愛宕神社

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■所在地佐賀市呉服元町
■登録ID480

 関ケ原合戦のとき、鍋島勢は西軍に加担したことで、徳川から疑惑の眼で見られ、鍋島家の浮沈にも及ぼうとしたおり、井伊兵部少輔・本多佐渡守、円光寺住職元佶らの斡旋で、かつ、直茂の忠心に対し許され、筑後柳川の城主立花左近将監宗茂征討の命を受けた。慶長5年(1600)10月14日鍋島直茂・勝茂父子は、3万余騎を率いて佐賀を出発した。
 この折り、各地方は罹災多く特に災火の禍いを憂慮された勝茂は、鍋島生三を名代として、京都愛宕山に祈願をしたところ、無事災害もなく御利運があったので御信仰を深められ、新堀端(佐賀市呉服町)に京都愛宕山より勧請された。
 東京愛宕神社の祭神は、火の神(火産霊命{ほむのびのみこと})・水の神(罔象女命{みずはめのみこと})・山の神(大山祇命{おおやまつみのみこと})などで、伏せの神として広く信仰されてきた。藩政時代の火災のなかで、明暦11年(1761)1月19日高木町より出火、新堀端・呉服町・元町・中町・魚町・八百屋町・夕日町・中の小路のすべてが(332軒)焼失したとの記録がある。戦後昭和24年からは、呉服町・蓮池町・新天地・元町・白山町の協力で、夏祭りには御輿が繰り出され、災禍転除の行事が盛大に行われている。

出典:ふるさと循誘(P.121)

長崎街道沿いの光明寺及び本陣跡より北に少し行くと愛宕神社があります。境内は広くはないものの、神々しさを感じる歴史ある神社です。祭神は加具突智(かぐつち)神で、火伏せの神です。
 愛宕神社は、威徳院によってこの地にあった祈祷所の愛宕寺に勧請されたものです。『佐賀県近世史料第10編第1巻』の「天台宗由緒 西目門中 愛宕寺」の「愛宕社并本地堂」によれば、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて、鍋島勝茂は豊臣方に加わるも徳川方の勝利となりました。徳川方からは疑惑の眼が向けられて改易の危機にありましたが、円光寺住職元佶等の仲介と鍋島直茂の忠誠もあり、柳川の立花宗茂を攻めることを条件に許されました。この柳川出陣のとき、鍋島勝茂は鍋島生三(道虎)に、京都愛宕山への祈願を頼んだところ、「御利運」を得て勝利したため信仰を深められ、威徳院に仰せ入れられて、新堀端(呉服元町)のこの地に京都より愛宕社を勧請しました。
 この愛宕社を管理するお寺が愛宕寺です。愛宕寺では、国家御安全の長日祈祷のほか、「十五町火災転除祈祷并配札」として、町内の人々に火災避けの御札を配るなど行っていました。
入ってすぐの鳥居には、「宝暦七年刻」(1710)とあります。平成28年(2016)4月の熊本地震の際に鳥居は倒壊しましたが、立派に再建され現在に至っています。鳥居をくぐると阿吽の狛犬、拝殿・本殿、社務所等があります。現在の愛宕神社の境内には、旭の森稲荷社、観音堂(観世音菩薩堂)や地蔵菩薩をまつったお堂、文化8年(1811年)銘の大乗妙典壹萬部塔などの石造物が寄せられています。

出典:豊福英二氏(郷土史の調査研究)

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