北山正現稲荷神社
北山正現稲荷神社
■所在地佐賀市金立町金立山
■登録ID1730
金立山の前面所謂北山正嶽の中腹に鎮座する稲荷神社で由緒ふかい所である。
人皇第12代景行天皇御西征の砌、当山に御足を止められたることがある。その後神亀年中(約1200年前)聖武天皇の御代僧行基が帰郷の折、この地に大寺を建て北山一山と成し、後聖武(勝務)上人勅命を奉じ北山山中に修行し岩蔵寺(天台宗)を開き北山燈頭又数百坊を有し隆昌を極めたらしい。(その寺跡は不明であり、その歴史も残っていないが現在字来迎寺にある成就院(天台宗)はこの岩蔵寺の跡を承けたものと成就院では言われている)その当時この寺の守護神として京都伏見稲荷山に鎮座します。正一位稲荷大明神の御分霊を勧請し奉るようになって寺運がさかえ、参詣者が増してその霊験が益々現はれ北山正現嶽の森として世に現われ給い、その後天台宗徒が奉仕して来たが文明以降戦火にかかって焼失し次第に荒廃に向った。ところが後年鍋島氏の所領となり、初代勝茂公の時、当山付近に狩せられ正現嶽に参拝あり、その荒廃したるを見て堂宇を建立されその後代々の藩主尊信せらるるに至って一般崇敬者も年と共に加わり明治維新前より明治の中頃にかけてはその境内より参道にかけ、十数軒の茶屋が軒を並べ仲々の賑わいを現わし更には参道の中腹(二軒茶屋)麓(稲荷町として)茶屋小店等立ち並ぶ有様で稲荷神社の赤鳥居の森の間に陰見するあたりから三味の音、歌声の聞ゆる事もめづらしくなかったとは古老の言い伝えるところで当時の茶屋の名、茶屋跡、三味の名妓等の名を語るものも沢山ある。
ところが明治20年から同34、35年にかけて2回の山火事に遭い(第1回は北山正現岳を中心としての山火事でその為さしもに壮麓の堂宇の境内から下に立並ぶ茶屋も類焼して跡を留めぬ有様となり、第2回目は金立全山の山火事となり境内の数多の社殿にも損害を受ける悲惨事で)その復興は仲々思うにまかせなかったが日清日露の戦役と共に出征者或は留守家族の武運長久祈願のため、参詣者日と共に加わり更に平時は農商工業者の守護神として等崇加わり、殊に支那事変以来益々隆昌に向いこの時に至り信者一同凝議して荒廃したる社殿の造営をなし、今日に至ったものである。
出典:ふるさと金立p.11