐことこそ私達の務めである) 碑は平成16年9月の台風により倒壊し、台座のみ残っている。
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中野實翁誕生地
上飯盛の南端を東西に県道相応津から諸富線の道路沿いの松の木立ちの中に、中野實翁の誕生地の記念碑が建っている。 この記念碑は大正11年(1922)3月に建立された。当時老朽化した本荘尋常高等小学校の改築問題で、財政的に貧困の極みにあった当時の本荘村に、中野實翁が、その時の金で大枚5萬円也の寄付を申し出られ、それにより講堂、校舎を新築することが出来た。本庄村民は翁の功徳を称えて、本庄小学校校庭の一隅に、中野實翁頌徳碑を建立し、また生誕地にも記念碑が建てられた。 實翁の父中野龍渕は飯盛八幡社の座主であり、明治7年(1874)に東与賀町下飯盛に八幡社を御遷座するにあたり、翁は私財をもってこれにあてる。下飯盛区民は浮立を打ってお迎えする。神社前参道には、中野實翁表彰碑が建てられている。(昭和10年(1935)5月建設東与賀村)
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胞衣塚と久納屋敷
直茂公の誕生地に胞衣塚がある。その横に日子神社が祀ってある。 胞衣塚より東南に北古賀邸があり、その屋敷の南東に久納屋敷といって2本の巨松が茂る(今は枯れて無し)付近が、直茂公誕生の際不浄物を洗った場所でその後耕作を禁止した。 なお胞衣塚畔の堤家は、先祖の堤与一左衛門貞清の室が鍋島清久の末女(円照妙圓大姉)で、この縁故によって代々御番役をつとめた。
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岡崎藤吉氏表彰碑
神戸を拠点とした明治・大正期の関西財界を代表する岡崎財閥の岡崎藤吉氏は、育英・社会福祉への念篤く、これらの事業に多額の私財を投じている。特に郷里佐賀への思いが篤く、旧制佐賀高等学校(佐賀大学の前身)の建設、佐賀市社会福祉施設の拡充、佐賀育英会の創設などに寄与し、巨額の資金を寄付された。 この「表彰碑」はこれらの厚恩に対し、時の佐賀市長野口能毅が大正9年(1920年)10月、佐賀市松原(現佐賀中央郵便局辺り)に建立したものであり、昭和32年(1957年)に神野公園へ移設された。その後、年月を経て、現地保存が困難な状況となったため、氏ゆかりの佐賀大学に移設建立の運びとなった。 本碑の移設に伴い、氏の志が学生をはじめ市民の皆様に受け継がれることを願うものである。 令和3年1月 佐賀市長 秀島敏行