蛎久府跡

蛎久府跡

■所在地佐賀市鍋島町大字蛎久
■登録ID2632

 蛎久は肥前国府の所在地であり、政治、経済、文化の中心地であった。南方一帯は渺茫たる海を控えたが、景行天皇の27年日本武尊川上梟討伐の時、竜船此地に碇泊し、蛎殻が多かったので蛎久という様になったと伝えられている。そして沖合には沖の宮というのがあり、今も沖田の名が残っている。なお江里、江頭、江口、津留などの地名もこれに基づくらしい。其のほか町内には納徳、帆立、船比良等の場所がある。これは唐人納徳破船のあとだと言い、数年前まで水中に帆柱が見えていたと言う。
 文徳天皇の天安2年(858)勅許を得て、芸州宮島の市、築州西府の市、肥前蛎久の市が開設され、九州一方の大都会として国内市場の中心であった。更に天喜2年(1054)太宰府神社の御分霊を勧請し、奉祀して文教の神、誠の神として、氏子発展の産土神として町民の崇敬をうけ今日に至っている。この様に久しく威勢を保ち、戸数三千を擁し、殷賑を極めた蛎久も大友、龍造寺の兵乱が相つぎ、遂に国府も移転し、僅かに百余戸の農業小集落となってしまった。

出典:鍋島町史p.149