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[物語・いわれ][地名・とおり名][東与賀町]は22件登録されています。
物語・いわれ 地名・とおり名 東与賀町
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立野
立野は東与賀町では東北の端に位置し、東は八田江を隔てて川副町に、北は本庄町に境をしている。貞享年中(1684〜1687)の郷村一覧には、立野村の小字に「新ヶ江」が記載されているので、少なくとも400年前にこの村はできていたであろうと思われる。「立野」という村落名はどうして生まれたかは明瞭でないが、山口恵一郎の『地名を考える』の説によると「湿性」を表す語として、「野」や「沼」が極めて多いとのことである。この村落も湿地帯即ち干拓により生まれた地名と考えられる。また「野っ原に家が立った」とか、「野の中にしっかりしたものを立てる」等とも想像されるのである。 この北西部の徳富団地の新住宅は、昭和49年から出来たもので、末次~中島線の道路が昭和30年に完成し、昭和41年には中島~立野線が落成開通した。更に立野より船津への道路も完成して、東与賀東部の村落と本庄町周辺との交通運輸の便は非常によくなった。 この集落の特徴は、本県における「水田酪農」の開祖ともいうべく、その創始者はこの村出身の故袋正美と下飯盛の故渕田儀一等である。この二人は昭和初期における佐賀県酪農揺らん時代を形成しており、その業績について『佐賀県酪農二十年史』に詳しく記載されている。酪農の外農家の副業としての叺(かます)織りが盛んであった。これは終戦後の昭和23年頃から急激に高まり、38年頃が最盛を極めた。当時の村長故山田八郎、農協専務増田嘉一や中割の吉村竹次等の指導督励もあって、その生産高は年間30万枚に達し、当時村の副業収入は倍加した。その基礎を固めたのはこの立野である。 この村の東部八田江の濁流に沿って古刹(こさつ)の長泉寺があるが、その創立は寛永5年(1628)とある。現在も坂田小路とか六蔵小路の名称が残っており、井戸掘りの際には必ず牡蠣がらが出てくるので、昔ここら辺りは海岸だったことが証明される。 この地区は東与賀町内でも最も地面が低い上に、八田江の堤防にさえぎられて、集中豪雨ともなれば、全村の水量が集まる。したがって縦横の堀(クリーク)があって、いわゆる環濠集落の典型的なものである。
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鍛冶屋
鍛冶屋の北部は本庄町鹿の子と境をし、東部を実久に西部は上古賀に近接している。 鍛冶屋という地名は、その昔この地区は鍛冶職の人が多かったので、そのままずばり「鍛冶屋」と命名されたものである。一番の最盛期の明治元年の頃は、この村落は40戸余りもある大村落で住民のほとんどが鍛冶業を営んでいたらしい。その鍛冶といっても刀剣類や農器具ではなく、主として家の建築や船舶の製造に必要な和釘(当時は家釘とか舟釘とも言った)で、長さは8cmから12、3cmの長い釘であった。その形も洋釘と違って、帽子のついた釘ではなくて、T字型の細長く、しかも長大な釘であった。 この釘造りには鍛冶屋さんは、ふいごを使って石炭がらやコークスの燃料で強力な火熱をおこし鉄の原料をこれで熱しては打ち、打っては熱して作ったのである。その鉄を打つカッチンカッチンの高い音律は昼夜を分かたずこの村内外に響き渡り、明治の終わり頃までこの家業にいそしんでいたという。製品は主に佐賀市内や近くは筑後の大川や遠くは鹿島、塩田方面にも売却されたのである。ところがこの和釘に対して洋釘が製造され販売されるに従って、この地区でも漸次に衰亡に傾いていった。こうして明治5年頃より住民は次第に他の町村へ移転し1軒も鍛冶職はいなくなりその後継者は跡を絶ってしまった。この和釘最後の職人は、故北村弥七という。
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船津
船津は東与賀町で一番東北部に位置し、東は八田江を隔てて川副町西船津に相対し、北は立野に西は上町、南は今町に接している。言わばこの船津は八田江によって昔から産業上・交通上・生活上の便益や恩恵を受けて次第に繁栄し発展したものである。 この八田江は川副郷と与賀郷の境を南へ流れ、八丁井樋で有明海に流れ込んでいる。昭和17年佐賀江の枝吉樋門が完成して悪水を排出するようになったが、以前は大崎川の末端の本庄町西八田と北川副町東八田の樋管が起点であった。平常は水が少ないが雨期には枝吉樋門等を解放するので水量が増す。海口の八丁井樋の開閉で満潮時は淡水を導入することができる。即ち佐房(西川副)と今町間に、この八田江淡水導入の樋門ができて、水田の灌漑や飲料用水等必要欠くべからざる河川である。大正4・5年の『東与賀郷土調査』に次の記事がある。 