本島藤太夫

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本島藤太夫

■所在地佐賀市(日新)
■登録ID2595

  文化10年(1813)〜明治21年(1888)
 佐賀藩主鍋島直正の信任厚く、嘉永3年(1850)直正の命により藤太夫は伊豆の韮山に派遣され、江川英龍に反射炉や大砲に関する知識をたずね、さらに佐久間象山に教示を受けて帰国した。
 同年6月築地に大銃鋳立方が設けられて反射炉の築造に着手、主任となって大砲製造のために努力した。また、長崎の伊王島や神の島及び四郎島に砲台を設ける主任でもあった。世にいう御鋳立方七賢人の一人として知られている。 維新後は鍋島家の経営、百六銀行の指導者として活躍した。

出典:日新読本p.191

御鋳立方(おんいたてかた)の七賢人について
大銃(おおづつ)製造方で大砲製造に関わっていたのは蘭学者だけではなかった。製砲事業は、主任の本島藤太夫のもとで、杉谷雍助が翻訳したテキストに漢洋両学に通じた田中虎六郎が考察を加え、和算家の馬場栄作が推算して設計を行い、鋳造を鋳物師の谷口弥右衛門、鉄の溶解を刀工の橋本新左衛門が担当するというプロジェクトチームによって進められた。反射炉での鋳造は当初失敗が続いたが、それぞれの知識と経験を活かしながら試行を繰り返し、やがて良好な溶鉄が得られるようになり、ついで材料の鉄の質を改良して、破裂しない大砲をつくり出すことができるようになった。佐賀藩では、外来の知識と在来の技術に裏付けられた技能とが融合し、国内初の鉄製砲鋳造を実現したのである。上記6名に財政担当の田代孫三郎を加えて、世の人々は「御鋳立方七賢人」と呼んだという。

出典:近代化の軌跡(P46)