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[建造物][学校][本庄校区]は7件登録されています。
建造物 学校 本庄校区
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寺子屋の話
江戸時代に庶民の日常的な算用等の心得を授けるため、自然発生をした教育機関で普通寺子屋と呼んでいる。 寺子屋の師匠は僧侶や武士、神官、医者、庄屋等で主として師匠が自宅を開放している。寺子屋は藩学とは大きな違いがあって、一般に就学の年齢は自由で5・6歳から、約3〜7年間位学んだ。収容人員も大変少なく、一つの寺子屋で10人〜40人位までが普通であった。 教育内容は、読み、書き、算盤で教科書としては、実語教、童子教、庭訓往来等の実学が大部分を占めており、四書(大学、中庸、論語、孟子)の素読を受けている所もある。 女子には百人一首や女大学、女今川等を教え、年中行事の一つとして、七夕祭には、吉書を書き、書技を競ったりしていた。 明治5年(1872)学制施行前の寺子屋。 私塾の状況 1.高柳寺子屋 村岡 私平 2.西川内寺子屋 中溝 養朝 3.正里寺子屋 久米 栄吉 4.鹿子下区龍昌寺 服部 平左エ門 5.満穴西光寺 広木 仁海、増田喜太郎 6.中島寺子屋 淵井 兼介 7.末次寺子屋 林 敬人 8.袋柳郷塾 柳郷 虎一 9.袋手習所 角田 権一 10.西八田私塾 夏秋 作衛門 11.上飯盛寺子屋 高木 長庵
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普通教育
1.篤信小学校 明治19年(1886)5月初等中学科教育の目的を以て大字一本松に創立した。尋常校は、就学児童の増加にともない、後には民家や寺院等を使用し篤信小学校の分校として教育を施して来た。 (当時は5分校であった) ☆本荘の部−本荘村、厘外村(人口1.964人) 1.本荘小学校(本荘村の内溝口分) 2.東本荘小学校(本荘村の内東分) ☆鹿子の部−鹿子村、末次村(人口1.350人) 3.鹿子小学校(鹿子村の内鹿子上分) 4.末次分校(末次村の内西分) ☆八田の部−新郷村、袋村、末次村(人口1.435人) 5.八田小学校(新郷村の内字八田分) 2.與賀高等小学校 明治25年(1892)6月與賀三村連合組合会の議決をもって、篤信小学校となってから、境内の拡張校舎の増築を数度なして来た。同40年(1907)小学校令改正の結果、高等1、2年生のみを置くこととなり、同43年より農業校を附設することになった。
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国立大学法人佐賀大学
佐賀大学は、昭和24年(1949)5月に国立学校設置法の公布により文理学部、教育学部の2学部として発足する。昭和30年(1955)に農学部設置、昭和41年(1966)に文理学部を改組し、経済学部、理工学部及び教養部を設置、以後、組織の改組・拡充を重ね、平成15年(2003)10月に旧佐賀大学と旧佐賀医科大学が統合、平成16年(2004)の法人化に伴い、国立大学法人佐賀大学となる。海洋エネルギーの研究を始め、シンクロトロン光による応用研究、リチウム電池の研究など数多くの研究成果を発表している。
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菊楠(きくなん)シュライバー館
大正15年(1926)に木造2階建として建てられた旧制佐賀高等学校の外国人教師公舎を学内に移築・復元し、公募により「菊楠(きくなん)シュライバー館」と命名した。現在、佐賀の歴史文化研究教育の拠点として平成18年(2006)4月に発足した佐賀大学地域学歴史文化研究センターとして活用している。
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星共小学校
明治21年(1888)9月鹿子及び袋両所にあった旧藩の焔硝蔵を解体し、本荘村字灰塚に改築し、分校の名称を脱し、初めて独立の尋常小学校を星共小学校と改める。(現在の本庄小学校の前身となる。) 敷地面積1反6畝歩、建築は48.5坪の2階建であった。(明治22年(1889)4月1日市制・町村制施行時に鹿子村、袋村、末次村、厘外村の内正里を合併し、本荘村へ編入する)
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本荘尋常小学校
明治21年(1888)9月鹿子及び袋両所にあった佐賀藩の焰硝蔵を解体し、本荘村字灰塚に改築し、分校の名称を脱し、初めて独立の尋常小学校を星共小学校に改める。 明治25年(1892)4月小学校令改正に際し、本荘尋常小学校と改める。 以下現在までの沿革を記しておく。 明治41年(1908)4月−義務教育の延長により、第5、第6学年を置く。 大正5年(1916)4月−高等科を併置し本庄尋常高等小学校と改める。 大正11年(1922)3月−上飯盛出身の中野實翁より、校舎新築資金5萬圓の寄付により講堂、校舎が落成する。(各区より総参加の仁○加でお祝いをなす。) 昭和7年(1932)4月−佐賀県女子師範学校代用附属として開校する。 昭和12年(1936)8月−児童の宿泊訓練所として農道館建設。 昭和16年(1941)4月−本庄村国民学校と改名。 昭和22年(1947)4月−新学制実施により、本庄小学校と改名。
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正里寺子屋の跡
福山晴大氏宅地東北隅には麦藁葺き平屋の正里寺子屋跡の建物が残っていましたが、平成3年(1991)秋の台風で倒壊しました。当時の所管は久米栄吉師匠で、約十数名の少年達が学んでいたそうで、明治維新の英傑大隈重信(八太郎)も見かけたと言います。