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[神社仏閣][神社][開成校区]は5件登録されています。
神社仏閣 神社 開成校区
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権現神社(権現さん)
開成二丁目の権現社の創建の年は定かではないが、ご神体に安永8年(1779)創建の記録があるところから推察すれば、享保12年創建の記録がある開成三丁目のお地蔵さんより以前の享保年間初期(1716)の頃に新村の創始者達により新村の鬼門の守神として祀られたものと推察される。 昔、村内の若者たちが軍隊入営や太平洋戦争に出征する時には、村民総出で社前で盃を酌み交わし武運長久を祈り、社前より日の丸の小旗を振り軍歌を歌いながら鍋島駅まで見送りしていた。 また、凱旋、退営の場合も村民と共に社前に額づき無事の帰還を報告していた。その後戦争が激しくなり、凱旋する者もなく終戦での報告会はなくなった。 また、境内の北の堀端には直径1m以上、高さ約40mの松の大木があり、その天辺に太平洋戦争期間中、日の丸の旗が掲げられ、出征兵士の武運長久を祈って、はためいていた。 当時は、見渡す限りの水田地帯で、遠くから日の丸の旗を見ることができ、鍋島駅からの出征の時には、遠く汽車の窓から見て涙したことが思い出される。 昭和20年の終戦を期に日の丸の旗は降ろされ、また、松も昭和23年の台風と松食い虫により枯れてしまった。戦後の混乱期とはいえ何か手当てが無かったかと、悔やまれてならない。 また、各家では鬼門(家の北東)の方に家の中央さんやお稲荷さん等の石仏を厄除けに祀る風習があった。近年は昔のような信仰心も薄れ、祀ることが大変で粗末に成るので、権現社の境内が神域ということで、大松の根元辺りに預けてお祀りしてあった。また、自分の屋敷内の大きな樹木を切る時には、その樹木の代わりに小さい木を境内に献木として植えて、自分の家の切る木の霊を慰めていた。
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日子神社(権現さん)
歴代の佐賀藩主は、豊前(福岡県田川郡)にある英彦山権現を信仰していた。藩主は英彦山権現の信仰を広げ、幕末になると佐賀藩では他領の神社や寺院への参拝を禁止したが、伊勢大神宮や英彦山参詣は例外として許された。 従って、八戸溝の人々は、英彦山や伊勢大神宮詣でをするようになり、八戸溝に氏神として「日子神社」を建立したものと思われる。「日子」と言うのは「英彦」の俗字(あて字)であり、英彦山権現のことであり、祭神「日子」は天照大御神の子、「天忍穂耳命」のことであると言われている。五穀豊穣の神であり、特に農民に信仰が厚かったようである。日子神社の当時の神殿の面影は現在見られないが、祭神の石祀の両扉には佐賀藩の家紋が刻まれている。それは、歴代の藩主が英彦山権現の信仰布教に力を入れた現われと思われる。 石祀には建立年代が明治35年となっているが、境内西側の正面鳥居の建立は、安政5年(1858)となっており、石祀銘文の年代以前の藩政時代に建てられたように思われる。境内には、古い石祀が数基あり、日子神社とのかかわりがあると思われてならない。 古老の話によると、「昭和の初めの幼い頃は、日子神社社殿のお堂の上でよく遊んだし、第55連隊のラッパ手は、雨が降ると雨宿りをしていた」と語っている。その後、老朽化に伴い、昭和61年現在の銅葺きの社殿が、浄財によって再建されている。 また、日中戦争や太平洋戦争で出征するときは、武運長久の祈願と壮行式が八戸溝町民によって行われた。
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日子神社の正一位松ノ森稲荷神社
朱塗りの社殿と鳥居は木造建立で、石祀がないため年代、建立者は不詳である。 拝殿の中には布に包んだ神霊と白狐の像が祀られている。年代は相当古く参拝者が毎日絶えない。木造のため、昭和53年4月信者一同によって鳥居などが改築されている。 銘文 額束:正一位松ノ森稲荷大明神 稲荷神の民間信仰は全国的であり、本来は稲の神様のことである。いわゆる「稲荷」とは、「稲生(いななり)」からきたという説である。そして、穀物の神で食物を司る神のことである。その神の原点は、インドの神ダキニシンが、本地仏と信じられ、仏教を守護する善神として受け入れられた。(もとは悪神)ダキニシンが乗っているのが白狐で、日本では俗言として、狐を神秘的な霊力を有する神聖な動物と言う信仰があった。これが、稲荷と白狐の結びつきと思われる。 稲荷神の民間信仰は全国的であり、今まで災いを除き福を授ける開運の神として江戸時代の頃から今日まで個人の自宅に祀られている。 また、狐にまつわる面白い話がある。稲荷社の正殿には狐像を安置してあり、狐が大好きな油揚とか、生魚、生卵を供える風習がある。油揚に包んだ鮨を稲荷鮨とかお稲荷さんと呼んでいるのも面白い。 境内には2塔の稲荷社(森山稲荷、石森 正一位稲荷大明神 勝軍)と整形水盤が奉納されている。
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金刀比羅大権現社(友貞邸の南東の隅)
ご霊神は、四国の金刀比羅社の分霊を祀ってある。ご祭神は海運の守護神である。友貞一夫氏の談によれば、「父などが、八戸溝の地を離れて、海軍に出征する際の武運祈願のために建立された。」と語っておられる。 現在は、近所の人をはじめ、昔からの熱心な信者のお参りが後を絶たず、家運、家内安全の神としても崇敬されている権現社である。建立年代は大正か、昭和の初期か定かではない。また、昭和57年信者の浄財により社殿は改築されている。 銘文は、金刀比羅大権現社。
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若宮社
地元の古老の話では、「昔流行病で多くの子どもが亡くなり、また、水死事故も相次いだことから、地域の人は現在地に神仏を祀ることにした」といわれている。 昔は、べんじゃさん(弁才天)と言っていて、河川を神格化した女神で、弁天の祠が水辺に多くあるのは河川の神であったことに由来している。 また、天神さんも祀られており、お祭は、毎年12月の第2日曜日に行われる。 その他境内には、肥前鳥居「若宮社」があり、慶應4年(1868)西八田村中とあり、当初江頭公民分館前にあったのを大正14〜15年頃に現在地に移されている。 また、石塔としては、「猿田彦太神」安政7年(1860)、「馬頭観世音菩薩」明治14年 (1881)3月吉日 、「北星妙見菩薩」明治30年(1897)3月吉祥日が設置されている。 木仏としては「妙見菩薩」があり、妙見菩薩は、国土を守護し、災いを消し、敵をしりぞけ、福寿を増す仏とされている。