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[指定文化財][史跡][赤松校区]は4件登録されています。
指定文化財 史跡 赤松校区
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大隈重信旧宅
重要文化財
佐賀城下の東部にあって東西に通るいわゆる「佐賀の七小路」は北から順に「馬責(うません)馬場・通り・椎・花房・中の橋・枳(げす)・会所」の各小路で、佐賀藩の中流クラスの石高の武士が住いしたところである。大隈重信の旧宅はこの一番南の会所小路の南側にある敷地約315坪(1039.5平方メートル)、建坪約45坪(148.5平方メートル)の佐賀地方に多い「コ」の字形をしたかぎ屋の一部平屋、一部2階造りの家である。2階は重信の勉強のために母親が建て増したものといわれている。 大隈重信は、天保(てんぽう)9年(1838)この家で父大隈信保、母三井子の長男として生まれた。父信保は鉄砲組頭(くみがしら)などをつとめた人で、天保3年(1832)にこの家を買得した。重信は誕生以来ここを住居とし、幕末動乱期国事(こくじ)に奔走(ほんそう)し、明治元年(1867)ここを去って東京へ移った。 旧宅は建築当初からすると2間ばかり北にひかれ、玄関に改造のあとがあり、また台所は撤去されて管理部屋が付設されるなど、少し改造されているが、座敷・次の問・居問等の主要部はよく残っている。また、昭和43年(1968)に解体修理されている。 現在、佐賀城下の武家屋敷は屋敷の門をのぞいてはほとんど残っていない。その意味からも大隈重信旧宅は佐賀城下の一般的な武家屋敷のありようを示すものとして貴重なものといえる。
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佐賀城跡
史跡
佐賀城は、佐賀平野の低平地に築かれた、最も幅広の所で約72メートル(40間)の堀に囲まれた典型的な平城である。この城は、天正年間に整備された龍造寺氏の村中城を拡張し、慶長13年(1608)から慶長16年まで鍋島直茂・勝茂親子の佐賀城総普請により完成した。その際、本丸・二の丸の曲輪は新たに付け加えたといわれている。慶長年間に描いたとされる「佐賀小城内絵図」の本丸には、五層の天守閣と多くの殿舎が描かれており、本丸が佐賀藩の象徴であったことがうかがわれる。 佐賀城は、大きな火災に二度遭っている。享保11年(1726)の火災では天守をはじめ本丸・二の丸・三の丸のほとんどが焼失し、享保13年に二の丸、宝暦5年(1755)に三の丸が再建された。その際本丸の再建は見送られ、二の丸が藩政の中心となった。天保6年(1835)再び火災に遭い、二の丸が焼失したため、10代藩主鍋島直正は110年ぶりの本丸再建を表明し、「佐賀城御本丸差図」が作成された。天保9年(1838)には直正が新築成った本丸に入り、佐賀藩の雄藩化や日本の近代化に大きく貢献していくことになった。 佐賀城の発掘調査は、これまでの調査で、石垣や堀などの曲輪を区画する遺構や通路跡を断片的に確認しているが、平成5年(1993)から平成13年の間に実施した本丸跡の調査では建物礎石のほか、多くの遺構が残存していることがわかった。 本丸は、北側・西側・東側の一部を石垣で、東南半と南側は土塁で囲んでいる。寛政6~10年(1794~98)には本丸南側に石搦が築かれたことが記録されており、調査により築城期より南側に7メートル拡張し、赤石(安山岩質凝灰角礫岩)を積み上げていることが明らかになっている。本丸の規模は、東西が二の丸との間の水路から三の丸との間の堀まで194メートル、南北は鯱の門東側石垣から南堀までが190メートルある。本丸内部では、東西が土塁の内側で(東・西とも土塁の幅を14メートルとした場合)158メートル、南北が広い東側で(南側土塁は幅を21メートルとした場合)162メートル、最も狭い天守台南側で(土塁幅を21メートルとした場合)105メートルある。天保期の「佐賀城御本丸差図」に描かれている御玄関・御式台・外御書院・御料理間・御座間・御台所等の建物跡は、差図とほぼ一致する状態で確認されているが、大御書院・大溜・御舞台については、差図と確認された遺構が一致しないことから、この部分にあたる遺構は嘉永期の差図に描かれている皆次郎様御住居・御会業之間等の建物跡であることが明らかになっている。御式台・外御書院・御料理間等の建物礎石の基礎は、礎石ごとに砂利や玉石を使い基礎を固めているが、御納戸や屯之間等の基礎は幅約1メートル、深さ約1.5メートルの溝を柱筋に掘り込み、最下部に松の丸太を組み合わせて置き、その上に粘土混じりの砂と割った瓦を交互に重ねて地固めし、最後に礎石を載せている。このことは、「御手許日記」の、工事費を節約するために松と「赤石」を使って基礎とするという記録と一致する。