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[神社仏閣][神社][高木瀬校区]は13件登録されています。
神社仏閣 神社 高木瀬校区
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八幡社
八幡社は大字東高木422番地にある。肥陽古跡記に、高木八幡宮は高木村にあり、久安中、貞永の祀るところと伝う。宮は今佐賀郡高木瀬村八本杉にありて、社記に「高木越前守藤原貞永と申す人、平氏残党追伐の命を蒙られ、此の国へ下向有りて、佐賀郡高木の庄に居住せられ、武備を専にして、民を撫育し、大平の治に帰らん事を思ひ計り居られしに、或る時午睡せられける夢の中に、忝くも異霊の御姿忽然と顕れ玉ひて、告けて宣はく、汝能く我が皇祖神明を仰き尊み、誠心を盡し怠らざること年久し。今より朝日の昇る像を画きて籏の紋とすべし。然らば武運必ず開け、志願満足すべし、我は是れ八幡大神なり云云」と。 社記によれば、後鳥羽天皇の文治2年(1186)高木越前守、藤原貞永という者、高木の庄に、下向して居城を構えていたが、霊験に任せて旭日の形を画いた旗を押し立て、居城の守護神として八幡大神を奉祀した、とありこれが八幡社のおこりである。 この旭日の形を画いた。旗じるしが、高木家の家紋の「十二日脚」であり、従って八幡社の紋所も十二日脚である。なおこの十二日脚の家紋は、後に隆造寺家が踏襲し、鍋島家の家中でこの紋を用いる者もあった。辻の浄蔭寺の墓地にはこの紋を用いた鍋島氏の幾多の墓石がある。 さてこの本社創建の年代であるが、上記のように記録には文治2年云云とあるが、後に述べるように嘉永3年に神社の700年祭が行われたということから判断すると少し年代的にずれがある。嘉永3年の700年祭が真であれば創建は近衛天皇久安年中にさかのぼることとなる。 肥前古跡縁起巻ノ上には 「高木八幡宮本地阿彌陀如来也文安年中源氏一族高木越前守貞永敵追討の為云云、」とある、が文安は400年も後世であるから久安の間違いと考えられる。神門の前に高木氏の子孫である、背水高木誠一(東京在住昭和18年没)高木良次(佐賀市水ヶ江町在住)両氏が昭和16年11月建てられた石標があるがそれには高木八幡社 久安年中高木貞永創建とある。 このように創建の年代は正確には把握し難いが久安年中の創建とするのが妥当であると考えられる。 本社創立の年月はこのようにすこぶる古く、中世当国に威勢を振うた高木氏の礼拜所であったから昔は非常に盛運を極めた神社であった。社記古文書は天明年中焼失して当時をしのぶよすがもないが、社前の一基の萃表は銘により藩主光茂公の寄進であることが判る。かつ又光茂公、剣一振を寄進されたことからしても藩主の崇敬厚かったことを知ることが出来、上佐賀下郷中の総社であった。 次に御祭神のことであるが当社に残されている由緒記には 御祭神は 大鷦鷯天皇 (オオササギ) 誉田天皇 (ホンダ) 気長足姫天皇 (オキノナガタラシヒメ)とある。 大鷦鷯天皇は仁徳天皇、誉田天皇は応神天皇、気長足姫天皇は神功皇后のことである。 八幡様という神様がどんな神様であるかについては諸説があるが、一説には、伝説に伝わる三韓征伐に武威を顕わされた仲哀天皇(足仲彦尊 タラシナカツヒコ)、その皇后の神功皇后(気長足姫)、その子応神天皇(誉田別尊)の三神であるといわれている。 なお佐賀県神社誌要には八幡神社の御祭神は 仲哀天皇 菅原道真 仁徳天皇 応神天皇 天鹿兒矢命 天照皇大神 神功皇后 源為朝 「無格社合祀に依り菅原道真外四柱の祭神を追加す」、と誌されている。すなわち由緒記にある三柱の御祭神の外に四柱が追加されたのである。 明治41年9月に、佐賀県訓令で小社の合祀令が公布された。氏子の少ない小さな神社は維持管理も行届かず、神社の威徳もおろそかにされるので、そのような小社は統合し、神明の威徳を発揚し、経営を容易ならしめ、神社の維持を永久に確立させるためのものであった。神社誌要に八幡社の祭神に菅原道真外四柱の祭神を追加すとあるのはこのことであって、地元にあった皇太神宮や天満宮、為朝廟を合祀したのである。 八幡社には地元東高木地区の外に、大字東高木、大字高木の各地区に多くの末社があった。これらの末社も、この合祀令によって八幡社に統合されて、当時これを寄せ宮といっていた。ところが寄せ宮した後に、地区のあちこちに流行病や、災害などが発生したので、氏子である地区民も寄せ宮がいけなかったというので、寄せ宮された各地区の天満宮などはすべて元の所に遷座されることになった。 これと同様に東高木地区にあったもので寄せ宮された四柱のお宮も元の所に遷座されているものと解せられるから、現在の八幡社御祭神は由緒記にあるとおりの三柱である筈である。 肥前古跡縁起巻の上に 八幡神社の祭神が、本地阿彌陀如来也とあるのは、すこぶる不可思議であるが、神仏混淆時代の記述であるかと考えられ、やむを得ない表し方であろう。
