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[遺跡・跡地][跡地][鍋島校区]は4件登録されています。
遺跡・跡地 跡地 鍋島校区
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蛎久府跡
蛎久は肥前国府の所在地であり、政治、経済、文化の中心地であった。南方一帯は渺茫たる海を控えたが、景行天皇の27年日本武尊川上梟討伐の時、竜船此地に碇泊し、蛎殻が多かったので蛎久という様になったと伝えられている。そして沖合には沖の宮というのがあり、今も沖田の名が残っている。なお江里、江頭、江口、津留などの地名もこれに基づくらしい。其のほか町内には納徳、帆立、船比良等の場所がある。これは唐人納徳破船のあとだと言い、数年前まで水中に帆柱が見えていたと言う。 文徳天皇の天安2年(858)勅許を得て、芸州宮島の市、築州西府の市、肥前蛎久の市が開設され、九州一方の大都会として国内市場の中心であった。更に天喜2年(1054)太宰府神社の御分霊を勧請し、奉祀して文教の神、誠の神として、氏子発展の産土神として町民の崇敬をうけ今日に至っている。この様に久しく威勢を保ち、戸数三千を擁し、殷賑を極めた蛎久も大友、龍造寺の兵乱が相つぎ、遂に国府も移転し、僅かに百余戸の農業小集落となってしまった。
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来宮丹後守城跡
來宮というのは450年前後柏原天皇の御宇伊東丹後守の建立したものである。元来伊東氏は伊豆の国伊東から肥前に下り、西新庄西分に一城を構え、其城より鬼門に当たる地に、大永年間(1521〜1528)北山より青石多数を取り寄せ、この石を以て山を築きその頂上に一宇を創建し、一家の安穏繁栄を祈ったと伝えられている。 又、社殿の坤の方には大屋敷という広い畑があり、これが丹後守の城跡であったという。また鍋島直茂の今山夜襲戦の頃は豪族伊東兵部少輔祐俊が、当地方の住民多数をつれ勝楽寺に案内し、大いに慰撫従軍したという。伊東家の菩提寺は東善寺にある。
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蛎久市場跡
文徳天皇の天安2年(858)勅許を得て、芸州宮島の市、築州西府の市、肥前蛎久の市が開設された。蛎久の市は主として中国貿易を営み、日中人雑居の市であり戸数3000余に及び、殷賑を極め、絹布、宝玉豪商軒を並べ、歌舞音曲も盛んであった。当時製作販売する所の商品の特産物を坐と言い、商品の種類によって五坐、六坐などと呼び、例えば線香、煙草、秤、元結、火薬なども各一坐と言ったものである。現在市場跡として恵比須、大黒天石像がある。また昔の繁華の面影を偲ばるるものとして、西川原より東の出口鶏殿小路辺に至るまでの道は、昔のままでその道幅の広い事で想像される。
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石井樋の戸立て堰の跡
昔は嘉瀬川に戸立て堰を作り水位を上げて多布施川に水を流す為の堰の在った所で、現在は川上神社横の頭首工より別水路で多布施川に流して居るので、現在は不要に成り流水の邪魔になるので取り壊された。その後皇太子成婚記念行事として平成17年に復元された。