八幡社

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■所在地佐賀市高木瀬東二丁目12-11
■年代中世
■登録ID1778

八幡社は大字東高木422番地にある。肥陽古跡記に、高木八幡宮は高木村にあり、久安中、貞永の祀るところと伝う。宮は今佐賀郡高木瀬村八本杉にありて、社記に「高木越前守藤原貞永と申す人、平氏残党追伐の命を蒙られ、此の国へ下向有りて、佐賀郡高木の庄に居住せられ、武備を専にして、民を撫育し、大平の治に帰らん事を思ひ計り居られしに、或る時午睡せられける夢の中に、忝くも異霊の御姿忽然と顕れ玉ひて、告けて宣はく、汝能く我が皇祖神明を仰き尊み、誠心を盡し怠らざること年久し。今より朝日の昇る像を画きて籏の紋とすべし。然らば武運必ず開け、志願満足すべし、我は是れ八幡大神なり云云」と。
 社記によれば、後鳥羽天皇の文治2年(1186)高木越前守、藤原貞永という者、高木の庄に、下向して居城を構えていたが、霊験に任せて旭日の形を画いた旗を押し立て、居城の守護神として八幡大神を奉祀した、とありこれが八幡社のおこりである。
 この旭日の形を画いた。旗じるしが、高木家の家紋の「十二日脚」であり、従って八幡社の紋所も十二日脚である。なおこの十二日脚の家紋は、後に隆造寺家が踏襲し、鍋島家の家中でこの紋を用いる者もあった。辻の浄蔭寺の墓地にはこの紋を用いた鍋島氏の幾多の墓石がある。
 さてこの本社創建の年代であるが、上記のように記録には文治2年云云とあるが、後に述べるように嘉永3年に神社の700年祭が行われたということから判断すると少し年代的にずれがある。嘉永3年の700年祭が真であれば創建は近衛天皇久安年中にさかのぼることとなる。
肥前古跡縁起巻ノ上には 「高木八幡宮本地阿彌陀如来也文安年中源氏一族高木越前守貞永敵追討の為云云、」とある、が文安は400年も後世であるから久安の間違いと考えられる。神門の前に高木氏の子孫である、背水高木誠一(東京在住昭和18年没)高木良次(佐賀市水ヶ江町在住)両氏が昭和16年11月建てられた石標があるがそれには高木八幡社 久安年中高木貞永創建とある。
 このように創建の年代は正確には把握し難いが久安年中の創建とするのが妥当であると考えられる。
 本社創立の年月はこのようにすこぶる古く、中世当国に威勢を振うた高木氏の礼拜所であったから昔は非常に盛運を極めた神社であった。社記古文書は天明年中焼失して当時をしのぶよすがもないが、社前の一基の萃表は銘により藩主光茂公の寄進であることが判る。かつ又光茂公、剣一振を寄進されたことからしても藩主の崇敬厚かったことを知ることが出来、上佐賀下郷中の総社であった。
 次に御祭神のことであるが当社に残されている由緒記には 御祭神は
 大鷦鷯天皇  (オオササギ)
 誉田天皇   (ホンダ)
 気長足姫天皇 (オキノナガタラシヒメ)とある。
 大鷦鷯天皇は仁徳天皇、誉田天皇は応神天皇、気長足姫天皇は神功皇后のことである。
 八幡様という神様がどんな神様であるかについては諸説があるが、一説には、伝説に伝わる三韓征伐に武威を顕わされた仲哀天皇(足仲彦尊 タラシナカツヒコ)、その皇后の神功皇后(気長足姫)、その子応神天皇(誉田別尊)の三神であるといわれている。
なお佐賀県神社誌要には八幡神社の御祭神は
 仲哀天皇 菅原道真 仁徳天皇 応神天皇 天鹿兒矢命 天照皇大神 神功皇后 源為朝
 「無格社合祀に依り菅原道真外四柱の祭神を追加す」、と誌されている。すなわち由緒記にある三柱の御祭神の外に四柱が追加されたのである。
 明治41年9月に、佐賀県訓令で小社の合祀令が公布された。氏子の少ない小さな神社は維持管理も行届かず、神社の威徳もおろそかにされるので、そのような小社は統合し、神明の威徳を発揚し、経営を容易ならしめ、神社の維持を永久に確立させるためのものであった。神社誌要に八幡社の祭神に菅原道真外四柱の祭神を追加すとあるのはこのことであって、地元にあった皇太神宮や天満宮、為朝廟を合祀したのである。
 八幡社には地元東高木地区の外に、大字東高木、大字高木の各地区に多くの末社があった。これらの末社も、この合祀令によって八幡社に統合されて、当時これを寄せ宮といっていた。ところが寄せ宮した後に、地区のあちこちに流行病や、災害などが発生したので、氏子である地区民も寄せ宮がいけなかったというので、寄せ宮された各地区の天満宮などはすべて元の所に遷座されることになった。
 これと同様に東高木地区にあったもので寄せ宮された四柱のお宮も元の所に遷座されているものと解せられるから、現在の八幡社御祭神は由緒記にあるとおりの三柱である筈である。
 肥前古跡縁起巻の上に
 八幡神社の祭神が、本地阿彌陀如来也とあるのは、すこぶる不可思議であるが、神仏混淆時代の記述であるかと考えられ、やむを得ない表し方であろう。

 

出典:高木瀬町史P123〜127

高木八幡ねじり浮立について
○ 起源 玄蕃一流浮立
○ 構成 天衝舞、大太鼓、鉦、小鼓、笛、お謡い
○ 奉納日 11月中旬の日曜日(本来は11月15日の高木八幡宮秋祭り)

「ねじり浮立」は、以前11月15日の高木八幡宮秋祭り(お供日)に奉納されていたが、
現在は11月中旬の日曜日に実施している。
構成は、天衝舞・大太鼓・鉦・小鼓・笛・お謡いからなり、鉦打ち・モリャーシ(小鼓)が      それぞれ2列になって笛に合わせて「道行」で神前まで進み、神前で舞う祓え=本囃子と「エイヤー」と「まくり」が奉納される。天衝舞は、大太鼓や笛に合わせて勇壮に舞う。
この浮立の呼称は、青壮年男子が掛け声とともに、上体をねじらせて鉦を打ち、モリャーシの子どもたちも鉦打ちと同様の所作をして小鼓を打つことから、「ねじり浮立」と呼ばれるようになった。また、鉦打ち・モリャーシともに頭の上に「旗さし」を立て、女物の衣装・稚児衣装をまとうところは、勇壮な中にも派手さの混じった舞囃子である。
平成20年11月12日佐賀市重要無形民俗文化財に指定

出典:文化財申請資料(文化振興課)

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