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太郎坊社
拜殿東側に在り、祭神火具土の神 太郎坊は次郎坊、愛宕坊等所謂八天狗の中の一神で元来火の神である。民間の信仰として難病その他の危難を救う神とされている。太郎坊社は55聯隊ができる頃、現大島神官の祖父の時代太郎坊講を仕立て建立されたものである。今でも参拝者多く、東京、北海道在住の人の供進があっている稲荷社。八幡社境内の西北隅に在り、椎の森稲荷ともいう。元椎の木の大木数本があった所から名づけられたものである。その東には、55聯隊兵営の中に在ったものといわれる由緒不明の灯台型の祠塔がある。 境内東北隅には不動橋附近にあった不動明王を祀った石塔数基と、大乗妙典千部塔及某禅尼の墓一基がある。 この墓碑には 「為因派浄縁禅尼 享保16辛亥天8月初2日 萬里憎建之」 とある。 境内には、楠、その他椋、椎、欅、椿などの大木がうっそうとし、正法寺陽福寺等の森と共に野鳥の安息場所となっているが、その中けやきは、昭和2年御大典記念に植えられたものである。 当神社の祭典日は 例 祭 春4月5日 秋11月15日 小 祭 1月1日 8月1日 12月1日 となっており、嘉永3年(1850)と昭和28年(1953)とにはそれぞれ700年祭、800年祭が執行されていて、棟梁に下記の通りの記録がある。 一,天元地妙 国家安全 嘉永三歳 大島主殿 八幡宮七百年御祭 三元妙壇 御 清 祓 神楽執行社頭康栄氏子繁昌處 神変鎭護 五穀豊饒 戌 11月吉日 謹修行之 大島土佐正 同 大助 中島頼母正 天地心御柱明阴一本 野口長門正 欽修行之 江副但馬正 副島石見正 天元地妙 国家安全昭和28年祭祖 高木越前守 藤原貞永 高木八幡宮八百年大祭 三元妙壇 御 清 祓 神楽執行社頭康栄氏子繁栄 神変鎭護 五穀豊饒 4月5日 大島宣光謹修行之 江副 家治 司祭池田虎三 岡 作市 天地心御柱月日一本 大島 宣光 欽修行之 西寄善太郎 西原 勇 高木末蔵謹書 毎年行われるお祭の中、盛んににぎわったのは、8月1日の祇園と11月15日の秋祭であった。 祇園祭には境内に舞台がかけられ、芝居、佐賀仁和加、浪花節(祭文語り)などでにぎわい、門前一帯には沢山のおこし、あめゆ、氷、わた菓子などの店が出ていた。秋の祭はいわゆるお供日で、この日は特に浮立が奉納された。
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長瀬天満宮
今から1000年以上前、後一條院の時代、京都の康清法師なるもの諸国巡遊の際寛仁元年(1017)2月14日当地長岡に一泊し、霊夢を見、勅命によって、このところに天満宮を建立し、康清及其の子孫神職として奉仕した。そして神領40町歩と定められ、同時にこの地を長瀬と改称した。 下って後柏原院は勅願社たるの故をもって、御真筆一巻を寄進せられ、又永正12年(1515)藤原常家、胤眞の両名宝殿の造営を行った。後に藩主鍋島勝茂公も社殿の修造を加えた。 末社は若宮社を初め内侍天神、天満宮、富士権現など14社ある。この中若宮社は今の西長瀬、八龍大明神は岸川村にある、藤之太輔はフジンタニという地名が残っていて笹藪の中に小さな石祠が残っている。梨本天神は地区のずっと南の方にあったそうだし天神ノ木という地名が残っているのも、この由緒に基くものである。 康清法師は瑞夢を見てから、長岡之瀬戸を長瀬と改称し、数拾ヶ町を知行とし、その内40町を神領と定めた。 この康清というのは元来65代花山院の御宇山城国源朝臣三位左近太輔康高という者の子である。花山院御退位御出家し給いし後、彼も天台山にて康清法師となった。その九代目が康一法師である。 