田中

田中

■所在地佐賀市東与賀町田中
■年代近世
■登録ID1144

田中は東与賀町の北部で下古賀と下飯盛の中間に位置しており、近世初年の干拓村。正保絵図に村名が見え、貞享4年(1687)の郷村帳にも田中村の小字に「上古賀・新村」と記されている。
この村の成立について明確な資料は無いが、現在の公民館所在地(天神宮付近)は、その昔「慶徳庵」と称する寺院があった。古老の故雪竹平吾の説に依ると、この付近に大鳥居と寺門の二つがあったらしい。「慶徳庵」は佐賀市本庄町鹿の子慶誾寺の末寺で、4代目の禅師が宝永6年(1709)これを創建したという記録が残っている。庵の広さも5畝26歩もあり、その側に建っていた天満宮も立派な形態を備えていたという。
この慶徳庵を中心にして当時は土地が高く、村落の南部は低くその高低の差は1m以上もあって、村の南部を東西に流れる堀がその境界となっている。去る昭和28年の集中豪雨で本町は大水害を被ったが、この時堀の南部の家屋はどこも水深2・3mも水浸しになったが、北側の住宅辺り僅かに床下浸水で難をのがれたのである。この高低の差がある事は、昔より山あり岡ありの証左で楠をはじめどんぐり・欅等の大樹や竹薮が生い繁り、現在でも森や林の多いことが特徴である。
この村の中央の堀に囲まれた島の中に「郷倉」があった。これも伝承に依れば「郷倉の倉番」となる者は、士族の中で二男か三男坊に限られて命令され懸命に守り続けたという。当時この倉番には鍋島村から雪竹、北川副村から木原、本庄村から重松等ここに移住し、報酬も5石5斗の郷倉番給を貰っていたらしい。かくてこの付近にその分家ができたり、新宅も建築されて漸次拡大したのである。
この邑も戦時中は他村と同様に、人海作戦で共同田植えに励み共同炊事や育児にもはまって、戦争完遂のため懸命に努力した。しかし悲しい敗戦を迎え多数の戦病死者を出し思えば断腸の極みである。
田中地区に関連して東与賀村営による火葬場と避病院があった。火葬場は光徳寺の西方約100m近くに在って、昔はここで死者の火葬をしたが民家に余りに近接している事で現在の場所に移転された。避病院は故山田八郎村長の時代にこの村の西南部に新築され、現在は一住宅となっている。大正・昭和の戦前の頃は毎年夏期ともなれば、赤痢・チフス等の伝染病が流行して、ひどい時には病室は満員となり佐賀市本庄町大井樋の避病院へまで患者を運び込んだ事もあった。戦後は飲食品衛生の普及と医学の進歩のために、伝染病もほとんど絶滅した。したがってこの避病院も昭和41年6月に閉鎖され、昔の遺跡となっている。

出典:東与賀町史P1193