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[神社仏閣][神社][循誘校区]は3件登録されています。
神社仏閣 神社 循誘校区
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牛島天満宮
牛島天満宮は、かつて蓮池町にあったらしく、鍋島勝茂公が佐賀城を築かれた折り、城の鬼門(北東)に当たる牛島町に移して、城の護神として祀つられた。 天満宮は全国に1万社以上あるといわれ、御祭神は菅原道真公である。学問の神様として有名である。天満宮のいわれは、『天満大自在天神』と呼ばれ、それは雷神の別名でもあるが、それを縮めて『天満宮』とか『天神さま』とか呼んだのである。 神橋前の肥前鳥居は、慶長の頃建造されたものである。この肥前鳥居の形式は、石柱の下部が力強く幅が大きくなっていて、笠木は太い柱に対して薄手で先端は流線型、一種特有の様式である。また肥前鳥居には、額束のあるのとないのものとあって、額束にしても細い角柱のものと、幅の広い方形板のもあるが一定していない。佐賀市には、牛島神社のほか与賀神社、伊勢神社、北面天満宮、掘江神社、八幡神社、本庄神社などにある。県内最古のものは、東松浦郡湊町の八坂神社にある。拝殿の前の上にある『天満宮』と彫刻の額があるが、これは大木英鉄の書である。英鉄は大木喬任の先祖で書画を善くした。また大木喬任の子で大木遠吉は、鉄道大臣のときに国鉄佐賀線を計画し推進した人である。牛島天満宮は、仁平元年(1151)道真公から第16代目に当たる、菅原教正が巨勢郷牛島村に社を創建したしたことに始まっている。牛島天満宮の境内には、樹齢千年といわれ佐賀市天然記念物に指定された楠の大樹がある。このほか石造りの肥前鳥居や、太宰府から分芽した飛び梅や古い石橋がある。また、金刀比羅神社や石造物の庚申塔、猿田彦大神、招福神の稲荷大明神等数多くの石造物があって、石造物文化財を研究する上からは、大変興味深い存在である。
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八坂神社
柳町(現千代町)の元古賀銀行の南前に石造の鳥居が目につく、ここが八坂神社である。八坂神社は、祇園社ともいってスサノオノミコトを祀ってある。 ここは、大旱魃になると、金立神社に雨乞いして、お籠もりのうえ御神体を御輿に移して、有明海の沖の島まで行くことになっているが、これは『お島さん参り』といって、有明海のど真中に暗礁があり、潮が引くと表を現す、要するに沖の島信仰は雨乞いを主体とした水の神の信仰で江戸時代からの古い伝説が今日まで伝わっている。 50年に1度か大旱魃のときにこの『お島さん参り』が行われるが、前回は大正14年に行われた。このとき八坂神社と材木町の日天社で休息されることになっているが、日天社で休息されることは、鳥犀円の薬と金立山の『不老長寿の薬草』との関係があるのではないかと言われている。昔はこの神社でも盛大にお祭りがなされていたが、大変残念ながら今日ではとだえてこの祭りを見ることができない。 祇園祭りの起源は、平安遷都後まもなく毎年のように、夏に流行する疫病を御霊のたたりと考え、その退散を祈った御霊会にある。それには、牛頭天王(ごずてんのう、インドの祇園精会の守護神で疫病の神)を祀る祇園社がよいというので、祇園御霊会が行われた。御輿に、祭鉾(飾りのある長い布)や田楽、猿楽、それに風流(作り屋台)がつきしたがいました。時とともに、祇園祭りは厄払いから余興本位に転化し、鉾や台を飾り、車を付け、御輿渡し変じて山鉾巡行となった。明冶になって、神仏分離から祇園社は、八坂神社と改称され、祭礼日も6月7日〜14日が、新暦の7月17日〜24日に改められ今日に至っている。 (京都府の歴史)より 八坂神社の境内の石柵には、当時柳町や蓮池町など商店主・会社・銀行などの代表者の名前が刻んであり多くの人々の寄進や崇敬を集めていた様子が偲ばれる。 この神社の南、裏十間川に架かる橋を『成就院橋』と呼んでいるが、この橋の西北に『成就院』があったという。明治維新前に成就院という盲僧屋敷があって一かどの修行場だったが、維新のとき衰滅し、祭神の祠だけが神仏混淆の形として残こったので町の人達が修復して祭りを続けている。
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愛宕神社
関ケ原合戦のとき、鍋島勢は西軍に加担したことで、徳川から疑惑の眼で見られ、鍋島家の浮沈にも及ぼうとしたおり、井伊兵部少輔・本多佐渡守、円光寺住職元佶らの斡旋で、かつ、直茂の忠心に対し許され、筑後柳川の城主立花左近将監宗茂征討の命を受けた。慶長5年(1600)10月14日鍋島直茂・勝茂父子は、3万余騎を率いて佐賀を出発した。 この折り、各地方は罹災多く特に災火の禍いを憂慮された勝茂は、鍋島生三を名代として、京都愛宕山に祈願をしたところ、無事災害もなく御利運があったので御信仰を深められ、新堀端(佐賀市呉服町)に京都愛宕山より勧請された。 東京愛宕神社の祭神は、火の神(火産霊命{ほむのびのみこと})・水の神(罔象女命{みずはめのみこと})・山の神(大山祇命{おおやまつみのみこと})などで、伏せの神として広く信仰されてきた。藩政時代の火災のなかで、明暦11年(1761)1月19日高木町より出火、新堀端・呉服町・元町・中町・魚町・八百屋町・夕日町・中の小路のすべてが(332軒)焼失したとの記録がある。戦後昭和24年からは、呉服町・蓮池町・新天地・元町・白山町の協力で、夏祭りには御輿が繰り出され、災禍転除の行事が盛大に行われている。