この頃鎌倉より堺亦次郎源眞正というのが当国の代官となって延慶年中(1308)に西下して来て、神領を改め、康一法師の婿となり、初めて、惣之市というのを定めた。後に至って、苗林坊、宮司坊などが社役を勤めた。 康一法師は天台宗の妻帯僧であって、その先祖がこの神社の由来を知っており、先祖の康清の領地を長瀬というのは、彼がこの地を長瀬と改称しこの土地40町全部が康清の知行所であったからである。又彼は北野天満宮の開基であり、後又当社の開基となったから、今は当社を二ノ宮とも申し奉るのである。 さてまた彼堺氏は相州鎌倉北条相模守貞時公の旗本であったがこの時から当国の者となり、後になって龍造寺家の家中となり代々当社の神主となることになった。 代々の天皇と当社の神主との関連、堺又次郎の系統は由緒書の通りである。 社内に建立されている布巻観音は元来、筑前国布巻之原という所にあったものを豊後の大伴一族の者が当国肥前北山まで持って来て谷河に打ちこんだ。それが当地の川筋に流れついたのを堺駿河守宗吉という人が、これを取り上げて当社にあがめ建立したものである。 勅筆の御縁起が御宝殿にある。これはこの社が勅願社であるから御柏原院の時御親筆一巻御寄進あり、又この御宝殿の棟木に御造立は永正12年(1515)とある。又この棟木に、今上皇帝聖躬萬歳とあり、又大檀越、藤原朝臣常家同胤眞代官家光是ハ堺氏河内守でありこの外社役等書き記してある。 境内には幾多の石祠や小宇がある。まず太鼓橋までの間に、西南隅より自然石々塔、嘉永六年(1853)丑12月吉辰とある菩薩像、最近に建てられたと思われる小宇には、地蔵尊、弘法大師、不動明王が祀ってある。 小さな弁財天と観世音の石祠もある。観世音の祠には、嘉永二己酉(1849)4月吉辰福地与助建之ときざまれている。 太鼓橋を渡って拝殿に向って左には、三基の小石祠がある。「天満宮」とあるものには、明和二乙酉(1765)11月25日施主原八十次郎元喬、大坪長兵衛備武、前山彦七とあって、明和2年といえば鳥居のできた年と同年代のものである。 東側には現人さんといわれる大きな自然石の石塔がある。思うにこれは方々で見られる大乗妙典一部一石の塔と思われる。村の迎徳市氏の話によれば、下には法華経が埋められていて、昔から夏の祗園祭の余興にかけ舞台を作るとき、もしこの現人さんに材木でも引きかけるときっとその晩は大雨にたたられたと伝えられている。なお神殿の東北隅には正一位稲荷大明神が祀ってある。 この天満宮にもこのようにあちこちの寄せ宮、神仏習合の現象が見られる。布巻観音はその最も大きなものの一つである。 御神前の奉納物としては、ごく古い小形の狛犬一対がある。台石も何もない素朴なこの狛犬の製作年代等一切不明であるが、県内でも珍らしい石造物であって東高木八幡社にも同様のものがある。次に堂々たる上向と下向の阿呍の石像獅子がある。これは明治31年(1898)11月光行寿七氏より奉納されている。尚右側に春日燈籠一基が建っている。これには奉寄進石灯炉天満宮御宝前、寛文十庚戌歳(1670)5月10日 江里 金太○○吉軌と刻まれているが、鳥居の建立された時代よりも100年あまりも前のものであることは注目に値する。 天満宮社殿の歴史は、最初の御造営が永正10年(1513)であって、その後元和5年(1619)鍋島勝茂公により補修されていることは由緒記によって明らかであるが、それから幾多の変遷があったであろう。ごく最近昭和26年に至って、修繕工事が行われている。そのときの工事世話人、杉町太郎氏の祝詞の中に、元禄13年(1700)改築、天保13年(1842)4月、葦にふき替え、明治43年、時の区長糸山清一郎氏のとき、屋根の差替修繕をしたとある。それが腐朽甚しきに至ったので、区民一同及び篤志家の賛成を得て、更に改修を行うことになった。西長瀬金崎助作氏、長瀬前山為次両氏の工事請負によって、同年7月25日、完成したのである。工事世話係は迎徳市、杉町太郎、千住喜代治、宮原欣次郎、千住輝治の五氏であった。工事費総額 112,000円(これには観音堂屋根葺替1,000円を含む)を要した。財源は境内の松、杉、雑木の売却代、92,000円、その他は篤志寄附浄財である。寄附者名簿は杉町太郎氏書の掲額がある。拝殿並に神殿は約15坪位、すこぶる豪壮である。 拝殿の格天井には、見事な絵馬96枚が、揚げられている。ほとんど長瀬地区の人の奉献である。光行次郎、石井力三郎などの名前も見える。