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[建造物][地蔵・銅像・石塔][高木瀬校区]は6件登録されています。
建造物 地蔵・銅像・石塔 高木瀬校区
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馬頭観音
平尾天満宮前の道端にあったものを、平成19年護岸工事の折、天満宮境内に移設されている。設置された年代は不詳であり、天満宮境内には馬の立像が設置されているが、馬頭観音との関係はないと思われ、絵馬のようなものだろうと、地域の古老は言われている。 平尾は、以前馬を飼育したり、墓地があったり、馬とのかかわりが多かった地区であった。
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木起地蔵
平尾地区河原の東の田の中に、国分寺総門の跡であると伝えられる所がある。昔この所に大きな樟の神木があった。文政11年(1828)8月の大風にこの樟が根元から倒れ、かたわらのお地蔵さんの堂宇に落ちかかろうとした。そこで庄屋蒲原忠右ヱ門が村民と協議し、明朝になってから大和町小川村の木こりに頼んで、この樟の木を伐採しようとした。その夜ふけ丑の刻になって、エイエイと騒がしい人の声がした。村人はこれを怪しんだが、翌朝になってみると樟の大木は元のように立ち直っていた。さては昨夜ヱイエイとかけ声をかけて樟の木を起したのはお地蔵さんであったろうということになって、それからはこのお地蔵さんを木起しの地蔵と呼ぶことになった。その時から参詣の老若男女が非常に多くなって時には代官所から参詣を差止めるようになった程であるという。又お詣りすればいぼがなおるということで一名いぼ地蔵さんとも呼ばれていた。この地蔵さんも今は平尾天満宮の境内に建てられた一宇の堂に安置されている。 庄屋蒲原忠右ヱ門の屋敷は、大塚八郎氏宅の裏の畑の所にあった。今も畑の隅に 屋鋪大明神 慶應二丙寅 願主 蒲 原 忠 平 と誌された石のほこらが残っている
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弘法大師像
修行姿の大師像で台石からの高さは約3m程ある。 台石の前面には、修行大師遍照講と刻まれている。 また、左面には、「夫レ我中四国八十八ヶ所ハ大正七年九月新設シテ一市拾ヶ村二亘ル寶スル者日二日二多ク霊験新ナリ茲二特志者寄進ヲ稟ケテ本尊修行姿弘法大師ヲ安置シ奉ル寔二之吾遍照講ノ記念ナリ矣」大正十二年三月一日 遍路講代表者 村川良禅 と刻まれており、遍照講篤志者の寄進により建立されたことが判る。 なお、建立当時の所在地は現在のウエストうどん店付近であり、昭和30年代に現在地に移設されている。
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石佛さん
平尾天満宮境内に通称、「三日月さん」と呼ばれ、古老の話では、佐賀戦争の戦死者を祀ったものとも言われている、円形の自然石がある。石には南無阿弥陀仏の刻字があり、大乗妙典経塔のようなものと推測されている。 また、平尾天満宮から西に100m位の土手のところにも円形の自然石に刻まれたものがあり、地元では石佛さんといってお参りをしている。 地元の人は、二つの石ともにお花をお供えして祀られており、天満宮境内の石を「日」、土手の上のものを「月」といい、何らかの深い関係があるのではといわれている。
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お地蔵さん(いぼ地蔵)
寄人天満宮西北100m余の所にお地蔵さんが立っておられる。2、3坪の狭い敷地であるが、誰が植えたのか桜の木が2本あった。いぼ地蔵さんと称して、心ある人のお参りがあっていた。 台石に、三界萬霊 施主 小林平右ヱ門 享保十二年十月吉祥日 とあるから、長い間おつむも丸く、ほほえみ立たせ給うたのであろう。享保といえば、4年の台風、9年の干ばつ、大風雨による大損毛、11年の大雨、高潮による大被害と打続く飢きんに幾多の餓死者を出した年代であるから、その霊を弔うため施主が地蔵さんを建てたのであろう。子ども達は、昭和45.6年頃までは盆の16日に、家々から盆提灯をもらい、豆を炊いて村人を招待し祇園祭を行っていて、このお祭りを豆祇園といっていた。この地蔵さんは、今は住宅地の陰に淋しく隠れておられる。
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アラヒト(現人神)さん
別名、のど痛みの神様という。 奉建立 阿羅比登神社 猿田彦神社 十方信者祈願天下泰平五穀成就 維持 昭和九年四月上旬 大工 永渕喜八 願主敬白 アラヒトさんは、いわゆる現人神で、神様がこの世に人となって現れて悩める人を救い給うという信仰である。このアラヒトさんはのど痛みの神様として有名である。 隣りの地蔵さんは「いぼ地蔵さん」ともいわれ、信心すればいぼが直るといって庶民の信仰が厚かった。 奉再建 六道能化 佛地蔵願王大菩薩堂一宇 願似此功徳善及於一切 昭和三年 陽春吉日 お堂の棟木にはこのように書いてあり、四足堂に並んでおられる。