「今カラ凡ソ三百年許リ前鍋島直茂公ノ時、成富兵庫茂安ノ設計ニカカワリ築キシモノデ、故老ノ話ニ本江ハ兵法上必要ナル所デアルトモ云ヒマス維新前マデハ藩主カラ莫大ナ資金卜多数ノ役夫トヲ遣ッテ浚ラヘヲナシテヰタノデ運送船ナドモ八田宿マデハ自由ニ往来ガ出来タソウダ今ハ北川副・西川副・本荘・東与賀ノ四ヶ村ノ組合デ支配シテヰマスガ僅カ漁船ガ船津ノ南マデ通フ位デアル」 このように遠く藩政時代から毎年2〜3回は公役として、その沿岸の住民数百人を出夫して、泥土さらえ作業を行ったのである。それで船津までは勿論のこと漁船や荷物船など上流の本庄町八田村辺りまで堤防の松並木を眺めながら出入りしたという。しかし有明海の干潟が堆積土のために漸次高くなって、この八田江も年々と浅くなり船の運航はできなくなりつつある。この事は『東与賀村の住民生業の変遷』として次の記録がある。 文政元年(1818)頃まで、船津川は大きく流れて船の通行便利にて、流域にある船津地区の住民はほとんど漁業を営んでいたものである。その後船津川が次第に埋まり船の通行が全く不自由となり、日と共に漁業は減少し現在僅かに1割足らずの影をとどめるのみ。現今では大部分商業や他の仕事で生計を立つるに余儀なくせられている。
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上町
上町については貞享4年(1687)の郷村一覧に、実久村の中に「上町」の字名が出ている。したがってこの頃には既に村落としての形態ができていたのである。昔は小高い島であって、その周囲や真ん中辺りに縦堀や横堀が幾筋も流れていた。今日なお「島の内」とか「島の中」等の地名が残っているのはその事を証明している。やはり人間の生活上この堀が必要で、この邑の住宅のほとんどが堀岸にあったり堀を裏側に持っている。そしてこの村にも「郷倉」の跡(副島氏宅の北側)があったが完全に堀に囲まれて、出入口はただ一つに限られていたという。 世帯数が少ない小邑であるが、昔からの地域としては現在の船津南や今町付近にまで広がりがあったという。 この上町の住民は昔より教育にも関心が深く、妙福寺及び近くに久納塾があったが、実久(上町)分教場の所在地としても忘れてはならない。
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下古賀
下古賀は上古賀の直ぐ南部に位置し、東は上町に西は田中に相近接している。昔から下古賀と上古賀および田中とは関係が深く、この三村に姻戚関係も多いことから、村の成立も相前後してできたのではないか。上古賀八幡神社の境内にある太神宮碑の側面に、蒲原治兵衛・徳久善蔵・徳久源之允等下古賀在住の姓名が刻まれてあるがその事情が推測される。その事は郷村帳にも「田中村の上古賀からの移住によってできた干拓村と見られる」と述べてある。 この下古賀は、明治10年頃より昭和8年に至る約60年間にわたり、わが東与賀村創世時代の役場所在地である。往時はわが村の政治・産業・文化発展の中心地として、中枢機関たる村役場所在地として、活動し貢献した村落である。その役場は石丸氏の家屋であるが既に改造されており、今に残るのは当時の石の門柱および石垣等で当時の遺跡としては、由緒もあり永久に残すに価値あるものと思われる。その門柱に長年月の間掲げられた因縁深い木製の村役場標札が残っているが、往時を偲(しの)ぶに充分である。 この由緒ある土地であるために小邑に過ぎないが昔からこの下古賀に人物が輩出している。故江口元太郎は、理学博士で海軍大学校の教授をつとめ特に潜水艦や電気器具の発明に貢献した。その従弟の故江口倉市は海軍大佐・故森川仁四郎は東与賀村第8代村長を務め、故福田与一は元助役、収入役を永年にわたり勤務、故徳久萬太郎も村会議員や農地委員の長老として活躍した。最近では故南川清一剣道七段(90歳で没)がいた。大正の初期以来実に60数年にわたり剣道一途に、現職を退いても自宅の小屋や庭先を武道場として、後輩の指南と指導に精進した。 下古賀における従来の戸数は42戸、明治40年の頃は30戸内外であったが漸次に増加した。それに町営住宅が建設され、昭和53年に24世帯(2棟建)が54年にも更に1棟が完成して、人口も一挙に140名の増加となった。この住宅に住む人の条件としては、元から東与賀在住者に関係ある人で町内の因縁関係者が多い。かくて現在の世帯数は従前の2倍を超えて88世帯にふくれ上がった。各棟毎に班長3名を任命し自治組織のもとに明るく健全な団地運営がなされている。
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今町