画家三松という人の画いたのが多いが三松は田原家の人ではあるまいか、天満宮由緒記を書かれたと伝えられる鶴清気先生も画がうまかった。鶴先生は田原家出身であるから、画家の家柄であるとうなづける。 又、三十六歌仙の板額34枚もあげられている。崇敬者の尊い敬神の現れがいつまでも、なくならないように維持されんことを望む。 長瀬天満宮に関連して西長瀬、法常寺所蔵記録に次の通りのものがある。 法常寺支配地 一、佐嘉郡長瀬村 天神敷地 壱畝 本帳除 若宮敷地 拾歩 〃 天満宮敷地 壱反九畝十八歩 長瀬本分ニアリ 右祭礼 11月25日 一、同郡同村 古川天神敷地 十六歩 本帳除 養父社敷地 四歩 〃 藤之大輔敷地 八歩 〃
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坪ノ上天満宮
昔は曲渕天満宮と称していた。享和3年(1803)村の鎮守として地区の東北隅(鬼門)に創立された。周囲は杉の森にかこまれ、裏には一本の松の大木が天にそびえていた。風のない日でもその下に行くと松風の音がしていた。この天満宮が現在の所に移転されたのは、大正の初め頃であった。天満宮のあった一帯は今も天神という地名で呼ばれている。曲渕の名は、前に鎮座されていた所の地名で、脊振山の三瀬峠を北に越えてすぐ下の地区である。そこに住んでいた秀島氏などが坪ノ上に転居して来た時に奉じて来たものであるから曲渕天満宮といわれていたという。 この天満宮も昭和11年5月に社殿が新築され、元の社殿は現在、永渕三津雄氏宅の一部に移築されている。 この時の建設委員は永渕惣三、八田市三郎、福地新四郎、古賀平一、赤司伝三郎、小林六郎各氏であった。建築浄財の寄付芳名塔は翌年1月の建立となっている。 鳥居の銘には 右柱 天下太平 国家安寧 五穀豊穣 萬民快楽 宮司 於保山眞乗坊長眞 青 木 庄 市 郎 木 原 弥 兵 衛 木原喜右ヱ門 松本松右ヱ門 木 原 善 十 三 浦 伴 兵 衛 久 保 完 三 郎 原 武 右ヱ 門 木 原 文 蔵 秀 島 武 十 野中佐五右ヱ門 中 島 六 平 青木三郎兵衛 中 島 喜 兵 ヱ 中 島 郡 平 古 川 佐 兵ヱ 左柱 奉造立大日本国鎮西之前州佐嘉郡坪上邑萃表一柱 維時享和三癸亥天日吉祥 氏子中改○○ 石工人敬白 と刻されている。 又眞言宗由緒に、嘉瀬荘宝樹山大權現社、徳書院の末寺である徳永村眞乗院の抱えとして、熊野大權現、同郡坪上村と書いてある。これは寛政3年(1791)亥6月の届書であるから、その頃の熊野大權現はどこにあったであろうか。現在坪ノ上天満宮境内の西寄りに比較的大きい石のほこらがあるが、あるいはこれがその大權現であって、寄宮をしてここに移したものと思われる。この外に、境内西寄りには地蔵尊、笠石らしき石造仏、六地蔵、観音石仏、流嫡社、庚申塔、追薦塔などが並んでいる。地蔵尊には三界万霊、文政2年(1819)10月吉日、庚申塔には、庚申尊天、文政2年12月吉日の彫刻がある。特に珍らしいのは、ここの六地蔵である。普通の六地蔵と異なって、六地蔵さんの上段の方に、尚六体のお地蔵様らしいものが刻まれている。この形態の六地蔵は町内では見当らない。又かすかに「干時永正十五寅(1518)」の文字が読み取られるから約460年も前のものである。 又境内には、観世音菩薩、薬師如来を祀った小宇がある。約一坪弱の小さいものであるが、大正15年、女連中によって再建たことになっている。毎年7月17日には、女の子ども達が豆祇園をしてお祭をするという。
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平尾天満宮
大字長瀬2510番地、即ち平尾地区の東南端にあり、平尾天満宮は今よりおよそ五百数十年前に越前地方より封ぜられ、一万石を領する平尾の殿様によって建立せられたと伝えられる。又一説には現在の巨勢町平尾天満宮の分神ともいわれる。これは当時この辺一帯が湿地帯であり、その開懇のため巨勢町平尾の人が移住して来たのでその氏神を祭ったのではないかとも考えられる、それでは天満宮の創建はいつ頃であったろうか。参道正面の鳥居には、「天満宮」の額があり、 右柱に 肥前州佐賀県平尾欽造立 天満大自在天神宮萃表伏乞 一天平昂四海大清災禍来爾萬姓安榮 立石四郎右衛門 服巻覚兵衛 左柱に 旹享保第五龍集庚子杪夏吉慶辰 松本次郎左ヱ門 立石兵左衛門 當村士女 同村講衆 敬言 役士 槇市郎左衛門 土 井 茂 介 と記入してあるから、今から255年前のものである。