成富兵庫茂安

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成富兵庫茂安

■所在地佐賀市(日新)
■登録ID2592

  永禄3年(1560)〜寛永2年(1634)※
 龍造寺隆信の家臣、成富甲斐守信種の第2子として佐賀市鍋島町増田で生まれる。龍造寺隆信、鍋島直茂、勝茂に仕え、朝鮮の役や各地の合戦に参加した武将であるが、水利治水事業に見せた事績が現在もたたえられている。
 事績の主なものは河川改修、ため池築造、河川より分水するための井樋工事がある。中でも川上川の上流から巨勢川まで市の江水路を引き、荒野を開田したこと、嘉瀬川から城内の多布施川に分水するための石井樋を築造したこと、三養基郡北茂安町千栗から三根町坂口まで12㎞に及ぶ筑後川右岸堤を完成し、領内を洪水から守ったことなど治水の功が大きい。また鍋島藩体制が確立すると、干拓が早くから行われた。寛永年間(1624〜1643)に三法潟1200石の開拓を手がけた。武雄市橘町から北方に及ぶ一帯で、同地の米は良質米との評判が高かった。墓は、佐賀市西田代町の本行寺と佐賀郡大和町尼寺にある。今も兵庫町、北茂安町などに地名として名が残っている。

※正しくは寛永11年(1634)

出典:日新読本p.188