今町は東与賀町の東部を流れる八田江に沿って栄えた町で、東は川を隔てて川副町広江と相対し、北は船津に南は梅田に隣接している。東与賀町内で町の名があるのはこの今町と上町であるが、昭和10年頃の職業別を見ると、漁業が圧倒的に多かった。これが現在の職業別と相対して如何に変化したか、約50年間に戸数も随分増加しておりその推移進展の姿が明瞭である。 この今町には村落としての成立や地形それに各家の職業の上から、お宮が三つ祀られてある。平常は西の宮・中の宮・北の宮と呼ばれ、西の宮には天照皇太神宮・北の宮には沖仲大明神を祀り、中の宮は三界万霊を祀ってある。 今町の大きい特徴は漁民の漁業による大きい進展ぶりである。漁業の長老たる元町会議員の吉田吉郎氏は、その模様を次のように語った。 私は若い頃から小さい「あんこ船」に乗って有明海だけに止まらず、遠く朝鮮近海まで遠出をやった。初めは帆船の4・5隻であったが、だんだん船数も増し、船も改造されてエンジンによる機械船となった。捕る魚類は、グチが専門であったが、外にクチゾコ等も盛んに漁獲した。獲物がふえるとだんだん距離も遠く、鴨緑江付近や仁川あたりまで、袋網を持って航行した。出漁する時期は毎年2月上旬より5・6月にかけてが多く、梅雨の前は豪雨を警戒して帰還していた。大漁の折は大漁の旗を海風になびかせて意気揚々凱旋将軍気取りで帰ったが、途中では島原にも遊んで、若さを発散したことも今は昔語りとなってしまったのである。 この今町では昔から漁業青年の角力が盛んであった。漁民はいつも太陽のもとに潮風にさらされ、漁猟の重労働で筋肉も強じん、その上に暇を見ては技量を練るので力は強いはずである。昔より西方の雄大野村と共に東方の雄として互いに横綱格を競ったものである。往時、これらの逞しい漁業青年たちが、出場した東与賀町内での角力大会の盛況や、佐賀郡や県の角力大会更に佐賀市における佐嘉神社や護国神社祭典で活躍し優勝した勇姿は、なお町民の眼にも残っていて実に感慨も無量である。
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中割
中割は南北に流れる堀割りを境界として作出の東部に隣接しているが、行政上中割は大字下古賀に、作出は大字田中に分けられている。地名辞典によると「中割」というのは干拓や耕地整理の際の区切りのことで、「中切り」とか「中割り」という言葉からの名称である。こうして二つに区割りされた村落であるが、中割と作出は昔から密接な関連を持ち協同大和の精神で年々と繁栄している。 大正初年頃の本村の郷土調査では、大字下古賀の中にこの「中割」の字名が記され「作出」の字名が見当たらない。したがって「作出」の小字はその後にできたものと想像される。また中割の現在の戸数25戸でその半数以上が農業を営んでいるが、昔より庄屋をつとめた山田家をはじめ、宮崎・副島・吉村・園田等の旧家や地主層が多い。当時所有した水田の面積は今町や梅田付近にまで及び、それだけに敬神崇祖の念も厚かったという。
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搦
搦は東与賀町の南東部に位置した大村落で、その東側には八田江湖が滔々と流れて川副町と相対し、北側は梅田に隣接している。梅田はこの搦とは因縁が深く、昭和25年の頃まで「搦北」の名称で呼んでいたが、同34年1月よりここから分離独立したものである。古老の話ではこの搦は昔全戸が漁業を営んだが、次第に農業もやるようになり今では半農半漁の家が大部分である。 搦は一名を大搦とも言い、明治4年に田80町歩の新地開拓と共に、村内をはじめ他地区よりの移住民にて組織されたものである。 その旧藩主時代における耕地拡張事業として、次の記録がある。 佐賀郡東與賀村大搦 一、所在地及地区名 佐賀郡東與賀村大字飯盛大搦 二、事業者 舊藩主 鍋島直大侯 三、開發面積 田八十町歩 四、事業ノ顚末 イ、事業施行年月 明治元年着手 同四年竣成 ロ、施行方法 「埋築ニ要スル材料及經費(不明)ノ全部ヲ舊藩主鍋島直大侯ヨリ支出シ之レニ要セシ人夫等ハ元與賀下郷ノ住民ヲ以テ使用セリ」 ハ、經過及成績 「竣成後元下郷ノ人民ニ小作セシメ埋築費ニ對スル利子七朱ヲ小作料トシテ徴収シ明治三十一、二年頃鍋島直大侯ハ 埋築當時ノ契約ニ基キ一反歩二十圓ニテ小作者へ賣却セラレタルヲ以テ現今ニ於テハ悉ク村民ノ所有トナリ居レリ」 更に本村の郷土調査(大正4年版)には、搦村のことについて次のような記事がある。 「本村ハ南方一帯有明潟ニ沿ッテヰルノデ幾多ノ星霜ヲ經ルニ従ヒ南方に地所ヲ発展シツツアルノデアル平八搦ノ如キ今ハ現ニ一部落ヲナシテ新地タル形跡ヲ認メルノデアル 大搦ハ鍋島藩主ノ築成シタル新地デ八十町餘モアル今ハ悉ク水田トナッテヰル 亦授産社搦ハ明治十九年頃佐賀藩一般ノ卒ガ授産金ヲ擲ツテ築キシ所デ七十餘町モアル今ハ大抵水田トナッテヰル其ノ他小ナルモノハ幾多モアル 大正三年八月二十五日有明海岸一面高潮ノ被害ヲ受ケタ全搦の堤防モ之レガ為ニ破壊シテ稲作全滅スルノ惨状ニ陥ッタノデアル」 搦には集落の外にも、栄徳(新搦)・社搦・歳徳・八段搦(西栄徳)等の搦名がいくつも残っている。こうした搦は昔の先輩たちの知恵と努力によって年々と干潟から拓土へと醸成されたものである。こうして立派な干拓ができて見事な水田が完成すると、まず神に感謝し豊作を祈願するのが人情である。このために歳徳には新地大明神を祀り、新搦には弁財天を祀った跡があるが、これは山田徳次郎が献上したと言われる。また西栄徳には大明神を祀ってあるが、俗に雨乞いの神様と崇敬されており、干ばつが続くとこの神様のお顔に泥を塗ると不思議にも雨が降ると言われている。