天満宮であるから祭神はもちろん菅原道眞公である。 この天満宮は25年毎に大祭が行なわれて来た。毎年の祭事期日は旧暦8月25日であったが、大正の初め頃から陽暦9月25日に変更された。そしてこの祭事には必ず奉納相撲が催されることとなっている。旧幕府時代は非常に盛大に行われ、土俵も3つも作られたという。昔は相撲を催すことはなかなか難しい規則があって容易に許されなかったが、ここの相撲だけは特別に許されたということである。かつてある代官は相撲開催の届をとがめたところ、かえって藩公鍋島様から罰せられたという。江戸、大阪の相撲が佐賀地方で興行した時でも、平尾の者だと名乗っただけで大木戸をあけて通してくれたそうである。この相撲には、遠く福岡、長崎、熊本方面からも力士が集って来た。しかし賞品は餅だけであった。このため平尾の餅相撲としてかえって有名になったのである。この日は地区あげて大にぎわいでごちそうにはどじょうじるがつきものであって、親類縁者ばかりでなくよそ者でも上りこんでごちそうにあづかっていたと伝えられる。この相撲も時代の変遷によって、次第にすたれ終戦前後は消防組の人が相撲を取るぐらいになってしまい、現今はやっと子ども相撲が催される程度である。 明治大正の頃は、小学校の児童全員が参拝し、小餅をもらうのが何よりの楽しみであった。祭の時には、いろいろな出店があったが、このお祭にはよくこまが売り出されて子どものこま遊びが始まるのはこのお祭がすんでからの季節であった。 天満宮敷地はおよそ600坪もあろうか、4周に喬木そびえ、参道入口に猿田彦大神がある。 拝殿前には天満神社一千二十五年祭典記念として石造狛犬一対、石像神馬一頭が奉納されている。これらは昭和2年10月当村寄付として奉納され、区長武久米吉外19人の発起人によって浄財が集められた由で、主として平尾区の氏子並びに同地出身の区外成功者の応募者の氏名が刻まれている。天満神社一千二十五年祭というのは、 平尾天満宮の一千二十五年祭でなく、祭神道眞公の没年が延喜3年(903)であるから、祭神の一千二十五年祭のことである。従って天満宮の建立年月日はこれからは推定されない。又明治28年8月建設の燈ろう一対も氏子より寄進されており、大正2年6月25日には服巻作一郎氏よりのぼりざお石一対が奉納されている。 境内西側には、小堂宇二基がある。北の一宇には観音小路講中、南のお堂には大正7年9月、徳島ツイ、武久カツ、西岡チカらの名前が刻まれた石碑がある。南の方の一宇には例の木起しの地蔵が安置され、又昭和39年3月吉日、功徳主八田吉次と刻まれた観音像及び五輪塔の一部らしいもの二個がある。北側の堂宇には狛犬らしい獣面の臥像に乗った半伽の女人像一体、菩薩像二体、観音像一体がある。 この観音像の背面には 明治32年7月24日再建 長谷部友雪 徳島喜作 西川種近 中島多三郎 中村徳一郎 塚本嘉一郎 菖蒲久七 水町龍七 と彫刻してある。この観音様は仲代にあった観音様と思われる。明治末期頃まで未だ井戸水が飲料水として利用されない時代には、仲代地区は平尾道路の突き当り市ノ江川の土堤下に清冽な清水のわく井戸があって、それを飲料水として利用していた。三本松方面からも飲料水として水汲みに来ていた。その井戸のどう穴のようになっていた所に観音様が祀ってあった。この水を利用しないようになったために、この観音様も天満宮境内に移されたものと思われる。又拜殿西側奥まった所に弁財天の小堂がある。これは大正13年7月平尾青年によって再建立されたものである。 又こけむした巨大な、自然石が半分土に埋れていて、僅に表に「日」を表した円形と南無阿弥陀佛の刻字が読みとられる。これは他の神社にも見られるように、法華経一部一石の塔大乗妙典経塔のようなものであろう。 なお、天満宮より西約100mの市道側には通称三日月さんと呼ばれている、もう一つの自然石があるが、この石の表面には「月」の形が刻まれている。日、月の形が刻まれているこの二つの自然石には何等かの深い関連があるのではないかと想像される。しかし古老の話によれば三日月さんは佐賀戦争の時の戦死者を祀ったものともいわれている。
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養父社
