勤皇僧、離蓋の顕彰碑

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勤皇僧、離蓋の顕彰碑

■所在地佐賀市呉服元町6-5 (願正寺)
■年代近代
■登録ID2536

幕末の動乱の中、西本願寺は勤王の志あつく、朝廷を中心とした近代国家を築き、外国の圧力に負けない国造りに尽力した。
本願寺門主の意向を受けた、当時の願正寺住職は、寺役の僧、離蓋に命じ勤皇の仕事に当たらせた。
離蓋は寺内の密室で、勤皇の志士たち、すなわち、若き頃の副島種臣、大木喬任、江藤新平、島義勇、大隈重信などの会合に便宜を図り、また僧形で全国を回り、資金を集め、各地の動乱の中にあって情報を収集し、志士達の活動に協力をした。
明治維新により志士たちは立身出世を遂げたが、離蓋は一野僧に甘んじた。時の権力者になって、東京の築地に邸宅を構えた大隈重信に、「恩返しをしたい、一生、面倒を見たい」と頼まれ上京した。
そのころ、神道を国教とする政策がとられ、廃仏毀釈のあらしが全国を襲い、廃寺させられる寺が続出し、反抗した僧侶が死罪に処せられたりする事態が起きた。
離蓋は安逸の老いの身を投げうって、政府の高位高官の間を奔走し、この国家的迷走の非なることを言を尽くして説いて回った。その働きもあって、この嵐が沈静化した。離蓋は晩年、盲目となり、佐賀に帰り、願正寺のそばの家でひっそりと波乱の生涯を閉じた。
離蓋没後、顕彰碑建立の計画があり、碑の上部に、時の本願寺門主、明如宗主の「護国扶宗」の篆書が準備された。離蓋は護国すなわち明治維新の成立を助け、近代国家となって外国の侵略を防ぎ国を護ったという意味である。扶宗は宗、すなわち仏教を助けたという意味である。
また碑文は副島種臣伯の撰文で、離蓋が明治維新の成立と廃仏毀釈の鎮静化に貢献したことが述べられている。碑文そのものは中林梧竹の書である。しかしこの碑は、当時はついに建たず、昭和の戦時中に、時代の流れもあり、建立の動きがあったが、これも終戦となって沙汰やみとなった。
たまたま離蓋の没後120年を迎え、当時の碑文の写真原板が残っていたことで、三度目の思い立ちがあり、平成19年に顕彰碑が建立された。

出典:「葉隠研究」第55号 平成17年3月25日、他

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