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梅田
梅田は昭和12年から15年の頃まで戸数僅かに4・5軒に過ぎず、家屋の位置によって搦北・中割・今町の各字別に所属していた。終戦後は外地からの引揚者や今町その他の村からこの土地に移住して来た。かくて昭和25年の頃は、「搦北」の名称となり戸数も20戸から30戸近くに増加した。昭和34年1月、当時の村長故碇壮次の頃「搦北」を改称して、新しい「梅田」という字の命名式と共に、新築成った公民館で盛大な竣工式が挙行された。ここに「梅田」という新しい邑が誕生したのである。 この梅田の地形は南北に細長く、東部を八田江川に面して川副町広江と相対し、北は今町、南は搦に近接している。この「梅田」という村名については、次のような因縁がある。即ち昭和33年4月当時の区長山田耕平(町議会議長)がこの村落の青年たちに自宅に集まって貰い、その名称について無記名での募集をしたのである。この時面白い名称が出て来たがその中で「日の出」「朝日」「梅田」の三つが一番上位に浮かび出た。この三つを更に慎重に詮議したが、その中で新宮に天満宮を祀ることに決めていたことから天満宮に最もゆかりの多い「梅田」という名前が決定したのである。その名付親は、西村宗太郎(広江に居住)であった。 区長は、初代=小柳政七、2代=三浦栄治、3代=宮副武一、4代=高柳重三郎、5代=山田耕平、6代=北村豊を経て第7代の吉田謙一郎に至っている。世帯数は37であるが、水産業が一番多く9、次にサービス業6、公務員4、その他製造業・卸小売・運輸通信・教職等で、農業はただ1戸に過ぎない。 梅田と広江との間を流れる八田江は、元は随分広かったが、大正13年の頃は渡し舟であった。この渡し舟も1艘だったので、両岸よりこの船に綱をつけて置き、渡りたい客人がこの綱を引っ張っては川を渡ったものである。現在の橋がかかったのは昭和35年の頃でこれに依って、東与賀と川副との交流がはじまり交通上、産業上その他日常生活にも非常な便益を被った。もともとこの梅田の土地は、八田江改修の際泥土の置き場として積み上げられ、その後は堀と提防の中間に広い埋立地を作った。この埋立地が戦後になって有償登記されて、新開拓地となったのである。
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梅田誕生祝賀式
昭和34年1月吉日新村の誕生を祝って、盛大な祝賀式を開催した。時あたかも新春を迎えて間もなく、初潮の満ち来る八田江には大漁の幟を押し立てた幾十艘の入船が朝陽に輝いていた。新装成った晴れの公民館には、万国旗のはためく中、参議院議員福岡日出麿をはじめ村内外の来賓や梅田の大人も子どもも相集りて、豪華な公民館の新落成を祝い、梅田村誕生という華やかな式典であった。その時の記念に当時の村長碇壮次は「和気満堂」・教育長故副島忠一は「大和一致」の掛軸および中学校長故山口孝行の「梅の絵」小学校長鶴清の「村誕生す苦節二十年今朝の春」の祝句等を寄贈して、新興村の誕生を祝福した。
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上古賀
上古賀は東与賀町内では最北端に位置し、北は本庄町鹿の子と境し、東は鍛冶屋に西南は田中および下古賀に隣接している。現在の世帯数27であるが、農業・製造業・建設業・公務員・卸小売・寺院等、農村集落としては多種多様の職種である。 上古賀という地名については、古来この周辺一帯は窪地(くぼち)であってその「窪(くぼ)」が「空閑(くが)」となまり、更にその「くが」が「古賀」に変わったものと言い伝えられている。貞享4年(1687)の郷村帳には、田中村の小字に「上古賀・新村」と記載されている。 古老(故船津丸忠作)の談話によれば、現在地の子ども遊園地付近は昔より天神屋敷と呼ばれ、雑木山の中に小宇の祠を祀ってあった。その場内中央に幹の胴回りが大男5人で手をつなぎ合わせてやっと抱きかかえる程に大きい楠の巨木が天空にそびえ立っていた。樹齢も幾百年を数え、遠く南方の有明海を航行する船舶や漁船が、北方を見定める目標であったらしい。この楠の大樹も後日伐採され売却されて、現在の八幡神社新築費用や免田購入の資金になったと語り伝えられている。 しかもこの大楠の果実が、かちがらすその他鳥類のよい餌となって喰われたり飛散して、この村落には楠の老木があちこちに散在し生育し繁茂して、四季折々の風情を飾っている。かくて現在でも「天神やぼ」「鴨村」「かむら」等の昔の地名が残っており、往時を偲(しの)ぶことができる。 この村の住民は敬神崇祖の念に厚く守護神として、西部に八幡神社と天満宮を合祀し、東部には菩提を弔う栄蔵寺の伽藍と共に、その境内に「勇敢なる水兵」の記念碑とその墓地がある。記念碑の側に公民館を設立して、これらを中心に庶民一和の精神で昔からの良き伝統を生かしつつ、新時代に即する村落の平和と発展に努力している。 特に児童・生徒の教育についても強い関心を持ち、終戦後町内では一番早目に地区育友会を結成して、地域ぐるみによる教育活動を推進した。従って村落行事の成人式・川神祭・祗園・クリスマス等の諸行事も育友会行事と不離一体的に開催したり、学童のいない家庭も準会員となって全世帯がこれに参加していた。また男子の中年層と老年層の三夜待や女子の六夜会・葉桜会、更に老人層の福寿会等それぞれのグループによる親睦と研修につとめ、それらがこの村落の繁栄に大きい効果を挙げている。