創建されたのは下高木の守り神としてであり、祭典は8月4日の夏祭りや12月7日の秋祭りで、高木八幡神社の神官により祝詞奏上が行われている。 昭和51年11月には、佐賀市都市計画道路の植木・東高木線の新設拡幅工事に伴い約200m西南の現在地に遷座された。 養父社、通称「おやふささん」で夏祭りの当日(8月4日)で、戦前は付随する建物で旅芸人による演芸会が、戦後は青年団による演芸会が催され、時には映写会も開かれ、娯楽の少ない時代であったために、町区民の大きな楽しみで人気があった。 しかし、昭和30年代には取りやめになっている。
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小里五社権現
西小里の西方にあり、祭神や起源は明らかではないが、伝説によれば大昔北条時頼が小里村に滞在しており、後川上の大願寺で亡くなった。大願寺、小里の村人は各々社を造ってその霊を慰めることにした。これが五社権現であるという。大願寺の社が本社であり、小里の社が末社という関係にあったらしい。大願寺の本社の屋根の葺き替えには小里の人達が出動することになっていた。この奉仕作業は昔からずっと続けられてきたようであるが、小里の氏子も数軒と少なかったので、今から約80年くらい前を最後に打ち切られ、以来絶えている。祭田は3畝程あり、以前は9月18日を祭りの日とし、どじょう祭りとして有名であったが、今は11月の勤労感謝の日にお祭りをしている。 ここの権現さんは、子孫繁昌のお守りとして崇められ、そのためお祭りには決まって芋や豆が出されている。 境内には聖観音1体及び地蔵菩薩2体が祀ってある。この聖観音は明治23年旧10月18日奉献され、施主は台石が固定されたセメントに埋もれて判明しないが、江里口、真嶋、木下の姓が見える。このお堂は、昭和5年9月吉日木下儀六氏より奉献されている。
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仲田代天満宮
仲田代天満宮の由来 仲田代天満宮は元、森蔵天神と言い、霊元天皇(貞享2年/1685)徳川綱吉将軍、鍋島光茂の時代に創立され上渕地区の東部にあったものを仲田代の当地に移されたものです。祭神は菅原道真公です。森蔵天神には当時農閑期にお晦日(籠)等行われていました。明治41年無格社合併の県の方針によって、一旦は東高木八幡神社に合併され其の後元の村々に帰座し、大正4年百武嘉一、百武政一両氏の土地提供により現在地に建物も新築されましたが昭和20年8月5日夜大東亜戦争の空襲に逢い鳥居もろ共に倒壊しましたが其の後公民館として改築利用現在に至っています。鳥居には左の銘がありました。 肥前佐嘉西渕村天満宮萃表銘 萃表雙立 千年鶴 伴松梅 社頭求鎮 万戸民 饒麥稲伏惟国家久栄 郷邑長保 大檀那 鍋島山城守直紹 願主 貞享二年乙丑十一月二十五日 以上 昭和五十八年九月吉日
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若宮八幡社
小里と坪の上の境の田圃の中には、若宮八幡社という祠があった。熱病の神様として信仰を集め、人々は、豆腐を供えて祈願をしていたが、後段々と廃れてきたので、長く高木瀬小学校の校医をしておられた池田俊溢氏がこれを遺憾とし、大正10年頃自分の屋敷内に移され、今も池田氏の庭に安置され丁重に祀られている。 天明七年(1787)二月吉祥日の刻がある。 小里本村より、二又へ行く分かれ道には太神宮と猿田彦大神の石碑がある。猿田彦大神には明治22年12月19日、小里分施主、木下茂吉、羽立弥八と記してある。 道路改修などにより以前の場所とは少し変わっているが、今も小里本村の安全を守る神様として大事に祀られている。若宮八幡宮と2体の石碑は、小里五社権現の秋祭り(勤労感謝の日)と一緒にしめ縄を張りお祀りをしている。
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鏑流社
天明六年(1786)の上高木の絵地図には、養父社として示されている。東高木八幡社の末社であって、同社に残っているもう1つの記録によれば、祭神は天鹿供矢命となっている。創建の年代など一切不明であるが、社殿は昭和16年に改修されている。敷地はおよそ300坪はあろうかと思われ、位置は上高木宿の裏手にある。 拝殿正面の欄間には、十二日脚重ねの紋が彫刻されている。神殿の丸瓦にも十二日脚の紋が打ち込まれている。この点から推量すれば、この神社は高木城主、高木家から勧請されて建立された神社ではないかと思う。 敷地内には上高木公民館があり、平成20年9月に改築された。
