岡崎藤吉氏表彰碑

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岡崎藤吉氏表彰碑

■所在地佐賀市本庄町 佐賀大学構内
■登録ID5399

神戸を拠点とした明治・大正期の関西財界を代表する岡崎財閥の岡崎藤吉氏は、育英・社会福祉への念篤く、これらの事業に多額の私財を投じている。特に郷里佐賀への思いが篤く、旧制佐賀高等学校(佐賀大学の前身)の建設、佐賀市社会福祉施設の拡充、佐賀育英会の創設などに寄与し、巨額の資金を寄付された。
 この「表彰碑」はこれらの厚恩に対し、時の佐賀市長野口能毅が大正9年(1920年)10月、佐賀市松原(現佐賀中央郵便局辺り)に建立したものであり、昭和32年(1957年)に神野公園へ移設された。その後、年月を経て、現地保存が困難な状況となったため、氏ゆかりの佐賀大学に移設建立の運びとなった。
 本碑の移設に伴い、氏の志が学生をはじめ市民の皆様に受け継がれることを願うものである。
                             令和3年1月 佐賀市長 秀島敏行

出典:岡崎藤吉氏表彰碑説明板

【原文】

岡崎藤吉氏表彰碑(前面)

岡崎藤吉氏表彰碑
 子爵波多野敬直書 □□(落款)

岡崎藤吉氏表彰碑(碑文)

克聚鉅萬之富、而克散鉅萬之富者、往昔稱陶朱公、輓近稱米之加禰義。聚而不知散者、謂之守錢奴、散而不爲公共者、謂之

浪費者。此二者、非用財之道也。我肥之州、人材輩出、或以政治、或以文學、或以武事、有名於天下者指不遑屈也。而聚鉅萬之

富而克散之者、寥乎殆無聞。如岡崎氏藤吉、蓋其人歟。氏本姓石丸、舊佐賀藩士石丸六太夫之末子也。安政三年三月、生於

佐賀東田代小路之家、幼入藩校弘道館卒其業。既而負笈遊東都、入東京工部大學豫備門。未及入本科、而學資窮竭。乃去

爲兵庫縣一小吏、轉任同縣菟原郡魚崎村長。明治十四年、土佐人岡崎真鶴爲飾磨縣参事、深愛氏才、請爲養嗣子。因冒岡

崎氏、住於魚崎町。氏固有雄飛之志、不能久雌伏。乃棄官委身於實業。初以醞醸爲業、大得利益。遂被推而爲灘酒造家銀行

取締役、灘興業株式會社取締役。信望日加篤、尋任第三十八國立銀行取締役、山陽鐡道株式會社取締役、神戸電燈株式

會社取締役等。明治二十七年、氏大有所感、慨然曰、開拓我島帝國之運命者、其在海運業乎。乃悉擲從來之業務、專注心海

事、孜孜奮勵。商畧機敏、數博奇利、事業日益發展、終被選而爲日本船主同盟會理事。又歴任日本海上保險株式會社専務

取締役、大阪商業會議所議員、神戸海上運送火災保險株式會社長、岡崎汽船會社長、神戸岡崎銀行頭取等、以及今日。其

間、所得貲財不知幾鉅萬、積聚之富擬王侯。而氏不敢屑爲守錢奴、爲公共散之、毫無所愛惜。而特爲我佐賀市、投金拾萬圓

於佐賀高等學校創立費、金拾萬圓於佐賀市社會事業基本金中、以助其施設、市民深德之。是非其鄕黨之念厚、舊故之情
                                                                                    
深者、安能得如此哉。其他如投金拾六萬圓於佐賀縣育英會、金數拾萬圓於兵庫縣公共事業之類、不遑枚擧矣。嗚呼、氏富

而不忘基本、聚而克散。可謂有陶朱公、加禰義之風也。予時爲佐賀市長、乃茲錄其梗槩而刻于石、以表感謝之意云爾。

大正九年十月 

佐賀市長 從六位勲四等 野口能毅 誌

【読み下し文】

克(よ)く鉅万の富を聚(あつ)めて、克く鉅万の富を散ずる者、往昔(おおむかし)は陶朱公(とうしゅこう)と称し、輓近(ばんきん)は米(アメリカ)の加禰義(カーネギー)と称す。聚めて散ずるを知らざる者、之(こ)れを守銭奴と謂い、散じて公共の為めにせざる者、之れを浪費者と謂う。此の二者は、用財の道に非(あら)ざるなり。
我(わ)が肥の州、人材の輩出し、或いは政治を以て、或いは文学を以て、或いは武事を以て、名を天下に有らしむる者、指もて屈するに遑(いとま)あらざるなり。而(しか)れども鉅万の富を聚めて克く之れを散ずる者は、寥乎(りょうこ)として殆(ほとん)ど聞くこと無し。岡崎氏藤吉の如きは、蓋(けだ)し其の人なるかな。氏、本姓は石丸、旧佐賀藩士石丸六太夫の末子なり。安政三年三月、佐賀東田代小路の家に生(う)まれ、幼くして藩校弘道館に入りて其の業を卒(お)う。既にして笈(おい)を負いて東都に遊び、東京工部大学予備門に入る。未だ本科に入るに及ばず、学資窮竭(きゅうけつ)す。乃(すなわ)ち去りて兵庫県の一小吏と為り、同県菟原(うばら)郡魚崎村長に転任す。