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田中
田中は東与賀町の北部で下古賀と下飯盛の中間に位置しており、近世初年の干拓村。正保絵図に村名が見え、貞享4年(1687)の郷村帳にも田中村の小字に「上古賀・新村」と記されている。 この村の成立について明確な資料は無いが、現在の公民館所在地(天神宮付近)は、その昔「慶徳庵」と称する寺院があった。古老の故雪竹平吾の説に依ると、この付近に大鳥居と寺門の二つがあったらしい。「慶徳庵」は佐賀市本庄町鹿の子慶誾寺の末寺で、4代目の禅師が宝永6年(1709)これを創建したという記録が残っている。庵の広さも5畝26歩もあり、その側に建っていた天満宮も立派な形態を備えていたという。 この慶徳庵を中心にして当時は土地が高く、村落の南部は低くその高低の差は1m以上もあって、村の南部を東西に流れる堀がその境界となっている。去る昭和28年の集中豪雨で本町は大水害を被ったが、この時堀の南部の家屋はどこも水深2・3mも水浸しになったが、北側の住宅辺り僅かに床下浸水で難をのがれたのである。この高低の差がある事は、昔より山あり岡ありの証左で楠をはじめどんぐり・欅等の大樹や竹薮が生い繁り、現在でも森や林の多いことが特徴である。 この村の中央の堀に囲まれた島の中に「郷倉」があった。これも伝承に依れば「郷倉の倉番」となる者は、士族の中で二男か三男坊に限られて命令され懸命に守り続けたという。当時この倉番には鍋島村から雪竹、北川副村から木原、本庄村から重松等ここに移住し、報酬も5石5斗の郷倉番給を貰っていたらしい。かくてこの付近にその分家ができたり、新宅も建築されて漸次拡大したのである。 この邑も戦時中は他村と同様に、人海作戦で共同田植えに励み共同炊事や育児にもはまって、戦争完遂のため懸命に努力した。しかし悲しい敗戦を迎え多数の戦病死者を出し思えば断腸の極みである。 田中地区に関連して東与賀村営による火葬場と避病院があった。火葬場は光徳寺の西方約100m近くに在って、昔はここで死者の火葬をしたが民家に余りに近接している事で現在の場所に移転された。避病院は故山田八郎村長の時代にこの村の西南部に新築され、現在は一住宅となっている。大正・昭和の戦前の頃は毎年夏期ともなれば、赤痢・チフス等の伝染病が流行して、ひどい時には病室は満員となり佐賀市本庄町大井樋の避病院へまで患者を運び込んだ事もあった。戦後は飲食品衛生の普及と医学の進歩のために、伝染病もほとんど絶滅した。したがってこの避病院も昭和41年6月に閉鎖され、昔の遺跡となっている。
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作出
作出は東与賀町の中央よりやや南に位置して南北に細長く、北は町役場や農協等の敷地をも包含し、南は東西に走る町道を挟んで新村に連なっている。現在の世帯数は127で本町内では大村落の一つに数えられている。 昔は「作土井」という名称で呼ばれていたが、今は「作出」に改名された。この村の西部にある住吉の「裏土井」が、この邑の中央を東へ連なっている土井を「作土井」と言うことから、この名称が生まれたことは間違いない。ここに住む檀徒へ本庄町の常照院からの案内状に「造(つく)土井」の宛先が書かれてくるが、「作土井」の前は恐らくこの「造土井」の字名であったろうと推察される。もう数百年も前現在の小中学校の直ぐ南側にあった土井に次いでこの「作土井」が築かれ、更にこの邑の南方1㎞の箇所に「松土井」が構築されその遺跡は現在も残っている。このようにして、わが東与賀の土地は、次々に干拓され南部へ伸びていったのである。この作出も昔は南・中・西周路の三つに分かれていたが、昭和30年の頃から1班より8班に分けられ大字は田中に属している。 この集落で地理上目立つのは、日常生活に最も関係の深い堀、クリークのことである。どこの村にも縦と横の堀が掘られているが、この作出と中割は縦堀ばかりで横堀は極めて少ない。これは上流の多布施川から流れて来る水流の関係で、水害や干魃の被害から逃れるためであるらしい。しかもいざという急場を考慮して、至る所に井樋を設けてその対策を講じている。ぼんぼん井樋をはじめ数多くの井樋が掛けられており、一時に溢れる水害や日照りの際の水貯蔵に役立てたのである。
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新村
