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[神社仏閣][神社][金立校区]は3件登録されています。
神社仏閣 神社 金立校区
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金刀比羅神社
金立町大門の金刀比羅山の頂上近く鎮座するお宮である。金刀比羅神社は人皇第50代桓武天皇の宝亀5年(774)今の権現中原山に建立されたが其後数次の兵火に遭い、殊に大友宗麟の西征の際龍造寺との戦の際宗麟に焼かれて堂宇烏有に帰し顛末が詳かではないが古老の言と鍋島譜蔵書中に散見するものによると、天正5年元信徒連の(権現原より大島清八氏、熊山より熊山宗右衛門の2人)代表者讃岐の金刀比羅宮の御分霊を受けて再建を計り後龍造寺隆信社殿建立して豪族武将の崇拝篤くなり、文禄慶長の役には鍋島直茂出陣に際し武運長久、海上安全の祈願を成就し、元和元年願成就の為山林を寄進し、其後守護の神として神徳輝やき寛永19年島原の乱出陣と共に藩士民の崇拝加わり、享保17年鍋島宗茂公(5代藩主)若殿(宗教)大病を患い平癒祈願の結果神徳霊験高く全快せり。 宝暦2年(一説宝暦4年安置)御願成就の為熊山の地(五町余)を撰び其の中腹肥筑平野を俯する眺望絶佳の地に荘厳華麗なる社殿を建立して遷座奉祀されて今日に到ったもので、其の間藩主藩士民の崇敬者加わり明治以後は度々の戦役に神徳輝き勝負の神、武の神、海の神として遠く有明海岸の人々まで参詣者は仲々数多いものがある。 祭神は崇神天皇、大穴弁次命(大国主命)少彦名命(医薬の神)多岐津姫命(海を司る神) ○板碑 板石塔婆ともいう。鎌倉時代におこり、室町時代には形式化板状の石を用いて卒塔婆の一種として発生した供養塔である。 板碑に多い信仰は、阿弥陀如来を供養して浄土往生を祈願した。 阿弥陀如来が、観音・勢至両菩薩を脇侍として従えた阿弥陀三尊あるいは一尊をほん字で表現したものが多い。 題目をあらわしたものもつくられている。 ○ぼん字と種子 板碑をはじめほとんどの石塔に、仏教上の権威ある象徴として、ぼん字が刻まれている。ぼん字は、ぼん語を表記するために用いられた古代インドの文字であるが、中国・日本では、ぼん字のもつ呪術的威力が強調され、あらゆる仏教遺物にはん濫するまでになった。 板碑などでは、ぼん字一字をあてて一定の仏菩薩をあらわす。 その一字が限りない仏の恩恵をうけるものとみる密教観から種子とよんでいる。すべての功徳が生ずることを草木の種子にたとえていったわけである。
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北山正現稲荷神社
金立山の前面所謂北山正嶽の中腹に鎮座する稲荷神社で由緒ふかい所である。 人皇第12代景行天皇御西征の砌、当山に御足を止められたることがある。その後神亀年中(約1200年前)聖武天皇の御代僧行基が帰郷の折、この地に大寺を建て北山一山と成し、後聖武(勝務)上人勅命を奉じ北山山中に修行し岩蔵寺(天台宗)を開き北山燈頭又数百坊を有し隆昌を極めたらしい。(その寺跡は不明であり、その歴史も残っていないが現在字来迎寺にある成就院(天台宗)はこの岩蔵寺の跡を承けたものと成就院では言われている)その当時この寺の守護神として京都伏見稲荷山に鎮座します。正一位稲荷大明神の御分霊を勧請し奉るようになって寺運がさかえ、参詣者が増してその霊験が益々現はれ北山正現嶽の森として世に現われ給い、その後天台宗徒が奉仕して来たが文明以降戦火にかかって焼失し次第に荒廃に向った。ところが後年鍋島氏の所領となり、初代勝茂公の時、当山付近に狩せられ正現嶽に参拝あり、その荒廃したるを見て堂宇を建立されその後代々の藩主尊信せらるるに至って一般崇敬者も年と共に加わり明治維新前より明治の中頃にかけてはその境内より参道にかけ、十数軒の茶屋が軒を並べ仲々の賑わいを現わし更には参道の中腹(二軒茶屋)麓(稲荷町として)茶屋小店等立ち並ぶ有様で稲荷神社の赤鳥居の森の間に陰見するあたりから三味の音、歌声の聞ゆる事もめづらしくなかったとは古老の言い伝えるところで当時の茶屋の名、茶屋跡、三味の名妓等の名を語るものも沢山ある。 ところが明治20年から同34、35年にかけて2回の山火事に遭い(第1回は北山正現岳を中心としての山火事でその為さしもに壮麓の堂宇の境内から下に立並ぶ茶屋も類焼して跡を留めぬ有様となり、第2回目は金立全山の山火事となり境内の数多の社殿にも損害を受ける悲惨事で)その復興は仲々思うにまかせなかったが日清日露の戦役と共に出征者或は留守家族の武運長久祈願のため、参詣者日と共に加わり更に平時は農商工業者の守護神として等崇加わり、殊に支那事変以来益々隆昌に向いこの時に至り信者一同凝議して荒廃したる社殿の造営をなし、今日に至ったものである。
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彦山権現
観音寺の寺傾掛り宮として祀られたもので字権現原宿内にあり、故原権現と唱えられる。