明治十四年、土佐の人、岡崎真鶴、飾磨(しかま)縣参事たり、深く氏の才を愛し、請(こ)いて養嗣子と為す。因りて岡崎氏を冒(おか)し、魚崎町に住す。氏、固(もと)より雄飛の志有り、久しく雌伏する能(あた)わず。乃ち棄官して身を実業に委ぬ。初め醞醸(うんじょう)を以て業と為し、大いに利益を得たり。遂に推(お)されて灘酒造家銀行取締役、灘興業株式会社取締役と為る。信望日に加わること篤く、尋(つ)いで第三十八国立銀行取締役、山陽鉄道株式会社取締役、神戸電灯株式会社取締役等に任ぜらる。
明治二十七年、氏、大いに感ずる所有り、慨然(がいぜん)として曰く、我が島帝国の運命を開拓するは、其れ海運業に在るか、と。乃(すなわ)ち悉(ことごと)く従来の業務を擲(なげう)ち、専ら心を海事に注ぎ、孜孜(しし)として奮励(ふんれい)す。商略機敏にして、数(しば)しば奇利を博し、事業日に益ます発展し、終に選ばれて、日本船主同盟会理事と為る。又た日本海上保険株式会社専務取締役、大阪商業会議所議員、神戸海上運送火災保険株式会社長、岡崎汽船会社長、神戸岡崎銀行頭取等を歴任して、以て今日に及ぶ。
其の間、所得貲財(しざい)は幾鉅万なるかを知らず、積聚の富は王侯に擬す。而れども氏は敢えて守錢奴と為るを屑(いさぎよ)しとせず、公共の為に之を散じ、毫(ごう)も愛惜する所無し。
而(しこう)して特に我が佐賀市の為に、金拾万円を佐賀高等学校創立費に、金拾万円を佐賀市社会事業基本金中に投じて、以て其の施設を助くれば市民深く之を徳とす。是(こ)れ其の郷党の念厚く、旧故の情深き者に非ざれば、安(いず)くんぞ能(よ)く此(か)くの如きを得んや。其の他金拾六万円を佐賀県育英会に金数拾万円を兵庫県公共事業の類に投ずるが如きは、枚挙に遑(いとま)あらず。嗚呼(ああ)、氏は富みて其の本(もと)を忘れず聚めて克く散ず。陶朱公、加禰義の風有りと謂うべきなり。予、時に佐賀市長たれば、乃(すなわ)ち茲(ここ)に其の梗概を録して石に刻し、以て感謝の意を表すと爾(しか)云(い)う。