この村は大正5・6年の頃までは「作出新村」と称し、作出と新村の区長が毎年交替して務めていた。それだけにこの二つの集落は接近しており、歴史的にも因縁が深かった。その後二つに分村して現在の新村として独立したものである。 昔はこの村の北部に大きい堤防が東西に走り、西村落の住吉神社北側の土堤と連続していた。即ちこの堤防は住吉方面より新村全体の北側を東部に抜け、村落の東側より北方に向かい作出に達していた。しかしこの土堤も今ではすべて水田と化しているが、それに掛けられた井樋の樋管が残っていて、昔の面影を偲(しの)ぶことができる。横尾清輔の亡母の話を総合すると、その自宅付近に倉庫があったり、免田近くに郷倉もあったらしい。この付近は一面の海岸であって、大小の船が往来していたこと、その船舶には米俵を積んで運んでいた事も確実に覚えていると言う。
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中村
中村の「字名」は、貞享年間(1684〜1687)の郷村一覧表にはなく、明治以前に住吉から分離独立したとの証言がある。それは住吉との境界に「鶴(つん)の内」と呼ばれる約3反歩余りの免田があったが、協議の結果その中から約7畝歩を中村が譲り受けて、現在も耕作しているという。この「中村」という地名は、全国的に見ても一番多く、「村の中央に当たる」とか、「中心部の役割」等と解釈される。実際に東与賀の現地図を広げて見ても、この中村は東西南北のほぼ中央に位置して、明治の頃から油屋・米仲買い・菓子屋・生(なま)がわうどん屋があり、また郷倉の跡もあることから、確かに産業上・経済上の中心地であったようだ。 古老の説明によると、この中村に明治以前より住み着いたのは12〜3戸で、その中でも山田千三(宣之の祖父)吉富藤兵衛・小野勝次等が一番の旧家であるという。以前は周路を北と南の二つに分けて、ごみくり作業の公役をやっていたが、後には北西・南東・南西周路となり、現在では戸数も増したので、1班から6班までの隣保組織である。 この村人の特徴は、昔より勤労意欲が旺盛で特に農家の副業としての藁細工に本腰を入れ、叺(かます)織り作業は東与賀村内でも最も熱心であった。当時名農協長として賛仰された故増田嘉一の指導督励と相まって、この中村の成績は抜群で売上額は裏作の麦代金の数倍に達したという。その頃副業振興のため佐賀郡農業組合主催で「叺織り競技会」が郡内の各地で開催されたが、この中村より優秀な選手が推せんされ出場して、優勝したこともしばしばであった。優勝のためには技術の熟練が大切だが、この村の人々は早朝5時に起き出で、晩は12時までもこの叺織りに専念したのである。そのためには幼い子ども達も学校から帰宅すると、叺に必要な小縄をなったり、叺の耳を鋏で切り取ったりして加勢せねばならない。まさに一家総動員による叺織り態勢であった。
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住吉
住吉は東与賀町の中央より少し南部に位置して、北は町道を隔てて中村と境し、西側は大きい縦堀を境に大野に面している。現在では緑野の美田に包まれた農村であるが、住吉神社の由緒にもあるように、この地域一帯は昔の有明海岸であって、水が澄んでいるところに青い葉っぱの芦が繁茂していた。このことから今日の「住吉」の地名が生まれたそうである。神社の直ぐ北側を東西に走る道路は「裏(うら)ん土井」と呼ばれ、昔の土堤の一部だった石垣も残っており、その由来も証明されるのである。 昔は純農村でほとんどが農家ばかりであったが、漸次に漁業も増し商業その他の職種も増加して町内でも屈指の村落に栄えていった。 この村落の特徴も産土神としての住吉神社を中心に、住民が和衷協同して、産業振興や文教厚生に努力したことである。即ち文教方面では明治初年には寺子屋の私塾があり、わが国の教育令発令前すでに、学校らしい教育の場が展開されていたのである。通称を「やっすん学校」と呼んだが、現在の石丸氏の自宅がその跡であった。産業面では何としても農業が主体で、1戸当たり耕作面積平均して180アールを越えており、本町内でも中村に次いで多い方である。それだけに農業技法に関しても研究熱心で、昔から螟卵採集・深耕(馬使い)・機械灌漑・麦踏み・株切り等、個人でも共同作業も極めて熱心であった。
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中飯盛