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辻天満宮
辻天満宮は領主鍋島山城守直紹公の創立で、明治初年迄は青銅ぶきの立派な神社であり、祭祀田も天神面田、権現面田としてそれぞれ1反歩当、つけられていたというが、当時の記録がないため詳しいことは一切不明である。 山城守は西渕にも天満宮を創っており、その鳥居の銘に貞亨二年乙丑(1685)十一月二十五日とあるから、辻天満宮もその頃の創立ではあるまいか。 辻天満宮は50数年前までは道路の北にあって南面していた。町区の中央にあって拝殿約6坪、敷地約150坪くらいあると思われる。創建時代は不明であるが、昭和24年に改修された記録がある。
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立花家観音
穂積氏忍山宿禰の娘で、日本武尊の妻であった乙橘媛が祀られている。1坪くらいの小さな墓がある。屋根の麦藁の葺き替えは村人が行ってきたが、麦藁の入手が難しくなったので、瓦葺きに作り変えられた。 ご神体の観音像は明治時代にお堂を建てた時に入手したものと云われている。(観音像は寛永年間造られたものとされている)昔から必ずご加護のある有難い観音様として地域の人々には親しまれている。いつから始まったか定かではないが、毎年1月18日は観音講として6歳から14歳くらいの女の子が1軒の家に集まり、まぜご飯でおにぎりを作って観音様にあげ、食事をすることが楽しみであった。また、8月18日は豆祇園といって、各家庭から頂いたお金で豆と砂糖を買い年長者の家で煮てもらい、観音様の前にバンコを置いて、お参りに来てくれた大人の人にお玉1杯の煮豆とお茶でもてなした。 毎月18日はこの観音様のお祭が今でも行われている。
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布巻観音
長瀬天満宮境内には、布巻観音さんという観音さんを祀った観音堂がある。 観音堂は間口、奥行共に2間、高さ3間の正方形のお堂で立派な木材で建築され、屋根裏の垂木は二重の流れとなっている。屋根の材料は芦であるが、今はトタンで覆われている。静かな天満宮の裏手にどっしりと建っているお堂を眺めていると飛鳥、大和路の古寺を訪れた感じになる。昔はよほど遠い所からもお参りがあったものと見えて、堂内の壁には熊本県、福岡県の人の落書も見られる。 布巻観音については色々の伝説がある。長瀬天満宮由緒記にあるように、筑前の国布巻の原にあった観音様を大友の一族が北山まで持ち来り、後これを龍造寺の家中駿河守宗吉法名正伯という人がここに移した。布巻の原から移されたものであるから布巻観音という説と、もう一つは神埼郡脊振村鳥羽院に伝わる伝説である。それによると、神埼郡脊振村鳥羽院は元絹巻の里といった。この絹巻の里及びそこにあった絹巻観音についての伝説に関しては郷土史家栗原荒野氏が昭和5年10月22日以降毎日新聞婦人欄に肥前女人風土記 絹巻の里として稿を寄せられている。すなわち、神埼郡脊振村に鳥羽院という一地区がある。トバイと読みその昔後鳥羽天皇が隠岐の国から御潜幸になり、西川左衛門太輔源安房が供奉して来たという伝説の地で、今も後鳥羽天皇の御陵と稱する塚や後鳥羽神社などがあり、西川氏の嫡流が代々住職をしている教信寺という真宗のお寺もある。鳥羽院はもと絹巻の里といった。絹巻の里この女らしい地名のおこりは何か、いわれがあるにちがいない。そのいわれはこうである。 昔脊振の山里に父と娘と2人住いの貧しい家があった。父は間もなく後妻を迎えたが、それは娘にとってはつらい継母であった。しかし邪険な継母にしいたげられて泣かぬ日はない小娘の心にも一つの慰みはあった。それは観世音の名号を唱えることであった。継母は娘が朝廷に献上する織物が織れないといって娘を折かんし、絹織物の巻板を娘の背に結びつけてとうとう追い出してしまった。 とっぷりと暮れた荒野の原を泣く泣くさまよっているうちに、娘は松のしげみの間に一つの燈火を見つけてその家の中に入った。中には一人の美しい女がいて機を織っていた。