検索結果 RESULT
[建造物][碑][循誘校区]は5件登録されています。
建造物 碑 循誘校区
-
長徳寺の芭蕉塚
昔天明、寛政の頃に無漏庵菊亮という俳人がおり、本名は副島作次右衛門といって、芭蕉門下五十年に及んで修行してその名を全国に響かして、佐賀の俳句の世界では中興の祖と呼ばれていたが、寛政5年3月、芭蕉の百回忌に際してこれを記念し、かつ、冥福を祈念して東佐賀町の長徳寺に、高さ1.93メートルの自然石の表面に次の句を刻み建立した。 『馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり』(この句は、小夜の中山(静岡県金谷駅の北の一名所で東海道の一難所)で詠んだ句)の真筆を埋め、その上に碑を建立したもので当時肥前の俳人悉く集まり、盛大に供養を営んだといわれている。松尾芭蕉は、伊勢の津で有名な伊賀上野赤坂町に生まれ、幼名を金作といい、後に宗房と名のり、通称を甚七郎または、藤七郎、忠右衛門(忠左衛門)といった。弱年のときから、上野にいた藤堂家の若君良忠(よしただ)の近習に選ばれたが、良忠は、大変学問が好きで俳諧も北村季吟に学び、蝉吟(せんぎん)と号していたので、芭蕉もその感化を受けるようになった。 寛文2年(1662)19歳の12月29日が立春であったので『春や来し年や行けん小晦日』の句を残したが、これが芭蕉の句として知られているもっとも古いものである。 『野ざらし』の旅から帰った翌年の春、『古池や蛙飛びこむ水の音』の句を得て、芭蕉独自の詩世界が開けたのである。芭蕉のもっとも大きな旅行は、元禄2年(1689)46歳のときの陸奥、出羽、より北陸の旅であった。『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いをむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす、古人も多く旅に死せるあり、予もいづれの年よりか、片の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず』こういう書き出しで始まる『奥の細道』は、芭蕉の紀行文のなかでもっとも優れたものである。幾度か文を改め、句を作り替え、ねりにねって完成したのは5年後の元禄7年のことであった。元禄7年5月には九州への旅を思い立って、芭蕉の子ども次郎兵衛をともなって江戸を出、故郷へたちよって大阪へ入ったのは9月9日であったがそこで病気になり、10月12日の夕刻に51歳でなくなった。辞世の句は、その8日に詠んだ『旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる』である。佐賀県内には、唐津市、伊万里市、佐賀市等に芭蕉の句碑があり、蓮池公園には、『一声の江に横たふやほととぎす』の句碑がある。
-
種痘の先駆者、大石良英の墓地と記念碑
佐賀城本丸歴史館に掲げられるひときわ大きい絵図がある。「直正公嗣子淳一郎君種痘之図」である。佐賀藩主・鍋島直正公が、長男の淳一郎君(のちの直大公)の種痘に立ち会っておられる。 当時、天然痘が猛威をふるい、多くの人が亡くなった。このころ輸入された、唯一の予防法である種痘は牛の痘苗を接種するのであるが、それを嫌がる人が多かった。そこでお殿様みずからが、嫡子に種痘させ、江戸在住の息女、貢姫にも接種された。これが成功したことにより種痘は全国的に普及し、多くの人命が救われることになった。それは我が国の予防医学の先駆けともなったのである。 この種痘之図は全国的に有名であるが、この図で種痘をしている医師が大石良英である。 良英は佐賀県立病院好生館設立当初から教導方として医療の指導にあたるなど、蘭学医として大きい功績を残した。 願正寺には大石家一族の墓地がある。平成18年、県内の医療関係者を中心に墓地整備と、顕彰碑設立が思い立たれ、顕彰碑は参道に設置された。顕彰碑には日展審査員,成冨宏氏による「種痘之図」のブロンズのレリーフがきざまれている。
-
勤皇僧、離蓋の顕彰碑