中飯盛は東与賀町では北西部の一番端に位置し、北は本庄町上飯盛に西は西与賀町元相応に境し、南は下飯盛と相接している。 この中飯盛の由来について、古老の古川茂士(元東与賀村の助役)の談話を記述したい。 「昔、有明海の干拓事業の際に、飯場(飯を炊いて多くの人夫に食べさせる場所=飯を盛る所)が3か所次々にできた。その第1番目の飯場という意味で上飯盛=佐賀市本庄町、次の場所を中飯盛、3番目を下飯盛と呼ぶようになった由。この中飯盛・下飯盛と大野を併せて大字飯盛と称するようになったので、大野にもこの飯場があったとの説も残っている。この村落内の悟真寺は、山号を飯盛山と呼ばれるのもここに起因するものである。」 中飯盛は産業や教育方面についても東与賀村でも先進地であった。特に生産組合や婦人会活動等の実践記録も残されていて、よき伝統は今日も脈々と引き継がれている。 まず生産組合の活動であるが、活動の拠点は旧公民館であった。この旧公民館は昭和28年の大水害後に、当時の佐賀県立佐賀中学校の剣道場を払い下げて貰い、移転し改造築したものである。この旧公民館を諸行事や生活改善の外生産組合括動に利用し活用した。戦時中における農繁期の託児所や共同炊事(当時佐賀県で最初)や、戦後いち早く公営結婚を創始して本村における生活改善ののろしを上げて実行にも踏み切ったのである。このことは明治40年の頃、本村でも他に先がけて既に実行組合を組織し、現在の農協の元祖を作っていたからである。 また地域における子ども・学童の教育にも意を用い、当時の小学校男児を集めて悟真寺で「学友会」を始めた。その他大人はもちろん青年層・婦人会・少年たちに至るまで、浮立・七福神・川神祭り・荒神祭・ほんげんぎょう・初午等伝統的で楽しい諸行事を励行してきた。これらの麗しい村の行事も時代の変遷に伴ってほとんど姿を消したが、最近になってこの村に「浮立」が見事に復活された。この村のは天衝舞浮立の伝統を踏むものであるが、徳久弘を中心に村の長老・先輩等が指導者となり農閑期を利用して練習と花笠や衣装作りが毎晩続けられた。昭和57年5月元町長故碇壮次の胸像除幕式が役場の広場で挙行されたが、これを祝福して初めて公開され、華麗壮厳な浮立の舞が晴れた5月の空の下で脚光を浴びたのである。
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辻城(つうしろ)の由来
中飯盛の南部の端に「辻城」と呼ばれる地所がある。いつの頃かは不明だが「辻栄助」の一族が住んでいた。この栄助じいさんは正直者の上に仲々の働き手で、毎晩毎晩この村落45戸の周りを火の用心の拍子木をかちかちと鳴らし回ったのである。その謝礼として毎月の1日に各戸から白米を少しずつ集めて贈ったらしい。もともと栄助じいさんの家業は、竹皮草履や下駄の鼻緒作りであったが、よく売れて古老の古川茂士等幼少の頃は買いに行かされたと述懐する。その栄助じいさんの子に「吉次」という少年がいたが、大変な秀才で当時この村の「学友会」の世話をしたりみんなの面倒を見てくれて今でも忘れられないという。ところが何時とはなく栄助さん一家は佐賀市に転住され、相当に活躍しているとのことである。つまり「辻」という地主の家跡で、その屋敷の東北の隅に塔の形の墓石が残っている。この屋敷を中心に耕作田地を「辻城」と呼ばれているが、今日ではA氏の住宅が建っている。
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下飯盛
下飯盛は中飯盛の直ぐ南部に隣接しており、その下に位置することから「下飯盛」の地名が生まれたものと思われる。南北に長い集落であるが、その中央に八幡神社を祀り北部に開田庵、南部に龍田寺と地蔵院の3か寺を擁して昔より民家も相当に多かったのである。 『慶長絵図』によれば下飯盛は、佐賀平野の南限集落として、「二千三十七石九斗二合」とある。この飯盛は現在の佐賀市本庄町の上飯盛と見られ、戦国時代の開拓地であろう。下飯盛は上飯盛の直ぐ南部に在るところから、上飯盛からの移住によってできた干拓村で、正保絵図に「下飯盛村」と見える。万延元年(1860)の郷村帳には、中飯盛村の小字として「大屋舗小路・江副小路・辻小路」とあり、下飯盛村の小字には「長八小路・石丸小路・山田小路・道手小路」と記されている。 『佐賀県の歴史』では、7~800年前はこの辺一帯は海だったらしく、飯盛から北部を小津郷という海岸であったとのことである。『佐賀郡誌』の一節に次のような記事が載っている。 「上飯盛は字の如く、上飯を盛るという意義にて中古時代は飯盛以南は一面筑紫潟なりしが、現今の東与賀即ち大野・住吉・新村の海面埋築の際は、新地方の役所を置き飯の炊出方を為し、之を盛りて公役へ配付せしと云う現今の与賀高等小学校の敷地となり」とあるように、お上のご飯を盛ったことから名がついたという。上飯盛の下に村ができたのを下飯盛といい、その中間を中飯盛と呼ばれたと思われる。 ある資料で当村落内の寺院の創立を調べたら、龍田寺の創建は文明2年(1470)に梅屋和尚を開山として始められ、開田庵の建立は享保2年(1717)となっており、佐賀龍泰寺の高弟峰月圓澄和尚を法地開山としたとある。当時この開田庵の一帯は潟地で満潮の時は漁舟が出入りしたが、後には土地を住民が開いて田畑を作り庵を建立し「開田庵」と名付けたとあること等から、この辺一帯は自然埋没や干拓などによってでき上がったことが証明される。 また古来ここの住民は敬神崇祖の念に富み、ほぼ中央に守護神の八幡神社を祀り、北部と南部には開田庵・龍田寺・地蔵院の三寺を開いて豊かな生計を立てて来た。
