高傳寺殉死者共同の碑

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高傳寺殉死者共同の碑

  • 高傳寺殉死者共同の碑

■所在地佐賀市本庄町大字本庄1112-1
■年代近世
■登録ID748

墓所東側に龍造寺家、西側に鍋島家の墓が並んでいる。鍋島家の墓列中央に、鍋島直茂(藩祖)、勝茂(初代藩主)、忠直(勝茂の嫡子)の墓碑がある。それぞれの墓碑の背後に、仕えた主人の死去に際し、殉死(追腹)した者の氏名が刻まれた碑が建っている。
直茂{元和4年(1618)死去}の時は12人が殉死している。忠直{寛永12年(1635)死去}の時は、江副金兵衛始め5人が出た。勝茂{明暦3年(1657)死去}には26人と一番多く、「泰盛院殿御追腹」と横に刻んだ題字の下に、殉死者名が、各々、法名とともに列記されている。佐賀藩は、他藩に比べて殉死者を多く出している。また、寛文元年(1661)に勝茂の四男・鍋島直弘(白石邑主)が死去した時、家来36人が殉死を申し出た。2代藩主鍋島光茂はこれを許さず、翌2年殉死禁止令を出した。寛文3年に出た幕府の殉死禁止令より1年早い。
[参考]
元和4年(1618)6月4日鍋島直茂死去(81歳)殉死者12人
寛永12年(1635)1月28日鍋島忠直死去(23歳)殉死者5人
正保2年(1645)2月11日鍋島茂賢死去(75歳)殉死者22人
明暦3年(1657)3月24日鍋島勝茂死去(78歳)殉死者26人
寛文1年(1661)7月7日鍋島直弘死去(44歳)殉死申出36人
寛文2年(1662)鍋島光茂、殉死禁止令
寛文3年(1663)幕府、殉死禁止令

出典:ワークショップ中野和彦氏寄稿

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