幕末の動乱の中、西本願寺は勤王の志あつく、朝廷を中心とした近代国家を築き、外国の圧力に負けない国造りに尽力した。 本願寺門主の意向を受けた、当時の願正寺住職は、寺役の僧、離蓋に命じ勤皇の仕事に当たらせた。 離蓋は寺内の密室で、勤皇の志士たち、すなわち、若き頃の副島種臣、大木喬任、江藤新平、島義勇、大隈重信などの会合に便宜を図り、また僧形で全国を回り、資金を集め、各地の動乱の中にあって情報を収集し、志士達の活動に協力をした。 明治維新により志士たちは立身出世を遂げたが、離蓋は一野僧に甘んじた。時の権力者になって、東京の築地に邸宅を構えた大隈重信に、「恩返しをしたい、一生、面倒を見たい」と頼まれ上京した。 そのころ、神道を国教とする政策がとられ、廃仏毀釈のあらしが全国を襲い、廃寺させられる寺が続出し、反抗した僧侶が死罪に処せられたりする事態が起きた。 離蓋は安逸の老いの身を投げうって、政府の高位高官の間を奔走し、この国家的迷走の非なることを言を尽くして説いて回った。その働きもあって、この嵐が沈静化した。離蓋は晩年、盲目となり、佐賀に帰り、願正寺のそばの家でひっそりと波乱の生涯を閉じた。 離蓋没後、顕彰碑建立の計画があり、碑の上部に、時の本願寺門主、明如宗主の「護国扶宗」の篆書が準備された。離蓋は護国すなわち明治維新の成立を助け、近代国家となって外国の侵略を防ぎ国を護ったという意味である。扶宗は宗、すなわち仏教を助けたという意味である。 また碑文は副島種臣伯の撰文で、離蓋が明治維新の成立と廃仏毀釈の鎮静化に貢献したことが述べられている。碑文そのものは中林梧竹の書である。しかしこの碑は、当時はついに建たず、昭和の戦時中に、時代の流れもあり、建立の動きがあったが、これも終戦となって沙汰やみとなった。 たまたま離蓋の没後120年を迎え、当時の碑文の写真原板が残っていたことで、三度目の思い立ちがあり、平成19年に顕彰碑が建立された。
-
八田江改修記念碑
この記念碑は佐賀江川と大崎の八田江を結ぶ河道が完成したことを記念する碑である。 佐賀江川は佐賀平野の北部や佐賀市内の排水の役割を担っているが、梅雨時の大雨や台風の大雨で、度々その能力を越え上流に洪水をもたらした。 一方八田江も市内を回流した水を大崎から有明海に排水する機能としてきた。しかし泥土の堆積によって排水能力が落ち、台風による高潮で下流地域ではしばしば大きな被害を出してきた。 これらを解決するため、枝吉の佐賀江川と大崎を結ぶ河道を開削した。枝吉に水門を設け、平時は閉じ、雨量や川の水位を見て開閉して調整している。 しかし、現在のように排水設備が完成するまでは、佐賀江川上流と八田江下流の利害が対立し、水門の開閉をめぐって水争いがあったそうである。 昭和末頃の大雨時には川副幹部が、この水門を視察している姿も見られた。 なお、この河道を掘削した土は、龍谷学園西側の堀の埋めたてに使ったり、師範学校生徒の手による運動場整備に使われたそうである。
-
ノルマントン号海難事故と中林梧竹筆、八谷種次郎遭難追悼記念碑
明治17年清国より帰国後4年目の中林梧竹が精魂を傾けて揮毫した碑である。 てん額、碑文とも同一書者という極めて異例の形式で、双方とも藩存直伝のてん隷技法を駆使して書かれたわが国近代書道上、本格的てん隷書の先声をなすものとして注目され、関係者の見学が多い。 海難事故は、明治19年(1886) 10月23日、横浜港から神戸港へ向かっていた英国籍の汽船ノルマントン号が、翌24日午後10時頃、和歌山県沖で暗礁に乗り上げ遭難した。一瞬にして、日本人乗客25名が船と運命を共にした。 八谷種次郎は、佐賀市蓮池町に居住し、裁縫業と靴製造業に携わり財力豊かな生活であった。父の意を受けて上京し十分修業をして、その帰途に遭難したが年29歳であった。 当時は、日本人乗客25名を船中に置き去りにして、船長以下の英国人が離船したことに対する国内世論が沸騰した。一方政府は、英国との間に条約改正の談判交渉中でもあったので、この事件の追及で、英国の感情も害しない周到な用意も必要で、政府は世論の沸騰と条約改正の狭間に立って苦境に追いこまれた。 とにかく、その後いろいろの経緯があって、同年12月8日に至り、船長ドレークは、自己の職責を怠り、日本人船客25名を見殺しにしたものと判決され、 3月の禁固に処せられた。 八谷種次郎の碑の碑文には、八谷種次郎は肥前の人なり。商工をもって裕国厚民の源となし、東京に至りて視察せり。帰付に及び、英国ノルマントン号の愉船のみ明治19年10月24日紀州洋に行き至り触礁沈没す。船長ドレークのなすところに因る。20余人と同じく難に及ぶ。時に年、29にして子1あり。哀れむべきのみなり。明治21年建。中林梧竹書 碑石質は、『透角閃石かんらん岩』で別名を『竹葉石』『斑石』または『笹石』『町屋石』とも云って、茨城県と熊本県の産で大変高価で珍石と云われている。