鍋島直正(閑叟)

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鍋島直正(閑叟)

■所在地佐賀市(日新)
■登録ID2591

  文化11年(1814)〜明治4年(1871)
 第9代藩主鍋島斉直の子として、江戸藩邸に生まれる。幼名貞丸、のち斉正・直正という。号は閑叟。天保元年(1830)家督相続し、第10代佐賀藩主となる。
 藩主となった直正は、はじめて佐賀へお国入りするとき、身をもって藩にお金がないことを知らされたので、藩の財政を豊かにするため産業をおこし、学問や教育によって能力のある人を役人にするなど、ただちに藩の改革に取り組んだ。
 西洋の文物を採り入れ、天保6年(1834)佐賀市八幡小路に「医学館」をつくり、島本良順を校長とした。直正は兵器をつくるための科学や技術にも力を入れ、弘化元年(1844)に「火術方」、嘉永5年(1852)には「精煉方」という理化学研究所や工場をつくった。嘉永4年(1851)には、火術発展のため、医学寮に「蘭学寮」がつくられ、大庭雪斎、渋谷良次などを先生にむかえた。また長崎に砲台を築き、佐賀に反射炉を設け、(嘉永6年(1853)には幕府から大砲200門鋳造の注文をうけた)長崎警備に力をつくし、西洋の科学をとりいれ、鋳砲建艦に努力して海軍の基礎をつくるなど、実際に教育や技術を役立て、幕末の名君として知られた。
 政治的には公武合体派で、幕末の政局では自重し、明治政府内では軍防事務局次官・蝦夷開拓使長官をつとめた。維新佐賀の七賢人の一人。

出典:日新読本p.186〜187