【現代語訳】

 力を尽くして巨万の富を成し、その富を公共の為に使った者に、大昔は中国春秋時代の陶朱公(※1)、最近ではアメリカのカーネギー(※2)がいる。
 富を成しながら公共の為に使わない者、これを守銭奴と言い、使っても公共の為でない者、これを浪費者と言う。この二者は何れも富を使う正しい道から外れている。
 我が佐賀からは才能のある優れた人がおおぜい世に出た。政治家、学者、軍人など、数えきれないほどいる。しかし、巨万の富を成しその富を公共の為に使った者はほとんどいない。岡崎藤吉氏は、思うにこの例外の人であろう。
 岡崎氏は生家の苗字が石丸であり、旧佐賀藩士石丸六太夫(忠雄)の四男八女の末子として、安政3年3月7日(1856年4月11日)、佐賀城下の枳(げす)馬場小路(※3)に生まれた。幼い頃に藩校弘道館に学び卒業している。
 その後上京し、東京工部大学予備門に入った。しかし、本科に進む前に学資尽きて夢を断ち、兵庫県庁の小役人となり、のちに菟原(うばら)郡魚崎村長となった。
 明治16(1883)年(※4)、第三十八国立銀行の初代頭取を勤めていた(※5)、高知出身の岡崎真鶴(まつる)が藤吉氏の才能を愛し、彼を養子にと望んだ。それゆえに藤吉氏は岡崎姓を名乗り、魚崎村(※6)に住むことになった。
 藤吉氏は以前から、活躍の夢を持っていたので、役人を辞め実業界に身を投じることになる。初めは酒造業で大きな利益を得た。
 そこで推されて灘酒造家銀行取締役、灘興業株式会社取締役となった。
 信用と人望は日が経つにつれ篤くなり、程無く第三十八国立銀行取締役、山陽鉄道株式会社取締役、神戸電灯株式会社取締役等を任された。
 明治27(1894)年、藤吉氏思うところがあり、気力を奮い起たせ、「我が島国の運命を切り開くのは海運業にある」として、それまでの事業を全て打ち捨て、海運業に全力投球した。商才にたけていたので、幾度も思いがけない莫大な利益を手に入れ、事業は日が経つにつれて益々発展し、ついに選ばれて日本船主同盟会理事となる。
 また、日本海上保険株式会社専務取締役、大阪商業会議所議員、神戸海上運送火災保険株式会社社長、岡崎汽船会社社長、神戸岡崎銀行頭取等を歴任して今日に至る。
 その間に築いた財産は、幾巨万になるか知らず、その富は昔の王様や諸侯に匹敵する程であった。
 しかし、藤吉氏は敢えて守銭奴となるを潔しとせず、公共の為にこの富を使い、些かも惜しむ所はなかった。
 特に我が佐賀市の為に金10万円を旧制佐賀高等学校創立費に、金10万円を佐賀市社会事業基本金に寄付して、その事業を助けたので、市民はその徳をほめたたえた。郷里を想う心が深くなければ、どうしてこの様な行いができようか。
 ほかにも金15万円を佐賀育英会に(※7)、金数十万円を兵庫県公共事業に寄付するなど、数えきれない程である。
 ああ、藤吉氏は資産家になっても、郷里のことを忘れず、富を成しては公共の為に使った。陶朱公、カーネギーの風格があると言えよう。
 私は今、佐賀市長の任にあるので、その事績のあらましを書き記して石に刻み、感謝の気持ちを表す次第である。

大正九(一九二○)年十月
佐賀市長従六位勲四等 野口能毅 誌す

※1 陶朱公:范盠(はんれい)。中国春秋時代末期の政治家、財政家。越王句践(こうせん)に仕えて、越が呉に敗北したあとの再建に努力し、ついに呉を破ることに成功した。しかし越が覇者になった後、一族をつれて斉に移り、鴟夷子皮(しいしひ)と名を変えて一から財を築き、大富豪となった。やがて人々に推挙されて斉の宰相となったが、まもなく辞し、資産を友人たちに分与して、交通の要衝、陶(現在の山東省定陶)に移り、陶朱公と名乗って、再び巨万の富を得たという。
※2 カーネギー:アンドリュー・カーネギー(andrew carnegie 1835〜1919)。アメリカの実業家。スコットランドで生まれ、家族とともにアメリカに移住。のちに製鋼業に成功して、巨富を築いた。事業で成功を収めた後は、教育や文化の分野に巨額の資金を投じ、慈善事業にも力を注いだ。ニューヨーク・カーネギー財団、カーネギー国際平和基金、カーネギー研究所、カーネギーメロン大学、カーネギー教育振興財団、カーネギー博物館などの創設に多額の資金を提供した。
※3 碑文には「佐賀東田代小路」とあるが、実際は枳馬場小路北側弐番である。(『明和八年佐賀城下屋鋪御帳扣』公益財団法人鍋島報效会、2012年、42頁。石丸要右衛門の項参照。)
※4 碑文には養嗣子になった年は「明治十四年」としてあるが、実際は明治16年である。(岡崎忠雄著『青海偶語』月曜会、1958年、135頁)
※5 義父真鶴の職業は、碑文には「飾磨県参事」とあるが、実際は第三十八国立銀行初代頭取である。(岡崎真雄著『岡崎家の歴史』2014年、269頁。「岡崎家主要年譜」岡崎真鶴の項。明治10年(1877)に同行を設立し、頭取に就任。飾磨県庁は明治9年に退官している。)
※6 碑文には「魚崎町」とあるが、正しくは魚崎村である。(『兵庫県大百科事典』(上)神戸新聞出版センター、1983年、1505頁。町制移行は明治22年4月1日。)
※7 碑文に「佐賀県育英会」とあるが、正式名称は「佐賀育英会」。佐賀育英会への寄付額は、碑文では「金拾六万円」とあるが、実際は15万円である。(『佐賀育英会七十年の歩み』(佐賀育英会、1992年)21頁上段に「拾五万円岡崎藤吉」とある。なお、「一万円」の項に岡崎忠雄とある。)
※ 碑文の礎石には「石工 増田勝七」と記されていた。
※ 石材ー緑泥片岩
  石工ー福岡市 増田勝七

出典:石碑原文他