また天保期再建の建物礎石の約0.5メートル下からは、享保期の火災時の灰をかぶった状態で建物礎石が見つかっており、この礎石は慶長期のものである可能性が高い。 佐賀城跡は、堀の一部は埋められているものの、当時の趣をよく残している。また、西国の近世城郭では石垣普請による城郭構築が一般的であるが、石垣と土塁を併用した例はあまりなく、天守台は、本丸内部から登る通路がないことなど、他の城郭と比較しても特異である。特に本丸内部の建物遺構は、築城期から廃城期までの変遷を追うことができ、天保期再建時の建物群は、礎石の遺存状況の良好さに加え、その規模の大きさ、本丸内部に占める密集度など本丸御殿の様相をよく表している。本丸御殿は、御玄関・御式台・外御書院などの「表」の部分、藩主の居室である御座問などの「中奥」、長局などの「大奥」機能に加え、請役所や御懸硯方の「役所」機能も取り込んだ、藩政のまさに拠点としての役割を果たしている。近世の城郭で本丸内部を発掘調査した事例は少ない上、「表」・「中奥」・「大奥」機能に「役所」機能を付随した発掘調査例は希少で、城郭史・建築史の観点からも非常に貴重な資料である。
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万部塔と六地蔵
史跡
万部島は、かつて、佐賀城の東堀と多布施川に囲まれた文字通りの島であった。城内から舟で、あるいは裏御門を通り向陽軒(東屋敷)から陸伝いに参詣するようになっていた。 万部島には数種類の石造物が建立されている。 万部塔は、佐賀藩の代々の藩主又は、嫡男が自ら願主となって「国家安泰・万民安楽」を祈願しての法華経一万部読誦の結願石塔11基が整然と並び建っている。その形式はすべて同じで、台石、蓮華台、棹石(上部三角)の四部分から構成され、高さはもちろん、問隔礎石の大きさに至るまで、まったく同じ形状寸法である。 現在は塔群のみであるが、かつては万部堂仁王門など付設してあったと伝えられている。 万部執行は、近世に入って各藩で行われていたが、佐賀では鍋島以前、龍造寺山城守家兼(剛忠)が、永正2年(1505)3月、天亨和尚(剛忠の弟で水上山万寿寺の僧)を導師として野田石見が奉行となって執行したのが最初である。 鍋島氏になってから初代藩主勝茂が、かつて脊振千坊の流れをくむ金乗院(天台宗、吉野ヶ里町目達原)の玄純僧正に「国家安全と万民安楽の道」をたずねた折、僧正は「法華経一万部の読誦による功徳は限りないものがある」と即答したことによってはじめられたと伝えられている。名代の藩主又は嫡男が1基あて建立しているが、藩主自ら願主となっての祈梼法要は領民との融和を図るのに大きな役割を果たしたと思われる。 また、龍造寺家兼(剛忠)ゆかりと伝えられる六地蔵2基が現存している。 南側の六地蔵は、高さ1メートル60センチ内外で竿石の中央に「天文弐暦十一月廿八日」とあり、「願主権大僧都弁仁 大工亦七郎」と刻まれている。通例の形式の石製六地蔵である。笠石は二重の四角形で両角の部分が角瓦をおもわせるような耳付をみせている。 北側の六地蔵は南側よりも全体が高く、台石から笠石まで2メートル50センチ内外で、礎石を兼ねた下部の支柱と台座を支えている上部の竿石からなっており、その上に台座と蓮華台がある。塔身は、尊像が上下二段に刻まれており、下段は立像の六躰地蔵で、地蔵列の肩上にさらに並列する六軀の彫像があって六角形の笠石がその上にかぶさっている六尊六地蔵塔である。 竿石の中央には、「天文二二年乙未霜月七日 大周壽成建○」と刻まれているが、全体の摩滅が激しく判読しにくい。 (写真:鍋島報效会提供)
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龍造寺隆信誕生地
史跡
肥前を代表する戦国大名、龍造寺氏は現佐賀市城内一帯の小津東郷龍造寺村の地頭から、戦国の争乱の中で次第に東肥前地方に勢力を伸ばしてきた。明応の頃(1492〜1501)に、本家の村中龍造寺家と、分家の水ヶ江龍造寺家とに分かれて、群雄に対する防備を固めた。 龍造寺隆信は、享禄2年(1529)2月15日水ヶ江城東館天神屋敷で生まれた。天文5年(1536)7歳のとき宝琳院(ほうりんいん)に入って出家し、円月と号し、また中納言と称した。 天文15年(1546)3月、曾祖父龍造寺家兼(剛忠)が93歳で死去した。家兼の遺志により、中納言は還俗して胤信(たねのぶ)と称し、水ヶ江龍造寺家を継ぎ、翌々年の天文17年に村中龍造寺家も継いで、龍造寺宗家の当主となり、山城守隆信と称した。 肥前・壱岐・対馬・筑後を平定し、肥後北部の諸将を従属させ、西筑前の九郡と豊前の北半を領有し、天正8年(1580)ごろ、五州二島の太守と称され、竜造寺氏の全盛時代を築いた。 誕生碑のかたわらに胎盤を納めた胞衣塚(えなづか)がある。形状は高さ1.10メートルで、1.90メートル四角である。