谷口清八

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谷口清八

■所在地佐賀市(日新)
■登録ID2590

  弘化2年(1845)〜明治44年(1911)
10代谷口清左衛門の長男として佐賀城下長瀬町に生まれる。幼名敬次郎、明治4年(1872)2代清左衛門を清八と改める。
 明治16年(1883) 谷口鉄工場を設立。長瀬町に敷地6000余坪の本工場、神野に5000余坪の分工場を置き、諸機械の製造を始めた。
 明治25年、鋳鉄管製造に成功し、鉄管王と称せられた。鉱山用の機械、原動機類、また煙突、鉄骨構造や機重機、福岡東公園の日蓮上人銅像、佐賀市松原公園にあった鍋島閑叟銅像など大型銅像の鋳造、日露戦争時の砲弾製造まで行なった。幕末、大砲鋳造に当ったいわゆる、お鋳立方七賢人の一人である谷口弥右衛門は谷口一門の一人といわれる。谷口家は以後12、13代と続いたが、昭和4年(1929)鉄工業界の不況で工場を閉鎖した。

出典:日新読本p.185〜186

御鋳立方(おんいたてかた)の七賢人について
大銃(おおづつ)製造方で大砲製造に関わっていたのは蘭学者だけではなかった。製砲事業は、主任の本島藤太夫のもとで、杉谷雍助が翻訳したテキストに漢洋両学に通じた田中虎六郎が考察を加え、和算家の馬場栄作が推算して設計を行い、鋳造を鋳物師の谷口弥右衛門、鉄の溶解を刀工の橋本新左衛門が担当するというプロジェクトチームによって進められた。反射炉での鋳造は当初失敗が続いたが、それぞれの知識と経験を活かしながら試行を繰り返し、やがて良好な溶鉄が得られるようになり、ついで材料の鉄の質を改良して、破裂しない大砲をつくり出すことができるようになった。佐賀藩では、外来の知識と在来の技術に裏付けられた技能とが融合し、国内初の鉄製砲鋳造を実現したのである。上記6名に財政担当の田代孫三郎を加えて、世の人々は「御鋳立方七賢人」と呼んだという。

出典:近代化の軌跡(P46)