娘はその美しい女の人から織物の織り方を教って父の元に帰って来た。後で父娘でその美しい女の人にお礼をいわねばと思って尋ねて行くと、その人の家は跡かたもなく消え失せていて、そこには織り上った白絹の布が積み重ねられ、上には背負って来た絹巻の板が置いてあった。さては観音様のお導きであったかと、又娘は山と積まれた白絹の前に観音の名号を唱え手を合せて拝んだ。家に帰ると、今度は継母が居たたまれなくなって家を出ようとしたが、娘は、お母様の邪険も、わたしたちのためには善智識でございました。これも皆観音様の御利益でございます。となだめて取りなしたので、継母もひどく感じ入って邪険の心が直り、親子三人が睦しく裕福に暮すようになった。それからこの里に観世音を祀り、継母が結びつけた絹巻を後光にしつらえて、絹巻観音と崇め、ここを絹巻の里ととなへた。 この物語は、今から260年ばかり前にできた。肥前古跡縁起にも書かれ、長瀬村の天神の本地となったとある。 又昔誰かが絹巻観世音の巻板を盗んで行ったが、川上川の官人橋を通る時、あまりに重いので川の中に捨てた。すると川下の長瀬に一躰の観世音像が流れついた。人々が拾いあげて見ると、像には布を巻いてあったので布巻観音ととなえて祀ったが、その時から鳥羽院の観世音は姿を消されてしまったという。 伝説としては以上の通りであるが、史実に近いものと思われるものに、龍造寺家系の記録及び鳥羽院にある教信寺というお寺の由緒記などから判断すると次の通りである。 昔鳥羽天皇の側近を守護するいわゆる、北面の武士に藤原季慶という者があった。武勇の誉れも高く、鳥羽帝の信望も厚かった。季慶は、高木城々主藤原季経の二男、季家を養子として、自らは入道隠遁して、宿阿法師と号し、従兄に当る西行法師(佐藤義清)と共に諸国を行脚し、後この鳥羽院に落ちつき一庵を結び、鳥羽上皇のために菩提を弔った。 これが、現在鳥羽院にある教信寺というお寺であり、山号も鳥羽院山という。 季慶程の天皇に仕える豪族の武士であるからには、布巻観音のような世にもまれな優れた十一面観音を都から招致し得たことと思われる。栗原氏の記事の載っている新聞にある写真の通り、頭上に十一面観世音を配し、手には蓮華の花を持ち給う姿である。特異な点は、光背の腰のあたりの背面に織物の巻板が真横に添えられていることであって、これが伝説の物語りと一致するのである。 季慶が仕えた鳥羽天皇と鳥羽院に潜行されたという後鳥羽天皇との間には7代約180年の年代の差があるが、隠岐に流された後鳥羽上皇がお名前にゆかりのある鳥羽院村をたどって潜行されたということもあながち考えられないことではなかろう。 ところが季慶の孫の季益というのが後に長瀬村に居を構えるに至ったために、教信寺にあった観音様もお移し申上げたと思われる。教信寺由緒記の末尾に、「彼の山は里遠くして、人の通いも稀なりとて、後にこの観音を守り奉り、長瀬村の本地ぞと崇め奉りけり」 とある。 鳥羽院に伝わる伝説、教信寺の由緒記毎日新聞の記録等は鳥羽院出身で、多布施町在住の永渕輔夫氏の所蔵物、助言によるものであることを附記しておく。 この観音様は、機織りの神様、又縁結びの神様として遠近の信仰を集めて有名であった。通称ノノマキさんといっていた。機織の神様であるので、御像の光背には腰のあたりに、真横に筬の形をした彫刻がある。観音様は大正3年(1914)に補修彩色された。 光背の裏に 大正3年10月2日 長瀬村本村中 世話人 中小路 女中 観世音様彩色 彿師 神埼町3丁目 村上広市 糸山清一郎 森永乙次郎 当時代元老 杉町七三郎 宮原彌一郎 田原 鈴蔵 横尾幸一郎 という記録がある。 しかし、数100年前、おそらくは名だたる都の仏師によって作られた尊像であり、お姿も高貴、優美であったがためにか、昭和37年に、心なき輩のために盗難の厄に遭い、今どこにおわしますか行方は判らない。故里の地を離れ給うた、御仏の心はいかばかりであろう。まことに惜しいことをしたものであって、当時の長瀬の御婦人達ははだし詣りの御願をかけて探されたそうであるが未だに行方が判らない。ただ、台座と光背だけが淋しく残っている。でも今は千住喜代治氏より御身代りの白磁の観音像が奉納されている。 西長瀬法常寺の古書には大和町玉林寺の末寺の中に、佐嘉郡長瀬村布巻寺と記載されてあるのもあるが、これは玉林寺の住職によって観音様の供養が行われていたためであろうと考えられる。