下飯盛

下飯盛

■所在地佐賀市東与賀町下飯盛
■年代近世
■登録ID1161

下飯盛は中飯盛の直ぐ南部に隣接しており、その下に位置することから「下飯盛」の地名が生まれたものと思われる。南北に長い集落であるが、その中央に八幡神社を祀り北部に開田庵、南部に龍田寺と地蔵院の3か寺を擁して昔より民家も相当に多かったのである。
『慶長絵図』によれば下飯盛は、佐賀平野の南限集落として、「二千三十七石九斗二合」とある。この飯盛は現在の佐賀市本庄町の上飯盛と見られ、戦国時代の開拓地であろう。下飯盛は上飯盛の直ぐ南部に在るところから、上飯盛からの移住によってできた干拓村で、正保絵図に「下飯盛村」と見える。万延元年(1860)の郷村帳には、中飯盛村の小字として「大屋舗小路・江副小路・辻小路」とあり、下飯盛村の小字には「長八小路・石丸小路・山田小路・道手小路」と記されている。
『佐賀県の歴史』では、7~800年前はこの辺一帯は海だったらしく、飯盛から北部を小津郷という海岸であったとのことである。『佐賀郡誌』の一節に次のような記事が載っている。
「上飯盛は字の如く、上飯を盛るという意義にて中古時代は飯盛以南は一面筑紫潟なりしが、現今の東与賀即ち大野・住吉・新村の海面埋築の際は、新地方の役所を置き飯の炊出方を為し、之を盛りて公役へ配付せしと云う現今の与賀高等小学校の敷地となり」とあるように、お上のご飯を盛ったことから名がついたという。上飯盛の下に村ができたのを下飯盛といい、その中間を中飯盛と呼ばれたと思われる。
ある資料で当村落内の寺院の創立を調べたら、龍田寺の創建は文明2年(1470)に梅屋和尚を開山として始められ、開田庵の建立は享保2年(1717)となっており、佐賀龍泰寺の高弟峰月圓澄和尚を法地開山としたとある。当時この開田庵の一帯は潟地で満潮の時は漁舟が出入りしたが、後には土地を住民が開いて田畑を作り庵を建立し「開田庵」と名付けたとあること等から、この辺一帯は自然埋没や干拓などによってでき上がったことが証明される。
また古来ここの住民は敬神崇祖の念に富み、ほぼ中央に守護神の八幡神社を祀り、北部と南部には開田庵・龍田寺・地蔵院の三寺を開いて豊かな生計を立てて来た。

出典:東与賀町史P1212