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大野
大野は東与賀町の最西南部に位置する大集落である。 この大野に因んで『佐賀県干拓史(坤)』の「與賀地区の干拓」の記事の中に、「大野土井石垣」についての記録が載っている。その一部を要約したい。 「即ちこの土井筋20町余の地域は、藤津郡竹崎の真北に当たり有明海では一番風当たりが強く、潟のもとになる葭(よし)も生えない場所である。正徳年間(1711〜1715)の頃暴風と高潮のため、大野・住吉は言うまでもなく、鹿の子・灰塚・十五田畷(現在の佐賀市本庄町)まで大水害を被った。そのため佐賀藩では御城下までも災害を受けては大変だとして、領中から多数の割夫をかり集めて防波堤となる石垣を築いたのである。ところがたびたび暴風と高潮に見舞われて石垣は崩れ、その後は修復することもなく土井外にあって潟に埋まった」という。 また当時の潮止めの工作方法や、この付近の小搦は天保年間(1830〜1843)以後の干拓であること、事業者の名前と思われる搦の名称があるから、多分民営であろうと説明している。 以上のことは現在の大野の西区付近の土井外田より、住吉の南部土堤に至る土井の外線に西側から「高太郎割・伊勢ェ門・権右ェ門・直十・林右ェ門・利右ェ門」等の小搦が、東方へ一列に並んでいる。これらの人名は当時この小搦を築いた際の事業者か発起人を代表する名前であろう。
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大授
大授は東与賀町での最南端に位置を占め、世帯が、堤防沿いに東西に長く広がっている。昭和の初期の入植当時は、ほとんどが農業を営んでいたが、半世紀を過ぎた今日では職業も多様化して、漁業・大工・公務員等種々である。 この大授の村落を抱擁する大授搦は、東西1.560間・南北650間、面積は実に300余町歩の茫洋たる一大干拓である。大正15年に工を起こし昭和9年に竣工するまで9か年の歳月を要したが、この干拓企業組合設立代表者は、当時の村長山田八郎外17名となっている。この人たちの献身的な努力によって佐賀県はもとより全国でも有数のこの大授搦が完成したのであるが、その生みの親は何としても当時作土井に在住した故原作一翁であり、翁がただ一介の農夫でありながらこの破天荒の大事業を見事に貫徹したのであった。この原作一翁の卓見と気魂とは、大授搦のある限りそして東与賀の存する限り忘れることのできない大恩人である。 大授という村落の名称は、大搦(おおがらみ)の大と授産社搦の授の上についた頭文字をとって「大授」と名づけたとのことである。この大授の守護神としては、第一区には天照大神を昭和13年に、第二区では龍王さんを昭和8、9年の頃に祀り今日に至っている。そのお祭りは毎年4月20日と10月20日の2回でいずれも幟(のぼり)を立て戸主全員が集まり神酒を飲み供饌を食べて、五穀豊饒を感謝するのである。 大正15年5月10日干拓の起工式が、東与賀小学校講堂で盛大に開催された。
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実久
実久は東与賀町の東北部に位置し、北は堀を隔てて本庄町と接し、東は立野、西は鍛冶屋、南は上町に相接している。『正保絵図』に「実久」の村名が見えるが、有明海の干潟が干拓へ移行していった鎌倉時代の海岸地帯とみられている。万延元年の郷村帳には実久村の小字に「鍛冶屋・上町・島の内」が見える。 実久の地名について地元の人々の伝承によれば「実久の郷」よりきており、その郷主は故山口元助である。この山口元助は当時石高切米5石5斗の鉄砲足軽で、その大組頭は鍋島主水であった。その頃この村落の東の隅に「郷倉」があって、藩政時代から籾(もみ)を貯蔵していた。一面「実久津」の名称も残っていて、昔は海岸線か河川に近く、籾や穀類を船で積み出す場所だったことも考えられる現に「喜十屋敷」の名も残っているが、これは故平方喜十の屋敷のあとで、その頃、領中で15石の組頭であったという。水田圃場整備事業の際、この喜十屋敷の跡から数個の遺体や位牌等も掘り出されたそうである。その他、なまず屋敷とか田中屋敷等の旧地名が残っており、田中屋敷には墓地が現存している。 この実久は他の村落に比べて土地としては狭い方であるが、龍水院と円通寺の2か寺があり、すでに廃寺となった威徳寺と潮音寺があり、四つの寺院が連立していた。このことは実久が東与賀村発祥の地として人口も多く戸数も多かったのではないかと推定される。実は本庄町鹿子八幡宮から御神体の一つを分けて、東与賀町船津八幡宮へ移した時の絵巻物が、この集落の旧家村岡氏宅に保存されている。それらと考え合わせるとこの実久は立野や鍛冶屋と共に、東与賀町でも一番早く開拓されたとちではないかと思惟される。ところが鍛冶屋における鍛冶職の衰退と共に、戸数も減じたがその際に実久より鍛冶屋に移住者が多かった。現在鍛冶屋に住む井原・平方・御厨等の姓はその代表であって、元々は実久の子孫であり分家である。